『アラベラ』




       第一幕 ホテルの部屋にて


 十九世紀中頃のオーストリアは一人の謹厳実直な皇帝により治められていた。
 フランツ=ヨーゼフ帝。彼なくしてこの時代のオーストリア、そしてハプスブルク家を語ることはできないであろう。
 弱冠十八歳で帝位に就いた彼は聡明かつ毅然とした態度を崩さない人物であった。生真面目であり執務が滞ることはなかった。美貌で名高い皇后エリザベートの存在でも知られているが彼はこの古い帝国の皇帝として存在していた。
 その彼の下にオーストリアはあった。この時代に造られたギリシアの神々の像ではゼウスの顔は彼のものになっている。それが示すように彼はオーストリアの柱そのものであった。
 その彼の下にある帝都ウィーン。この街は古くより音楽の都として知られている。
 ハプスブルク家の宮殿シェーンブルンの鏡の間でまだ子供のモーツァルトがマリー=アントワネットにプロポーズをしたこともある。ベートーベンもこの街にいた。そしてハプスブルク家の君主達はその音楽を心から愛し育てた。そしてこの街から音楽が途絶えることはなかった。
 この時代のウィーンは繁栄を極めていた。この巨大な帝国の心臓として栄え夜が訪れることはないようであった。人々は投機に沸き、華やかな舞踏会が日々繰り広げられていた。
 だが光もあれば陰も必ずあるものである。
 華やかな中にも黄昏にその身を沈めようとしている者達もいた。ウィーンの豪華なホテルの一室のことである。その日は懺悔の火曜日であった。
 ホテルの豪華な一室で年老いた女がカードを切っている。
「さて、はじめますぞ」
「はい」
 その向かいには初老の男女が座っている。どうやらこの二人は夫婦の様である。
 男の方は立派な服を着た男である。八の字の口髭をワックスで固め頭はもう白くなり髪の毛もかなり薄くなっている。だが背はそれなりにあり姿勢もいい。堂々とした風格の持ち主であった。
 女の方もいい服を着ていた。だが男とは違いやや老けて見える。髪は白いものがかなり混ざりそれがその老けた様子をさらに強いものにしていた。
 老女はどうやら占い師の様である。黒っぽい服に身を包み頭にはフードを被っている。その手にあるカードはタロットであった。ジプシーのようである。
 占い師はカードを机の上に一枚ずつ置いていった。所謂ケルト十字の並べ方である。
 それから一枚一枚表に返していく。それを見る他の二人の顔が強張っていた。
「ふむ」
 占い師はそれを見て呟いた。
「どうなのですか?」
 向かいにいる二人はそれを受けて問うてきた。
「そうですな」
 彼女は最後のカードを表にして、それを見てから顔を上げた。
「いいようですな」
「本当ですか!?」
「はい」
 彼女は二人に対して答えた。ここで扉をノックする音がした。
「こんな時に」
 女はそれを見て顔を顰めさせた。
「ズデンコ」
 そして男の名を呼んだ。
「お母さん、何?」
 するとすぐに小柄な少年が部屋に入って来た。
 蜂蜜がかかったような金色の髪に透き通る様な青い瞳をしている。肌は白くまるで雪の様である。今は男の服を着ているが服さえ変えれば少女といっても通用する程であった。
「伝えて」
 女はズデンコと呼んだ自分の子供に対して言った。
「父は留守、母は寝込んでいると。いいですね」
「わかりました」
 ズデンコは頷くと扉に向かった。そしてほんの少しだけ開け応対をした。暫くして扉は閉められた。
「何だったの?」
 女は問うた。
「請求書です、また」
 ズデンコは暗い顔をして答えた。
「やっぱり」
 彼女はそれを受けて深い溜息をついた。
「もう請求書で埋もれそうね」
「アデライーデ」
 だがここで男が彼女の名を呼んで嗜めた。
「今は静かにな」
「わかったわ、貴方」
 そう言って夫であるヴェルトナー伯爵に頭を下げた。
 実は彼は伯爵でありそれなりの身分にある。若い頃は騎兵隊に所属し太尉であった。だが軍を退役してからは泣かず飛ばずであり今は博打で生計を立てているという有様であった。無論それで生きていけるわけはなく今や破産の危機にあるのだ。
 今彼等は未来を占ってもらっている。そうでないと不安で仕方がないのだ。
「心配はいりませんよ」
 占い師は二人を宥めるようにして言った。
「幸福が近付いています」
「本当ですか!?」
 二人はそれを聞いて身を乗り出した。
「御主人」
 彼女はヴェルトナーに対して言った。
「貴方は先程大金を失われましたね」
「はい」
 彼は憮然としてそれを認めた。
「よく御存知で」
「はい。このカードが教えてくれました」
 彼女は答えた。
「それはわかっていたわ」
 アデライーデはそれを聞き首を横に振った。
「けれどやっぱり」
「言わないでくれ」
 ヴェルトナーは妻に申し訳なさそうに言った。
「わしの甲斐性がないばかりに」
「ですが御安心を」
 占い師はまた二人を宥めた。
「一人の軍人が現れます」
 そう言って戦車のカードを見せた。
「軍人が」
「はい」
「それでは何もなりません」
 アデライーデはそれを聞いて絶望しきった顔で首を横に振った。
「軍人が一体何の役に立ちましょう」
「軍人」 
 部屋の隅に行き書類の整理をしていたズデンコがそれを聞いて呟いた。
「マッテオのことかしら」
 だがそれは二人には聞こえなかった。
「軍人はお金を持ってはいませんもの」
「わしもそうだったしな」
 二人は溜息混じりにそう呟いた。
「そう思われるのは早いですぞ」
 だが占い師はここでも二人を宥めた。
「それは彼の本質ではありません」
「違うのですか」
「はい。別の方角から他の者が来ています。それが花婿です」
 そして皇帝のカードを見せた。
「皇帝」
「はい。その花婿は貴方達にとってまさしく皇帝そのものとなりましょう」
「本当ですか」
「カードはそう示しています。ただしそれは遠くからやって来ます」
 運命の輪のカードを見せた。
「遠くからですか」
 ヴェルトナーが問うた。
「はい」
 占い師はそれに答えた。
「そこには大きな森が見えます」
 隠者のカードが出て来た。
「森」
「それはエレメール伯爵かしら」
 ウィーンでも名の知れた貴族である。裕福でかなりの領地を持っている。その中には見事な森もある。
「そこまではわかりませんが」
 占い師はそれには言葉を濁した。
「少なくとも素晴らしい方であるのは事実です」
 太陽のカードが出された。
「それはいい」
「素晴らしいわ」
 二人はそれを聞いて顔を明るくさせた。
「しかし」
 だが占い師はここで顔を暗くさせた。
「ただ一つ不吉な予感が」
 吊るし人のカードが出て来た。
「幸福の前に一波乱ありそうですね」
「嫌ですわ」
「しかし御安心下さい。このカードは実はそれ程不吉なものではありません」
「そうなのですか」
 二人はタロットにはそれ程詳しくはないのである。
「ところで」
 占い師はまた尋ねてきた。
「御二人の娘さんのことですが」
「はい」
 見れば占い師は女帝のカードを取り出してきた。
「御一人なのでしょうか」
「え、ええ」
 二人はその質問にギョッとしながらもそう答えた。
「そうなのですか」
 占い師はその答えに首を傾げていた。
「実はカードが伝えているのですが」
「はい」
「もう一人の娘さんに危険が訪れようとしています」
 そこでもうう一枚女性を現わすカードが出て来た。女教皇のカードである。それはさかさまになっていた。
「タロットは少し違いまして」
「はい」
 彼女はここでカードの説明をした。
「カードが逆になっているとその示す意味も違ってくるのです」
「といいますと」
「これは不幸を示しているのです。もう一人の娘さんの」
「不幸を」
「けれど不思議ですね。こちらの方も最後には幸福になります」
「私のことなのかしら」
 ズデンコはそれを聞いて何故か心配していた。
「それとも姉さんの」
「ねえお母さん」
 気になったので母に話しかけようとした。だがアデライーデはそれを拒絶した。
「御免なさい、ズデンコ。今は静かにしていて」
「はい」
 母にこう言われると仕方がなかった。彼女は下がることにした。
「あの子は?」
「あの実は」
 アデライーデが占い師に対して説明をした。
「実はあの子は女の子なのです。このウィーンで二人の女の子を身分に相応しいように育てることは私達にはできませんので」
 貧乏貴族の悲しさであった。
「けれどあの娘は悪いことはしませんわ」
「そうですか」
「はい。他の誰よりも姉を愛しておりますもの」
「姉だけだといいのですが」
「それは?」
 アデライーデだけでなくヴェルトナーもその言葉に顔を上げた。
「いえ、人の心は複雑なものですから」
 占い師はカードを手にすることなく二人に対して語った。
「愛する人は一人とは限らないですよ」
「といいましても」
「あの娘はまだ幼い。とてもそこまでは」
「女の子とは何時の間にか成長するものですが」
 占い師はその豊富な人生経験からそう語った。
「ですがそれは関係のない話ですね。置いておきましょう」
「はい」
 こうしてこの話は中断された。そして占い師は占いを続けた。
「この波乱は大変なもののようですね。そしてとても嫌なもののようです」
 ここで塔のカードを出してきた。
「恐ろしいことが起こるようです」」
「そんな」
「けれど御安心下さい。最後には幸福が訪れるのは間違いないです」
 最後のカードを出してきた。それは恋人のカードであった。
「全ては幸せに収まります。神は貴方達に幸福をもたらすでしょう」
「本当でしょうか」
「カードはそれを伝えております」
「あの」
 ここでアデライーデが身を乗り出してきた。
「よろしければこれを」
 そしてエメラルドのブローチを差し出した。
「これでもっと詳しく占って頂けるでしょうか」
「タロットは続けて同じことについて占いは出来ないのですが」
 彼女はそう言って断ろうとした。幾ら何でもそのような高価なものを貰うのは気が引けたからだ。
「ではそれ以外の占いで。おできになるのでしょう?」
「ええ、まあ」
 彼女は二人の押しに押されそれに頷いた。
「ではお願いします、すぐに」
「わかりました」
「ではあちらに」
 こうしてまた占うことが決まった。三人は別の部屋に移っていった。
「まだ占うのね」
 ズデンコはそれを横目に見ながら呟いた。
「お父さんもお母さんも不安で仕方ないので、本当に」
 それは痛い程よくわかる。彼女もそれで心を痛めているのだ。
「この街から離れたくない。あの人と離れ離れになるなんて」
 彼女もまた何か事情があるようであった。
 そこでまた扉を叩く音がした。
「また請求書かしら」
 彼女は溜息をつきつつ扉に向かった。
「あの、今は」
 帰ってもらうように応対しようとした。だがそこにいたのは借金取りではなかった。
「ズデンコ」
 そこにはオーストリアの軍服に身を包んだ若い男であった。長身でたくましい身体をしており、見事な金髪を後ろに撫で付けている。彫の深い顔に青い瞳が映える。見事な美男子であった。
「マッテオ」
 ズデンコは彼を見て一瞬顔を明るくさせた。だがそれはあくまで一瞬のことであった。
「アラベラはいるかい」
 彼は別の名を口にしたからだ。
「ううん」
 彼女はそれに対して首を横に振った。
「姉さんならリングシュトラーセよ」
「リングシュトラーセか」
「ええ、女性の友達の方とお散歩しに」
「女の人とか。ならいいんだ」
 彼はそれを聞いて少し安心したようであった。
「僕について何か言っていなかったかい?」
「いいえ」
「そうか」
 ズデンコが首を横に振ったのを見て悲しそうに応えた。
「昨日彼女はどうしていたのかな」
「お母さんと二人でオペラを観に」
「王立歌劇場か」
「ええ」
「残念だった。僕はその日当直だったんだ」
 彼はオーストリア軍の将校であるのだ。
「残念だ。昨日もし自由だったら」
「けれど今日は大丈夫なんでしょう?」
「うん。けれど今日は昨日じゃないよ、残念ながら」
 彼は嘆きながらそう言った。
「もう決して戻りはしないんだ、僕と彼女の仲も。いや」
 彼は嘆きながら言葉を続けた。
「そんなものは最初からなかったのかも知れないな。僕が一方的に思い込んでいただけで」
「マッテオ・・・・・・」
 ズデンコは声をかけようとするが相応しい言葉を見つけることができなかった。だがそれでも言うしかなかった。ようやくその言葉を思いついて言った。
「大丈夫だよ、姉さんは君を愛しているよ」
「いつもそう言ってくれるけれど」
 マッテオはそう言いながらズデンコを見た。
「姉さんに手紙を書いたんだろう?三日前に」
「うん」
 マッテオはそれに答えた。
「じゃあ大丈夫だよ。気を確かに持って」
「けれど彼女はいつも僕に冷たい。あの時は返事の手紙だって来たよ」
「だったらいいじゃないか」
 実はその手紙はズデンコが書いたものである。姉の筆跡を真似て書いたのだ。
「しかし態度は変わらないんだ。これはどういうことだい?」
「それは」
 ズデンコは返答に詰まった。真実を言うことはできなかった。
「女ってそういうものだよ。気持ちとは裏腹に態度は意地が悪くなるものなんだ」
「そういうものだろうか」
 マッテオにはそれが理解できなかった。
「僕にはとてもそうは思えないんだけれど」
「それは君がまだそうしたことに慣れていないからだよ」
 ズデンコはそう言って彼を宥めた。
「それに姉さんはとても恥ずかしがり屋なんだ。口に出して言うなんてとても」
「君はいつもそう言ってくれるけれどね」
 マッテオは悲しい目をして彼女に言った。だが彼は目の前にいる小柄な少年が実は少女であるとは夢にも思ってはいない。
「けれど本当なのかい?君が僕のことを心から心配してくれているのはいつも感じているよ。本当に有り難い。けれど」
「けれど・・・・・・?」
「彼女が僕を愛してくれているというのは信じられないんだ。君が僕を安心させようとして言っているんじゃないのかい?」
「違うよ」
 ズデンコはそれに対して首を横に振った。
「どうしてそんなことを思うんだい?僕を信じられないの?」
「いや」
 覗き込む彼の目を見てマッテオはそれを否定した。この時彼は気付かなかった。その目が友を気遣うものではないということに。
「けれどもう疲れたんだ。今日のうちにはっきりさせたい」
「今日のうちに」
「そうなんだ。今日は懺悔の火曜日。大きなパーティーがあちこちで開かれるね」
「うん」
「そこでは愛の告白もある。全てを決めるには相応しいだろう?」
「言われてみればそうだけれど」
 ズデンコはここで彼の瞳に不吉なものを感じていた。
「君を信用するよ、何があっても」
「何があっても?」
「ああ、だから言うよ。今日もし駄目だったら諦める。明日人事部にガリチアに転任させてもらうよう申し出るよ。丁度士官に一人欠員があるんだ」
「そうなの」
「そこで彼女のことを完全に忘れる。けれど」
「けれど?」
 ズデンコは問うた。
「それで駄目だったら・・・・・・ピストルしかない」
 彼は俯いて暗い顔でそう言った。小さい声だった。
「それで全てが終わるからね」
「マッテオ、そんなことは」
「もう決めたんだ」
 彼は悲しい顔で微笑んでそう言った。
「君には本当に感謝しているよ。けれど僕は自分の気持ちを否定することはできない。だからそう決めたんだ」
「変える気はないんだね」
「残念だけれどね。だから・・・・・・頼むよ」
「うん」
 ズデンコはそれに頷いた。頷くしかなかった。
「じゃあね。今日は非番だけれど何かと準備があるからこれで」
「ええ」
「アラベラのこと、よろしく頼むよ」
 そして彼はそこから立ち去った。後にはズデンコだけが残った。
「どうしたらいいのかしら」
 彼女は一人途方に暮れていた。
「彼に会いの言葉を贈ることも姉さんの筆跡を真似て手紙を書くこともできるのに。けれど彼自身に私が言うことはできはしないのね。何て残酷な話なの?」
 彼女は椅子に座り嘆いていた。
「そして彼は私のことに気付いていない。私を男だと思い込んでいる。そんな私がどうして彼に言えるのかしら」
 マッテオは人を疑うことを知らない純朴な男である。軍にいるせいかそうしたことには疎いのだ。
「私が手紙を贈ってももうどうにもならない。彼はきっと死を選ぶわ。あの人ならきっとそうする」
 結果はわかっていた。マッテオの性格は何から何まで全てわかっていた。
「姉さんは彼を愛してはいない。けれど彼は姉さんを愛している。それはどうにもならない。そして私も・・・・・・」
 解決する方法は見出せなかった。彼女は一人途方に暮れていた。そこで扉が開いた。
「御苦労様」
 高く澄んで清らかな声が部屋に入ってきた。
「明日また同じ時間にお願いしますね」
 そして一人の美しい娘が中に入ってきた。
 長い金髪を背中に垂らしている。それはまるで金の絹の様に広がっている。そして白いまるで雪の様なドレスを包んでいた。その肌もまた雪の様であった。白く汚れのない白であった。
 顔もまた同じ色である。高い鼻に小さく紅の色をした唇がある。
 目は大きかった。それは澄んだ湖の色をしておりその中に星の瞬きが見えた。
 そして非常に背が高かった。普通の男性と同じ位はあろうか。そして姿勢もよく均整のとれたギリシア彫刻の様な身体とよく合っていた。
「あら、ズデンカ」 
 彼女は机の上に頭を抱えている少女に声をかけた。
「一体どうしたの?」
「姉さん」
 ズデンコ、いやズデンカは顔を上げた。実は彼女の本名はズデンカというのだ。男ということになっている為この名を使うしかないのだ。
 そしてこの美しい女性こそアラベラであった。言うまでもなく彼女の姉である。
「そんなに思い悩んで」
「何でもないわ」
 彼女は無理をして笑った。
「そう、それならいいけれど」
 彼女はそう言いながらも妹を心配そうな目で見ていた。
「一人で悩まないでね。私が相談に乗るから」
「うん」
 しかしそれはできなかった。他ならぬ彼女のことであるからだ。
「あら」
 アラベラはここで花瓶の花に気付いた。
「綺麗な薔薇ね」
 見れば真紅の薔薇が花瓶の中にあった。
「一体誰が持って来てくれたの?いつものハンガリー騎兵の人?」
 彼女はハンガリー騎兵の将校にも愛を告白されているのだ。
「ううん」
 だがズデンカはそれに対して首を横に振った。
「マッテオからよ」
 実は彼女自身が持って来た花だ。だがそれは言わない。
「そう」
 アラベラはそれを聞いて少し溜息を漏らした。
「気持ちは有り難いけれど」
「やっぱり駄目?」
「ええ」
 アラベラは少し残念そうな顔をして答えた。
「ところであれは?」
 アラベラは離れた場所にある花束に目を向けた。
「エレメールさんからのよ」
「そう」
「そしてドミニクさんの香水にラモーラルさんからのレースも。皆さん今日も姉さんに御執心よ」
「そうなの。皆さん気持ちは有り難いけれどね」
 あまり嬉しくはないようである。
「気持ちを受け入れる気にはなれないの?」
「ええ。申し訳ないけれど」
「マッテオも?」
「ええ。わかるでしょう?私とあの人は合わないわ、残念だけれど」
「そう」
 ズデンカはそれを聞いて悲しそうな顔をした。
「愛してはいないのね」
「ええ」
 アラベラは答えた。
「私はそれを偽ることはできないわ。自分の気持ちも。そしてそれはあの人自身にも悪いわ」
「そういうものなの」
「私はそう思うわ。貴女はどうかわからないけれど」
「そうなの。マッテオの気持ちはわかっているでしょう?」
「それでも駄目なの。結ばれたとしてもお互いが不幸になってしまうわ。私達だと」
 彼女にはそれがわかっていた。だからこそそう言えるのである。
「あの人を傷つけるわけにはいかないわ」
「そうなの」
「少なくとも私はそう思うわ」
 アラベラは自分の心を素直に語った。
「マッテオは本当にいい人よ。あの人と一緒になれた人は必ず幸せになれるわ」
「それなら」
「けれどね」
 アラベラはここでズデンカに対して言った。
「それでも駄目なのよ。わかるかしら」
「いえ」
 ズデンカはそれに首を横に振った。
「私には贅沢を言っているようにしか思えないわ」
「そうでしょうね。確かに私は贅沢を言っているかも知れない。けれどね」
 彼女はまた言った。
「それでも私とあの人は合わないわ。何ていうかそうした運命なの」
「運命って・・・・・・。じゃあマッテオは姉さんとは結ばれない運命なの!?」
「そういうことになるわね」
「そんな・・・・・・」
 ズデンカはそれを聞いて絶望した顔になった。
「私には私が正しいか、貴女が正しいかはわからないわ。けれどこれだけは言いたいの」
「何?」
「私が本当に好きになれる人はこの世には絶対にいるわ。そしてその人にめぐり合える時はもうすぐよ」
「何でそれがわかるの?」
「勘かしら。心の中で何かが私に教えてくれているのよ」
「そんな筈ないわ。気のせいよ」
「そうかも知れないわね」
 アラベラはまた言った。
「けれど私は信じるわ。私に訴えてくるこの中の声を」
「そうなの」
「ええ。ところで御父様と御母様は?今日はまだ外出されていない筈だけれど」
「奥の部屋よ。今占ってもらってるの」
「そう」
「そこで姉さんのことも占ってもらってるわ。幸せになれるかどうか」
「幸せにね。それもそうね」
 彼女はここで優しく微笑んだ。
「娘の幸福を願わない親なんていないから」
「姉さんにはね。けれど私には」
「ズデンカ」
 アラベラは悲しそうな顔をする妹に対して言った。
「そんな筈ないわ。御父様も御母様も貴女の幸せも願っておられるわ」
「そうかしら」
「少なくとも私は。だって私のたった一人の妹なんですもの」
「姉さん・・・・・・」
 ズデンカは姉の暖かい言葉に目に熱いものを感じた。ここで外から何か聞こえてきた。
「あれは」
「鈴の音かしら」
 二人は窓から下を見た。見れば橇が一両止まっていた。
「何かしら」
「そういえば今朝私が外出しようとした時だけれど」
 アラベラは語りはじめた。
「見知らぬ人が立っていたわ」
「どんな人?」
 ズデンカはそれを気になって尋ねた。
「大きな人だったわね。旅行用の毛皮の外套を着てたわ」
「旅の方かしら」
「多分ね。あそこの門に立っていたの」
 そう言いながら門を指差す。
「御供に騎兵の人を従えて」
「身分のある方なのかしら」
「少なくとも卑しい方だとは思わなかったわ」
「そうよね。御供の人まで従えているんだから」
「大きな目をしておられたわ。黒くて大きな目だったわ」
「黒い目。イタリアからの方かしら」
「そうともばかり限らないわよ。ほら、目の黒い方だって大勢おられるじゃない」
「あ、そうだったわね」
 オーストリアは多民族国家である。そしてこのウィーンは大国オーストリアの首都である。それだけに多くの人々が街を行き交っているのだ。だから様々な髪、様々な目の色の人々がいるのだ。
「一体誰なのかしら」
「今の橇に乗っておられた方かしら」
 既に橇の中の者はホテルに入っていた。残念ながら見ることはできない。
「こちらに来られたら面白いのにね」
「姉さんに会いに?」
「そこまではわからないけれど」
 アラベラはクスッと微笑みながら窓から離れた。
「ところでズデンカ」
 彼女はここで妹に対して語りかけた。
「何なの、今度は」
 アラベラはそれにはすぐ答えず花瓶の紅い薔薇を一つ手にとった。
「これを貴女に」
 そしてその薔薇を彼女の服の胸の部分に差し込んだ。
「貴女に幸福がありますように」
 それはまさに胸に咲いた一輪の花であった。
「姉さん、いいの?」
 ズデンカはそれを受けて姉に尋ねた。
「こんな綺麗な薔薇」
「いいのよ。私は受け取ることはできあにけれど貴女には受け取ることができるわ」
「私には」
「ええ」
 彼女は妹の気持ちに気付いていた。だがそれは決して口には出さなかった。そしてそれを妹には気付かせなかった。
 ここで扉を叩く音がした。
「はい」
 ズデンカが出た。扉を開けると中から背の高い軽やかな外見の貴公子が姿を現わした。
「エレメール伯爵」
「どうも」
 エレメールはここで優雅に頭を下げた。
「フロイライン、本日は私の番でしたね」
「はい」
 アラベラはそれに応えた。
「本日は橇にロシアの馬を繋げて参上致しました」
「それでは下の橇は貴方のでしょうか」
「はい、その通りです」
 彼は快く答えた。アラベラはそれを受けて内心少しがっかりした。
「今宵は私が貴女をお送り致しましょう。あの白銀の馬車で」
「雪の中をですね」
「そうです。雪の中に銀は映えますぞ」
「それはそうですが」
 だがアラベラは今一つ面白くなさそうな顔をしている。だがエレメールはそれに構わずやや自慢げに語り続ける。
「そして舞踏会で貴女は私の主となるのです」
 そうやら自分の言葉に酔っているようである。
「私が貴方の」
「はい。このエレメール、喜んで御仕え致しましょう」
 そしてアラベラの前に行き片膝をついた。恭しく頭を垂れる。
「騎士としての忠誠を捧げましょう」
「御気持ちは有り難いですが」
 だがアラベラの態度は変わらなかった。
「後の御二人が何と言われるかしら」
 彼女に求婚しているのは彼だけではなかった。他にもいるのである。
「ドミニク伯爵とラモーラル伯爵ですね」
「はい」
「それは御心配なく。私達は誰が選ばれようとも互いに恨むこてゃないと誓いを立てておりますから」
「そこまでなさらなくとも」
「いえ」
 だがエレメールはここで首を横に振った。
「これは騎士としてのけじめです」
 毅然として言った。
「武勲を立てるのこそ騎士ですがそれを妬まない、違いますか」
「では私は武勲なのですね」
 アラベラはそれを聞いて整った顔を顰めさせた。
「そうですね。貴女は御自身から武勲になられたのです」
 エレメールは胸を張って彼女に言った。
「貴女はその目で私達にそうするように要求されました。その青い瞳で」
「そうでしょうか。覚えがありませんが」
「貴女は知らず知らずのうちにそうされました。それ程までに女性の瞳は強い」
 彼は言葉を続ける。
「与え、そして取り上げる。尚且つそれ以上のものを要求します」
「私がそれ程欲が深いと」
「いえ、それは違います」
 エレメールはそれは否定した。
「私達にそうさせるのです。その青い瞳の魔力で」
「大袈裟ですね」
 アラベラはそれを聞いて苦笑せずにはいられなかった。
「まるで私を魔女の様に」
「ええ、その通りです」
 エレメールはそれを受けて言った。
「女性とは皆そうです。とりわけ貴女は」
「私ははじめて知りました」
 アラベラは苦笑したままであった。
「私が魔女だったなんて」
 そしてエレメールに対して語るように言った。
「私は私ですわ。今は娘時代へ最後の別れをする時。けれど私は私です」
「そう、貴女は貴女御自身に他なりません」
 エレメールもそれには同意であった。
「ですがその中でも変わっていかれるのです。花が咲く様に」
「花、ですか」
「はい」
 エレメールはそれに頷いた。
「そして私の手の中で咲くのです。大輪の花が。フロイライン」
 その言葉は次第に熱を帯びてきた。
「躊躇われることはありません。あの橇に乗りましょう。そして幸福へ向かいに」
「あのロシアの馬が引く橇に」
「はい」
「では行きましょう。謝肉祭を祝いに。ただ」
「ただ?」
 エレメールはここで風向きが変わったことに内心危惧を覚えていた。
「ズデンコも一緒に」
「弟さんもですか」
「はい」
 真相は伏せた。
「半時間後で弟と一緒に下に向かいますわ」
「フロイライン」
 エレメールはそれを聞いて悲しい顔にならざるを得なかった。
「貴女は残酷な方だ。ここまで来て尚も騎士を側に置くとは」
「言わないで下さい」
 アラベラは目を伏せ、顔を逸らして答えた。
「私には弟が側に必要なのです。それをおわかり下さい」
「・・・・・・わかりました」
 エレメールは無念さを心の中に押し殺して言った。
「ではお待ちしております」
「はい」
 アラベラの声は普段とは変わらない。だがエレメールにはこの上なく冷たい言葉に聞こえた。
 エレメールは頭を垂れた。そして哀しそうな顔でアラベラに対して言った。
「フロイライン」
 その声も同じであった。
「貴女は素晴らしい女性です。崇拝に足る方です」
 アラベラはそれには答えない。ただ目を伏せている。
「ですがあまりにも残酷な方だ。だがその残酷さにすらこの上ない魅力がある」
 そして最後に言った。
「だからこそ私は貴女に想いを寄せる。それはおわかり下さい」
 その言葉を最後に部屋を後にした。すると席を外していたズデンカが部屋に入って来た。
「伯爵は帰られたのね」
「ええ」
 アラベラはそれに応えた。
「下で待っておられるわ。半時間したら下に行かないと」
「そうなの」
「ズデンカ、貴女も一緒よ」
「私も!?」
「そうよ。すぐに用意して。言ったでしょ、小さい時に」
 アラベラは妹に対して微笑んで言った。
「私達は何時でも一緒だって。そして私は何時でも貴女の味方だって」
「うん」
 ズデンカはそれに頷いた。その言葉は忘れたことはなかった。幼い頃姉にふと言われた言葉だったが。
 それでも二人はその言葉を今でも覚えていた。そしてその言葉通り二人は何時でも一緒だったのだ。
「だから・・・・・・ね。一緒に行きましょう。それに今夜は私の娘時代へのお別れの日」
「謝肉祭の最後の夜」
「そうよ。その時には相応しいでしょう?そして貴女も」
「何?」
「いえ、何でもないわ。それより見て」
 アラベラは窓の側に向かった。そして妹をそこに招き寄せる。
「あの馬を」
「馬?」
「そうよ、ロシアの馬よ。貴女はあの馬に引かれて宴に向かうのよ」
「どんな馬かしら」
 ズデンカは窓に歩いてきた。アラベラはそれを見て微笑んでいる。
「ほら、あれよ。あの・・・・・・」
 ズデンカに馬を見せようとする。だがここでアラベラはアッと声をあげた。
「どうしたの、姉さん」
「嘘・・・・・・」
 姉は我を失っていた。普段の落ち着いた様子はなかった。
「そんな顔して」
「あの人がいたのよ」
「あの人?」
「そうよ。さっき話したでしょ。あの人よ」
「ああ、外套を着た人ね。その人がどうしたの?」
「今下にいるのよ」
「本当!?」
 ズデンカはそれを聞いて窓の下を覗き込んだ。確かにそこには誰かがいた。見れば外套に帽子を身に着けている。その為顔はよくわからなかった。
「あの帽子と外套を身に着けた人なの?」
「ええ」
 アラベラはそれに頷いた。
「間違いないわ、ほら見て」
 アラベラはその男を指差してズデンカに対して言う。
「上を見上げてらっしゃるわ。きっと私のことを探しておられるのよ。あの大きな瞳で」
「そうかしら」
 だがズデンカはそれには懐疑的であった。
「私にはそうは見えないけれど」
 そう言って姉を嗜めた。
「姉さん、少し落ち着いた方がいいわ。あの人は誰も探していないわよ」
「そうかしら」
「ええ。ほら見て」
 そしてそ男を指差した。
「通り過ぎて行くみたいよ。やっぱり姉さんの考え過ぎよ」
「そうなの」
 アラベラはそれを聞いて残念そうに溜息をついた。
「けれどまさか」
「姉さん」
 ズデンカはそんな姉に対して忠告しようとした。だがここで二人の両親が姿を現わした。
「二人共」
「はい」
 二人はそれを受けて顔を向けた。
「ちょっと大事なお話があるの。悪いけれど席を外して」
「わかりました」
 何の話をするのかは大体わかっている。二人はそれに従った。
「じゃあズデンカ、準備に取り掛かりましょう」
「ええ」
 そして二人はそれぞれの部屋に入った。両親は後から出て来た占い師を送ると席に着いた。ヴェルトナーはその前に書斎の机の前に向かった。
「やれやれ。相変わらず請求書の山だよ」
 彼は溜息をつかずにいられなかった。
「他には何もないな」
「連隊の御友達にお出しになった手紙は?」
「残念だが」
 ヴェルトナーは妻に対して首を横に振って答えた。
「何もないな。マンドリーカにも送ったが」
「マンドリーカ?何方ですか?」
「ああ。凄い大金持ちでな。ある女性の為にヴェローナの街路に三千シェッフェルの塩を撒かせる程のな。その女性が八月なのに橇に乗りたいと言ったので」
「それは凄いですわね」
「そう思うだろう。だから私はアラベラの写真を一枚彼の手紙に入れておいた。白鳥の羽飾りのついた青い舞踏服のものをだ。それであの娘を気に入ってくれるようにな」
「ではアラベラは老人と結ばれるのですか!?」
 アデライーデはそれを聞いて暗い顔で問うた。
「そうなるな」
 ヴェルトナーも暗い顔で返した。
「だが他に解決する道はないんだ」
「他に、ですか」
「ああ、ウィーンに留まる為にはな」
「何てこと。そこまでしてこの街にいたくはないわ」
 彼女は嘆いた。目を閉じ首を横に振る。
「ではどうする?」
「ここを出ましょう、そしてヤドウィの伯母さんのことろへ行きましょう」
「以前言っていたようにか」
「ええ。そして貴方はそこで家の管理人になって私は伯母さんのお手伝いに」
「伯爵夫人ともあろう者が」
「けれどそうするしかないわ、こうなっては」
「アラベラとズデンカはどうなるんだ?」
「ズデンカはずっと男の子のまま。仕方ないでしょう」
「そうか。気の毒だな」
「私だってそう思うわ。けれどそれしかないでしょう」
「ああ。認めたくはないが」
 彼は苦虫を噛み潰した顔で頷いた。
「アラベラは?」
 そしてその顔のままアラベラのことを問うた。
「さっきの占いでは悪い結果ではないが」
「ええ。けれどもう私達には何もないのよ。本当に何もないのよ」
「エメラルドのブローチもあの占い師に渡してしまった」
「そうよ。あれが最後だったわ。これで本当に全てがなくなったわ」
「そうだな。全てが終わったか。諦めるしかない」
 二人は苦渋に満ちた顔で同じく苦渋に満ちた声を吐き出した。
「だが今は落ち着こう。酒にしよう」
「はい」
 二人は顔を上げた。そしてヴェルトナーがベルを鳴らした。
「何でしょうか」
 すぐに立派な制服を来たボーイが姿を現わした。
「コニャックをくれ。いつものを」
「申し訳ありませんが」
 ボーイはそれに対して畏まって答えた。
「お客様には何も差し上げてはならないことになっております。現金ならば別ですが」
「そうか」
 わかっていた。支払いが滞っているからだ。ヴェルトナーはそれを聞いて再び苦渋の顔に戻った。
「じゃあいい。用はない」
「わかりました」
 ボーイは頭を下げて部屋を後にした。二人は閉じられた扉を見て溜息をついた。
「本当に終わったな、もう何もかも手詰まりだ」
「ええ。やっぱりこの街を去るしかないわね」
「ああ」
 その時だった。先程のボーイがまた入って来た。
「お客様」
「何だ!?呼んでないぞ」
「お客様が来られていますが」
「わし等ではなくてか」
「はい。男の方です」
「いないと言ってくれ。請求書ならあそこに置いてくれ」
 そう言いながら書斎の机を指差す。かなり投げやりな様子だ。
「いえ、請求書ではありません」
「?では何だ」
「こちらです」
 彼は手に持っていた書類をヴェルトナーに手渡した。
「名刺か。またえらくいい紙を使っているな」
 彼はその名刺を手にしながら呟いた。
「何と・・・・・・」
 そしてその名刺にある名を見て思わず声をあげた。
「貴方、どうしたの!?」
 アデライーデは夫のその唯ならぬ様子を見て気になって尋ねた。
「マンドリーカだ」
「さっき仰ってた」
「ああ、間違いない。まさか本当に来るとは」
 驚きを顔に浮かべたままボーイに顔を向けた。
「その客人は私に会いたいのか」
「はい、どうしてもお会いしたいと仰っていました」
「そうか」
 事務的なその返答を聞いて彼は考えた。
「わかった。お通ししてくれ」
「はい」
 ボーイは頭を垂れると部屋を後にした。そして暫くして戻って来た。
「こちらです」
「おお」
 ヴェルトナーは立ち上がった。そしてボーイに案内され部屋に入って来た男に声をかけた。
「よく来てくれた、久し振りだな」
 彼はあえて喜ばしい声でその男に声をかけた。
「元気だったか。ウィーンは何年ぶりかね」
「はじめてです」
「そうか、はじめてか・・・・・・何!?」
 ヴェルトナーはそれを聞いて思わず顔を前にやった。
「おい、それは嘘だろう。一緒にこの街の大通りを行進したじゃないか。馬を並べて」
「確かに叔父は騎兵隊におりましたが」
 部屋に入って来た男は答えた。
「私は騎兵隊にいたことはありませんが」
 見ればヴェルトナーよりも遙かに若い。二十代後半か三十代前半と思われる若い男であった。
 長身で逞しい身体つきをしている。黒い髪を後ろに少し撫でつけている。見ればかなり質のいい油を使っている。
 顔立ちはいささか田舎っぽさもあるが整っており気品が漂っていた。綺麗に切り揃えた口髭がその顔によく合っている。黒い瞳の光は落ち着いており優しささえ漂っていた。そして黒いコートの下に見事なスーツを着ている。それだけで彼がかなり裕福な男であるとわかった。
「何、では君は一体」
「私はマンドリーカ騎兵隊退役大尉の甥です」
「甥だったのか」
「はい。ヴェルトナー伯爵はおられるでしょうか」
「私ですが」
 彼は答えた。
「一体何の御用でしょうか」
「はい、実はこの手紙ですが」
 彼はそこで後ろに控える騎兵隊の服を着た従者に目配せした。するとその従者は懐から一枚の手紙を取り出した。
「御苦労」
 彼はそれを受け取った。そしてそれをヴェルトナーに見せた。
「これを私に送って下さったのは貴方でしょうか」
「ううむ」
 手紙を見る。何故か赤く汚れているが読める。確かに彼の字だ。
「はい、間違いありません」
「そうですか、それはよかった」
 彼はそれを受けてにこやかに笑った。
「ここ暫くこの手紙のことばかり考えていたもので。本来ならもっと早くこのウィーンに来たかったのですが」
 彼はここで少し哀しい顔になった。
「この手紙を受け取ったその日に熊に襲われまして。そして暫く動けなかったのです」
「熊にですか」
「はい。私の住んでいる場所は森の奥深くでして。このウィーンとは比べ物にならない程の田舎です」
「ふうむ、それは大変でしたな」
「まあよくあることですよ。私はその熊を何とか倒しましたが」
「いやはや、それはそれは。ところで」
「はい」
 彼はヴェルトナーの問いに顔を向けた。
「貴方は私の旧友であったあのマンドリーカ大尉の甥と今仰いましたが」
「はい」
 彼はそれを認めた。
「それが何か」
「いえ、私は彼に手紙を送りましたので。彼はどうしたのですか?」
「叔父ですか」
「はい」
「亡くなりました」
 彼は俯いてそれに答えた。
「そうだったのですか」
 それは考えなかった。ヴェルトナーは友の死を聞き唇を噛んだ。
「いい男でした。友人としても軍人としても」
「有り難うございます。叔父も天国で喜んでいることでしょう」
 彼はそれを受けて言った。
「そして今では私がマンドリーカ家のたった一人の者です。叔父は私に自分の全てを残してくれました」
「そうですか」
「それで手紙を開いたことはお許し下さい」
「はい」
「それでお聞きしたいのですが」
 彼はまた従者に目配せした。
「あの写真を」
「はい」
 従者はそれを受けて一枚の写真を取り出した。それはヴェルトナーが手紙に添えたあの写真であった。
「この写真は貴方の娘さんで間違いありませんか?」
「はい。私の娘に間違いありませんが」
 彼はそれに答えた。
「アラベラと申します。手紙にも書いてありましたが」
「そうですか」
 マンドリーカはそれを聞いて頷いた。
「この手紙によるとお一人だそうですが」
「はお」
 ヴェルトナーはそれを認めた。
「婚約もしておりませんが」
「お手紙の通りですね」
 彼はそれを聞きまた頷いた。
「それでは少しお話したいことがあるのですが」
「そうですか。それなら立ち話も何ですから」
 ヴェルトナーはそれを受けて後ろにいた妻に目配せをした。
「少し席を外してくれ」
「はい」
 彼女はそれに従いその場から立ち去った。
「御前も少し休んでいてくれ」
 マンドリーカも後ろにいる従者にそう伝えた。彼はそれに頷き下がった。
 二人はテーブルについた。そして話をはじめた。
「でははじめますか」
「はい」
 マンドリーカはそれに了承した。そして話がはじまった。
「あの手紙の内容についてですが」
 話は手紙のことであった。これはヴェルトナーもおおよそ見当がついていた。
「はい」
 気構えはできていた。それを受けて顔を向けた。
「娘さんの婚約者を探しておられるようですが」
「はい」
 その通りであった。彼はそれを認めた。
「ですがそれは私の叔父に対してだったのですか?御言葉ですが叔父は」
「それはわかっていました。彼が人生の黄昏時にいることは」
 彼はそれに対して答えた。
「私も同じですから」
「それなら何故叔父に」
「いや、それは」
 真相を言うことはできなかった。彼は誤魔化すことにした。
「ほんの冗談です。友人として」
「伯爵」
 だがマンドリーカはそれを受けて厳しい顔をした。
「叔父は死ぬその直前まで元気でした。おそらくあの写真を見たらすぐにここへ来たでしょう。独身でしたし」
「はい」
「ですが叔父は生真面目でした。これも御存知だと思われますが」
「勿論です」
 それはヴェルトナーもよくわかっていた。
「では冗談を好まなかったことはご承知でしょう。そして私は貴方がその様な冗談をされる方とは思えません」
 彼は言った。
「今は私がマンドリーカ家の主です。多くの者が私の幸福を祈ってくれております」
 彼にはそれだけの部下や使用人がいるということである。
「その数は四千人」
「そんなにですか」
 それはヴェルトナーも知らなかった。富豪だとは聞いていたが。
「はい。そして貴方のお手紙のことですが」
 彼の顔はさらに真剣なものになった。
「言わせて頂きます。もう叔父はおりませんが」
「はい」
「お嬢さんを私の妻に。あの人を私にお与え下さい」
 強い声でそう言った。
「それは・・・・・・」
 予想していたとはいえその言葉に戸惑わずにはいられなかった。それは親として当然のことであった。
「宜しいでしょうか」
 マンドリーカは不安そうな顔で問うてきた。
「ううむ」
「伯爵。あのお手紙のこと、偽りではないでしょう」
「はい。私も軍人でした。嘘は申しません」
「有り難い。それならば」
 マンドリーカはそれを聞いて顔を綻ばさせた。
「先程のお話の続きをさせて頂きます」
「あの熊に襲われたお話ですか」
「はい。あの時私は肋骨を折りました。四本も」
「それは大変でしたな」
「命に別状はありませんでしたが。ですが三ヶ月程病床に横たわることになりました」
 彼はその時のことを思い出しながらヴェルトナーに対して語った。
「その間この写真と手紙をずっと見ておりました」
 そして手紙とアラベラの写真を見せた。
「見る度に私の思いは募りました。お嬢さんへの思いが」
 彼の言葉には次第に熱がこもってきた。
「厩舎の者達も農場の者達も森番達もそんな私を心配しました。私はそれを見て言ったのです。恋をしていると。そう、貴方の娘さんに」
「アラベラに」
「そうです。そして私は病床から起き上がれるようになると執事を呼びました。森を欲しがっていたユダヤ人にあの槲の木を売るようにと」
「森をですか」
「はい。この街には息をするだけで金が落ちると聞いております。それならば多くの金がいると考えまして」
「それだけでその森を売られたのですか」
 これにはヴェルトナーも驚かずにはいられなかった。
「はい、求婚の旅に邪魔があってはなりませんから」
 彼はそう言いながら懐から財布を取り出した。
「これがその森です」
 見ればその中には紙幣が束となり詰まっていた。実に重そうである。
「美しい森でした。隠者もジプシー達もいました。獣達が棲み、多くの薪や炭が手に入りました。私のお気に入りの森の一つでした」
「それを売られたのですか」
「はい、全てはお嬢さんにお会いする為です」
 彼は熱い声で語った。
「その為に、ですか」
「はい。惜しくはありません。私には森はまだ多くありますし他の財産もあります」
「しかし」
「構いませんよ。そうだ」
 彼はここでふと気がついた。
「貴方も今必要なのではないですか?お金が」
「うっ・・・・・・」
 彼はその言葉にギクリ、とした。その為にマンドリーカに手紙を送ったのだから当然であった。
「必要ならば如何でしょうか」
「はい」
 彼は言われるまま差し出されたその紙幣の束の一つを受け取った。受け取りながら危機を脱したことを感じていた。
「ところで奥様はどちらでしょうか」
「今奥に下がらせておりますが」
「そうですか。ではお嬢さんは」
「自分の部屋におりますよ」
「そうなのですか」
 マンドリーカはそれを聞きヴェルトナーが手で指し示した部屋に目をやった。だがそれは一瞬ですぐに目を伏せた。
「呼びましょうか、二人共」
 彼の義理の母、そして妻になるかも知れないのである。それは当然であった。
「いや」
 だが彼はそれに対して躊躇いを見せていた。
「今ですよね」
「はい」
「今は少し・・・・・・」
 その整った逞しい顔を赤くさせていた。
「おやおや、恥ずかしがる必要はありませんぞ」
「それはわかっていますが」
 どうやら恋愛にはかなり純情であるらしい。
「ただはじめて会うというのはやはり神聖なことですし」
「そうですか。無理強いはしません」
 ここで強制するような野暮なことはしなかった。ヴェルトナーはここで彼に任せることにした。
「私はこのホテルに泊まることにしましょう。そしてそちらからの御命令を待ちましょう」
「そうされるのですか」
「はい。それならば私も喜んでそちらにお伺いすることができますし」
「わかりました」
 ヴェルトナーはそれを聞き賢明な判断だと思った。
「それでは」
 マンドリーカは立ち上がった。
「部屋を取って来ますので暫し失礼」
「はい」
 彼は頭を下げた。少し不器用な感じもするが礼儀正しい。頭を上げると彼はその場を後にした。
「では後程」
 そして二人は別れた。ヴェルトナーは一人になるとテーブルの上に置かれている札束を見た。先程彼が置いていったものだ。
「まさかこんなことが実際に起こるとはな」
 嬉しいことは事実だがにわかには信じられなかった。
「この札束が今私の目の前にあるということは事実なのだが。それにしても」
 テーブルに近寄りその札束を手にした。かなりある。
「これだけあれば請求書のものもホテルにツケにしているのも全て清算できるな。いや、それでもまだかなり余るぞ。信じられないな」
 札を数える。そして思わず唸った。
「もうこれでギャンブルで危ない橋を渡って金を稼がなくていいな。本当に夢のようだ」
 ここでその借金のことを思った。
「まずは一つ清算しておこうか」
 そしてベルを鳴らした。すぐにボーイがやって来た。
「何でしょうか」
「うむ」
 彼はそのボーイに対して鷹揚に頷いた。
「実はね」
 そしてその札束のほんの一部を彼に渡した。
「これでそちらの請求の分は全ていけるかね」
「は、はい」
 ボーイはその札に戸惑いながらも答えた。
「おつりが来る程ですよ。今は持ち合わせがありませんが」
「後で持って来る、と言いたいのだね」
「え、ええ」
「今すぐでなくていいよ。まあ何時でもいい」
「わかりました」
 人は金が入ると寛容になるものである。借金がなくなると余計にだ。
「私の用件はそれだけだ。下がっていいよ」
「はい」
「あ、そうそう」
 ヴェルトナーはここでふと気付いたようにボーイに対して言った。
「おつりのうち半分は君へのチップだ」
「そんなにですか!?」
 これには彼も驚いた。
「今までやれなかったからね。まあその謝罪も意味もある。いいからとっておきなさい」
「わかりました」
 彼は笑顔で応えた。
「下がっていいよ」
「はい」
 やはりヴェルトナーの声はゆとりのある鷹揚なものであった。
「では私はこれで」
「うん」
 ヴェルトナーはやはり余裕のある顔で頷いた。
「伯爵」
 ボーイは彼を爵位で呼んだ。
「何だね」
 久し振りに貴族らしい態度で返す。
「以後も何なりと御命じ下さい」
 彼はいささか大袈裟ともとれる程恭しく頭を下げた。彼はそれを余裕をもって受けた。
「うん、その時は宜しく頼むよ」
「はい」
 そしてボーイは部屋を後にした。ヴェルトナーは一人になっても得意気であった。
「ふむ、久し振りだなこんな気持ちは」
「お父さん、どうしたの?」
 その声に気付いたズデンカが部屋に入って来た。
「誰かおられたみたいだけれど」
「おお、御前か」
 彼は娘に優しい顔で振り向いた。
「ちょっとな。素晴らしい方が来られてな」
「素晴らしい方?」
「そうだ。おかげで我々は助かったのだよ」
「助かったって何が」
「まあそれはおいおいわかるさ。御前が心配するようなことじゃない。いや」
 彼はにこりと笑ってズデンカに対して言った。
「むしろ喜ばしいことだよ。御前にとってもな。さて」
 彼はここでテーブルの上に紙幣を一枚置いた。そして身を翻した。思いもよらぬ軽やかな動きであった。
「用事が出来たのでこれでな。それではな」
 そして部屋を出た。ズデンカはお札を見ながら呆然としていた。
「一体何があったのかしら」
 事情を知らないので首を傾げることしかできなかった。
「賭け事に勝ったのかしら。そんな筈はないけれど。いえ、もしかして」
 不吉な考えが胸を支配した。
「借金でもしたのかしら。けれどそんな筈はないし」
 借りるあてもないからである。
「それじゃあ一体何かしら。けれどお金があったらこの街から離れなくて済むし。そうしたら」
 愛しい者の顔が浮かんだ。
「けれどそれは変わらないわ。あの人に会えるのは今日が最後。こればかりはどうしようもないのよ」
 ここでまた扉を叩く音がした。
「今日はお客様が多いわね」
 ズデンカはそれを聞いてそう思った。だがすぐにこう思い直した。
「けれどそれもそうね。懺悔の火曜日なんですから」
 特別な日である。それならば納得がいく。彼女は自分にそう言い聞かせながら扉を開けた。
「君なの」
 そこにいたのはマッテオだった。
「うん」
 彼は深刻な顔で頷いた。
「気になることがあってね。また来たんだ」
「気になること?」
「そうなんだ。手紙のことで」
「ああ、それのこと」
 ズデンカはそれを聞いて哀しい顔をせずにはいられなかった。
「?どうしたんだい」
 マッテオもそれに気付いた。声をかける。
「あ、何でもないよ」
 彼は慌てて自分の気持ちを隠した。だが心の中では違っていた。
「そうか、ならいいのだけれど」
 だが若く純真なマッテオはそれには気付かない。友と思っている若者の顔が戻ったのを見て安心した。
「もう書いてくれたかな、彼女は」
「返事を?」
「うん。その結果次第で決めるからね。転勤するかどうか」
「そうなの」
 今度は哀しい顔を出すわけにはいかなかった。
「それは少し待って。僕が絶対に持って来るから。今姉さんはその手紙を書いている最中なんだ」
「そうだったのか。じゃあ君に頼むよ」
「任せてよ」
 彼、いや彼女はそれに対して無理して明るい顔を作って応えた。
「このホテルか舞踏会で渡すから。それまで待っていてね」
「頼むよ」
「うん、わかったよ。それじゃあ今は悪いけれど帰ってね。姉さんに見つかると厄介だから」
「わかったよ。じゃあね」
「ええ」
 マッテオはこれで帰った。入れ替わりにアラベラの部屋の扉が開いた。
「準備はできた?」
「ええ」
 見ればアラベラは見事な絹の純白のドレスに身を包んでいた。まるでプリンセスの様である。
「貴女もできてるわね」
「私は男の服だから」
 ズデンカは目を伏せて姉に答えた。
「すぐに済むのよ」
「そうだったわね」
 アラベラもそれを受けて目を伏せた。
「けれど心は別よ。例え服がそうであっても心は別よ」
「姉さん」
「貴女は女の子なのよ。それは忘れたら駄目よ」
「うん」
 アラベラはズデンカに歩み寄りその手をとって言った。ズデンカはそれを受けて頷いて応えた。
「では行きましょう。娘時代に別れを告げに」
「ええ」
 姉に対して言おうとした。だがやはり言うことはできなかった。
 二人は部屋を出た。そして下に待っていた橇に乗る。そして舞踏会へと向かうのであった。





今までとは少し違う感じかな。
美姫 「どんな結末が待っているのかしらね」
楽しみだな。
美姫 「本当に。今度はどうなるのかしら」
次回も楽しみにしてます。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



頂きものの部屋へ戻る

SSのトップへ