『愛の妙薬』




 第二幕 愛すべき山師


 さて騒ぎの後アディーナとベルコーレは本当に式を挙げることになった。場所は彼女が持っている農場の中である。
 やはり彼女はそれなりに裕福な家のようである。本が読め、持っているのだからそれは当然であるが。かなり広い農場である。
「皆さんようこそ」
 彼女は招待されてきた村人達に挨拶をした。服はそのままである。すぐに決まったことなので花嫁衣裳を着る時間はなかった。それに彼女も着るつもりはなかった。そこまでは考えていなかったのだ。
 兵士達も楽器を手に来ている。どうやら彼等は本来は軍楽隊であるようだ。
「私も楽器は弾きますぞ」
 ベルコーレは得意そうに言った。
「笛にバイオリン、それに歌も歌うことができます」
「おお、それは素晴らしい」
 村人達はそれを聞いて称賛の声をあげた。
「ではあとで一曲頼みたいところですな」
「喜んで」
 ベルコーレはにこやかな顔でそれに応えた。
「これから神聖な式がはじまりますからな。自分を祝って歌わせてもらいましょうか」
「どうぞ」
 村人達も彼の歌を期待する言葉をかけた。ベルコーレはそれを受けてさらに上機嫌となった。
 村人達も兵士達も上機嫌であった。だがアディーナは一人面白くなさそうである。
「どうしたの?」
 そんな彼女にジャンネッタが声をかけた。
「この華やかな式の主役なのに」
「何でもないわ」
 アディーナはそう言って誤魔化した。だが心はここにはなかった。
(いないわね)
 彼女はある男を探していたのである。
(いないと面白くないのに)
 どうやらネモリーノを探しているようである。彼女にとっては彼がいないと話にならない。探したがやはり何処にもいない。
 諦めて式の中央に入った。そこに招かれているドゥルカマーラが来た。
「やあやあこの度はどうも」
 彼はこの話の成り行きを知らない。知っていても人事で済ませるであろう。
 それが山師だからだ。そういう意味で彼はプロと言えた。
「まさか花嫁を見ることができるとは思いませんでした。これは何より」
「有り難うございます」
 アディーナはそんな彼の言葉に頭を垂れた。
「先生にも祝って頂けるとは何よりです」
「ほほほほほ」
 ドゥルカマーラはそれを受けて上機嫌に笑った。
「ではこの二人のこれからの幸せを願って私も披露したいものがあります」
「それは何でしょうか」
 村人達が尋ねた。
「何だと思います?」
 彼はここで逆に尋ね返してきた。
「ううん」
 村人達はそれを聞いて考え込んだ。
「わかりません」
「一体何でしょうか」
「外国の歌です」
「外国の歌!?」
「左様。先にも言いましたが私はあちこちを回っておりまして。そこで覚えた歌なのですが」
「一体どんなものですか?」
「はい、男と女、二人で歌う歌です。詩と楽譜はここにあります」
 そう言って懐からそれを取り出した。
「これはまた用意がいい」
 村人達も兵士達もそれを見て称賛の声をあげた。
「では私が指揮を執りましょう」
 ベルコーレが進み出て言った。
「ではお願いします」
 ドゥルカマーラはそれに従い彼に楽譜を渡した。
「ほう」
 ベルコーレはそれを開いてその中をパラパラと見た。
「これはよさそうだ」
「そうでしょう、私のお気に入りの歌ですから」
 ドゥルカマーラは得意そうに言った。
「そして詩は私が。歌うのはこれは花嫁と決まっていまして」
「私がですか?」
「はい。如何ですか」
「そうですね」
 アディーナはそれを聞いて少し考え込んだ。
「喜んで」
 そしてそれを承諾した。
「受けて頂き有り難く思います」
 ドゥルカマーラはにこやかに笑ってそう応えた。そして歌ははじまった。
「行くぞ」
 ベルコーレは兵士達を前に指揮棒を執った。中々さまになっている。
 楽譜を開いた。そして棒を振りはじめた。
 兵士達が楽器を奏ではじめる。すぐに楽しそうな曲が流れてきた。
「さあ娘さん」
 まずはドゥルカーラが歌いはじめた。意外と美声である。
「わたしゃ金持ち、あんたは美人。そんなあんたは何がお望みかね?」
 歌も上手い。軽快なリズムに乗り軽やかな動作も入れて歌う。
「お気持ちは嬉しいけれど」
 アディーナも歌いはじめた。彼女も歌が達者だ。
「私はしがない女船頭、貴方には似合わないわよ」
 彼女はここで自分がネモリーノにいつも言う言葉を思い出した。
「そんな固いことを言わないでおくれ」
 ドゥルカマーラはにこやかに笑いながら歌う。
「私には過ぎたことよ」
 アディーナは返す。歌は次第に乗ってきた。
「面白い歌だな」
「そうなるのかな」
 村人達は酒や料理を楽しみながらそれを聞いている。見れば兵士達と共に行う予定だった宴をそっくりここでしているようである。
「娘さん、世の中お金ですぞ」
 ドゥルカマーラは歌を続けた。
「お金さえあれば何でも適う、愛は軽くて吹けば飛ぶがお金は重くて残りますぞ」
(ネモリーノと反対のことを言うわね)
 アディーナはまた思った。だがそれをおもてに出すことなく歌を続けた。
「けれど私には好きな人がもういますので」
「まあそんな固いことを言わないで」
「私には過ぎたこと」
 二人は歌で丁々発止のやりとりを続ける。次第に歌の調子がクライマックスに近付いてきているのを教えていた。
「わしを幸せにしておくれ」
「それは駄目よ。愛はお金にはかえられないわ」
 それで歌は終わった。結局愛は金なぞよりも遙かに大切なのだということであった。
「お見事!」
 歌が終わると村人達はドゥルカマーラに拍手を送った。
「素晴らしい!」
「まさかこれ程までとは!」
「いやいや」
 ドゥルカマーラはほくほくとした顔で村人達に応えた。
「私めは色々回っておりましてな。そこで多くの芸を身に着けておるのです。これはその中のほんの一つに過ぎません」
(一番得意なのは口でのやりとりじゃがな)
 やはり食えない男であった。だが村人達はそれに気付きながらもあえて知らないふりをしていた。彼等も中々したたかである。
 そこに公証人が来た。彼は書類を手にしている。
「丁度よいところに」
 ドゥルカマーラが彼を迎えた。
「では早速サインをしますかな、御二人さん」
「はい」
 ベルコーレはにこやかに頷いた。
「私は何時でもいいですよ」
「左様ですか。では花嫁さんの方は」
「私ですか?」
 アディーナはドゥルカマーラの言葉に少しギョッとした。
「ええ。他にどなたがおられます?」
「そ、そうですね」
 彼女は不意に視線を泳がせた。そしてその場を見回した。
(こんな時に限っていないわね)
 そして内心舌打ちせずにいられなかった。
(いないと話にならないじゃない。折角ここまできたのに)
 彼女は口の中を噛んで眉を顰めていた。如何にも不機嫌そうな顔であった。
「ん!?」
 それに最初に気付いたのはベルコーレであった。彼はやはり、と思った。しかしそれはやはり心の中だけに留めておいた。
「どうしたんだい?」
 そして不思議そうな顔を作ってアディーナに問うた。
「いえ、何も」
 アディーナは咄嗟に誤魔化した。だが心中穏やかではない。
 やはりネモリーノは見えない。アディーナはそれが気になって仕方がないのだ。
「どうも様子がおかしいのう」
 それはドゥルカマーラも察した。やはり頭の回転は早い。
 彼はアディーナを見ながら場の端にあるテーブルに座った。今のところ誰も彼に注意は払っていない。
「何時見てもこうした場はよいのう。若い頃を思い出すわい」
 どうやら彼も結婚していたことがあるらしい。だがそれが結婚詐欺の可能性も否定できない。それが彼の胡散臭さであった。
 その真相はともかく彼は気分よくその場で酒と食事を口にしだした。だがここで彼の肩をツンツン、と叩く者がいた。
「ん!?」
 彼はそちらに顔を向けた。見ればネモリーノがいた。
「御前様も来ておったのか」
 ドゥルカマーラは彼を認めて言った。
「一緒にどうかね」
 そして杯を勧めた。だがネモリーノはとても酒を楽しむような状況ではなかった。
 顔は真っ白であった。絶望に沈んだ表情で肩をガックリと落としていた。
「どうなされた、このような場でそれはあまりにも場違いですぞ」
 ドゥルカマーラはそんな彼を励ます言葉をかあけた。だがネモリーノはそんな言葉は耳に入らないようであった。
「あの、先生」
 彼はアディーナの方をチラチラと見ながら口を開いた。
「今すぐに愛される方法はありますか?」
(何かあったようじゃな)
 ドゥルカマーラはそれがアディーナのことだとは知らない。だが彼の沈んだ様子を見て相変わらず恋煩いだとはわかった。
(どうせ間の抜けたことでもしでかしたのじゃろう。やっぱりこの若者は尋常でない間抜けじゃな)
 そう思いながらも彼はネモリーノの相談に乗ることにした。自分の利益になるように。
「ではあの薬をもっと飲みなされ」
「それで彼女に愛されますか?すぐに」
「うむ、すぐにな」
(もうすぐこの村とおさらばじゃ。好きなだけホラを吹いておくか)
 内心クスクス笑いながら答える。
「それでたちどころに女の子達に取り囲まれますぞ」
「よし」
 ネモリーノは決めた。そして申し入れた。
「先生、もう一瓶!」
「わかりました」
 そして彼は右手を差し出した。
「お代を」
「うっ・・・・・・」
 ネモリーノはそれを聞いて言葉を詰まらせた。
「今持ち合わせが・・・・・・」
「では持って来なされ。酒場で待っておりますからな」
「本当ですか!?」
「さっきも言いましたがわしは嘘は言いませんぞ」
「わかりました」
 ネモリーノはそれを聞いて大きく頷いた。
「では酒場で待っていて下さい。すぐにお金を持って来ます!」
 そして彼は走り去った。
「やれやれ」
 ドゥルカマーラはその後ろ姿を見送って肩をすくめた。
「気はいいがどうも頭の回転が鈍い御仁じゃのう。あれでは後々苦労するじゃろうな」
 そう言いながらもネモリーノが気にいりだしていた。
 そんな彼を少し待ってみる気になった。彼はゆっくりろ席を立った。その前ではアディーナが公証人にサインを少し待ってくれるよう主張していた。

「まあこうなると思っていたがな」
 式はとりあえず休憩に入った。ベルコーレはそこから離れ広場に涼みに来ていた。
「俺は多分当て馬だろうな。あの娘の本命は別にいる。それは多分」
 考えに耽っているところにネモリーノが来た。やはり肩を落とし絶望しきった顔をしている。
「家の何処にもないなんて・・・・・・」
 彼は項垂れたまま歩いていた。
「どうしたんだ、何時使ったんだろう」
 そうやら家にお金がなかったらしい。彼はこの時忘れていたがそのお金は全て隣の叔父さんに見舞いとして全て渡していたのだ。気がいいが物忘れの激しい彼はそれをすっかり忘れていたのだ。
「どうしよう、このままじゃ僕は」
「その本人が来た。また落ち込んでいるな」
 ベルコーレはネモリーノを認めて呟いた。そして彼に声をかけることにした。
「おいそこの若いの、一体どうしたんだ!?」
 事情はわかっている。
「そんなに落ち込んで。何があったんだ!?」
「いえ」
 ネモリーノは顔をあげた。見ていられない表情であった。
「お金がなくて。どうしたらいいか」
「お金がない」
「はい。それでどうしたらいいかわからないんです。今すぐに必要なんですが」
「今すぐ」
(また馬鹿なことをしようとしているな)
 ベルコーレはそれを聞いて思った。
(どうせあの娘のことだろう。何に必要なのかは知らないが)
 だがここで見捨てるのも気の毒に思えた。彼は進んでこの喜劇に参加しているのだしネモリーノに対しても悪感情はない。ならば助けてやろうと思った。
(どうせ明日になればここを離れるんだ。ならばここは援助してやるか)
 彼は決めた。そしてネモリーノに対して言った。
「そんなに必要なのかい?」
「はい」
 彼は項垂れたまま答えた。
「どうしても今すぐ必要なんです」
「わかった」
 ベルコーレは頷いた。そしてネモリーノに対して言った。
「ならばうちの隊に入るがいい。すぐに金が手に入るぞ」
「本当ですか!?」
「ああ。二十スクードだ。どうだい?」
「二十スクード」
 ネモリーノはそれを聞いて顔を下に向けて考えだした。
「今すぐ手に入るぞ。どうだい?」
(どのみちその体格じゃ検査しても受かるかどうかわからないがな。まあそれは経費で落としてやるか)
 ベルコーレは彼の丸々と太った体格を眺めながら心の中で呟いた。とても兵隊になれるとは思っていなかった。
「うちの隊は軍楽隊だ。前線にも出ないしいいものだぞ」
「けれど僕は楽器は」
「荷物運びならいいだろ。どうだ、悪くはないだろう」
「はい」
 彼は力なく答えた。
「それに軍隊には名誉と栄光があるぞ」
「はあ」
 また力のない答えだった。臆病な彼は戦争も軍隊も嫌いであった。戦場に行って死ぬのは絶対に嫌だと思っていたし、そうでなくとも軍隊での厳しい命令で殴られたりするのも怖かった。やはり軍隊には不向きであった。
「しかも女の子にもモテモテだ。いいことづくめだぞ」
「けれど僕は」
「お金が欲しいのだろう?」
 ベルコーレはここでまた問うた。
「確かにそうですが」
「なら迷うことはないだろう、すぐに入隊の願書にサインするんだ。それだけで二十スクード入るぞ」
「すぐに」
「そうだ。そうすれば明日から御前さんはもてもての軍人だ」
(絶対検査で落ちるに決まっているがな。その時は借金にさせてもらおう)
 流石に善意で金を渡すつもりはないようである。わりかししっかりとしている。
(明日からここともお別れか)
 ネモリーノは周りを見渡して思った。
(叔父さんとも、村の皆とも。そして)
 やはり彼女の顔が頭に浮かんだ。
(アディーナとも。けれどそれしかないんだ)
 彼でも現実はわかっていた。いや、わかっているつもりであった。
(アディーナを僕のものにする為には)
「どうだ、決めたかい?」
 ベルコーレはまた問うた。
「すぐだぜ」
(そうでなきゃ借金にさせてもらうがな。二十スクード位何とかなるだろう)
 彼はネモリーノを誘う。執拗な程だ。
(早く決めろ、そうすりゃ御前さんは助かるんだぞ)
 心の中の言葉は決して言わない。ネモリーノもそれを知るよしもない。
「二十スクードなんですね」
 ネモリーノはここで顔を上げて問うた。
「そうだ、二十スクードだ」
 ベルコーレは答えた。それを聞いてネモリーノはようやく決心した。
「わかりました」
「よし」
 ベルコーレはそれを受けて頷いた。そして懐から一枚の紙とインク、そしてペンを取り出した。
「これにサインしてくれ。そうすれば二十スクードは御前さんのものだ」
「はい」
 ネモリーノはペンを受けた。そして書類を手にする。しかし。
「あの、すいません」
 実は彼は字が書けないし読めないのだ。ベルコーレはそれを見てニヤリと笑った。
(これで落選は確実だな)
 彼はここで嘘を教えることにした。
「ああ、読み書きが出来ない奴の為のサインもある。マルを書いてくれればいい」
「マルですね」
「ああ」
(本当は十字だがな。マルは拒否のサインなんだよ)
 ベルコーレは内心舌を出していた。彼はこれで自動的に二十スクード手に入れたことになった。
「よし」
 ベルコーレはサインをされた書類を受け取って大いに満足して頷いた。
「これで御前さんは立派な兵隊だ。俺を手本にすればすぐに伍長になれるぞ」
(通らないがな)
「はあ」
 だがネモリーノの返事は力のないものであった。
(こうするしかなかったんだ)
 ネモリーノは弱々しい声で内心呟いた。
(アディーナにはわからないだろうな、僕がどれだけ苦しんでいるか。けれどいいや)
 もうサインはした。今更何を言ってもはじまらない。
(すぐに先生のところに行こう。そして薬を貰うんだ。そうすればアディーナは一日だけれど僕のものだ)
「じゃあ明日ここを発つぞ、心の準備をしておけよ」
「はい」
「楽しい軍隊生活だ。旅と酒と美女が御前さんの永遠の友達だ。軍楽隊だから戦場に出ることもまあないしな」
「それはいいですね」
「だから元気を出せ、御前さんはもう立派な兵隊なんだからな」
(明日除隊だけれどな)
 しかしベルコーレの声はネモリーノの耳には入らなくなってきていた。彼は沈んだ顔で俯いていた。
(これでいい、アディーナの気持ちが僕に向いてくれるんだから」
 そして彼は金を受け取るとすぐにドゥルカマーラのところに向かった。ベルコーレは彼の後姿を笑いをこらえながら見送っていたがやがてそこから消えた。その入れ替わりにジャンネッタがやって来た。
「誰もいないのかしら」
 彼女は辺りを見回した。
「誰かいない?」
 すると向こうから娘達がやって来た。式の間ですることもなくおしゃべりに興じている。
「あ、いたいた」
 ジャンネッタは彼女達の姿を認めてそちらに駆けてきた。
「あら、ジャンネッタじゃない」
 娘達は彼女の姿を認めてそちらに顔を向けた。
「一体どうしたの?」
「凄いニュースがあるのよ」
「凄いニュース!?」
 彼女達はそれを聞いて首を少し前に出した。
「聞きたい?」
 ジャンネッタはそれを聞いて思わせぶりに尋ねた。
「勿論」
 皆それに答えた。これで話は決まった。
「いいわ、じゃあよく聞いてね」
「ええ」
 娘達は彼女を囲んだ。そして聞き入る姿勢に入った。
「ネモリーノの叔父さんなんだけれどね」
「あの今にも危ないっていつ隣村の叔父さんね」
「ええ。実はね、昨日亡くなったらしいのよ」
「それ本当!?」
「本当よ、さっき隣村から来た人に聞いたから。間違いないって」
「前から危なかったからね。それでどうなったの?」
「あの人遺産たっぷり持ってたわよね」
「ええ」
「それでね・・・・・・皆よく聞いてね」
 ジャンネッタはここで皆を側に寄せた。そして小さな声で囁いた。
「その遺産が全部ネモリーノに相続されることになったのよ」
「それ本当!?」
 皆それを聞いて思わず叫んでしまった。
「静かに」
 ジャンネッタはそんな彼女達を窘めた。そして再び自分の側に寄せた。
「まだ皆に言っちゃ駄目よ、あくまで私達だけの秘密」
「いいわ」
 皆彼女のその言葉に頷いた。
「今やネモリーノはこの辺りで一番の大金持ち、結婚するなら今よ」
「性格はいいしね」
「頭は回らないけれど」
 彼女達はそんな話をコソコソとしていた。そしてネモリーノを探しにその場を後にした。
 その時ネモリーノはベルコーレから得た二十スクードの金でドゥルカマーラから金のぶんだけの薬を貰った。そしてそれをすぐさま飲み自宅のすぐ側にいた。
「これでもう問題はない筈だ」
 彼は顔を真っ赤にしていた。
「先生も太鼓判を押してくれた、どんな美女でも僕に惚れる、って。お金を手に入れた介があるってものだ」
 薬の力を信じて疑わなかった。
「すぐここを出ていかなくちゃならないんだ。すぐに」
 そして自分の家を見た。
「御前ともお別れだな。辛いよ、本当に。だけれど」
 ネモリーノは悲しそうな顔で言葉を続けた。
「僕にはこうするしかなかったんだ、こうするしか。だから許しておくれ」
 そしてまた薬を口にした。そうでないとやっていられなかったのだ。
 塞ぎ込むネモリーノの所に娘達が顔を出してきた。
「いたわ」
 先頭をいくジャンネッタが彼女達に対して囁いた。
「用意はいいわね」
「ええ」
 彼女達はそれに対して頷いた。そしてネモリーノの前にやって来た。
「ねえネモリーノ」
 そして彼に声をかけた。
「何だい?」
 彼は赤い顔で彼女達を見上げた。
「見た、この顔」
 ジャンネッタがそれを見て娘達に言った。
「ええ、見たわよ」
 彼女達もそれに頷いた。
「いいお顔してるわよね」
「本当、こんな立派な人そうそういないわよ」
 彼女達は笑みを浮かべながらそう言い合っている。
「立派な顔だなんて」
 ネモリーノもそれに驚いている。彼も自分の顔は知っている。お世辞にも男前だとは思ってはいなかった。
「皆一体どうしたんだい!?」
(まさか)
 彼はそう言いながらも思った。
(もしかして薬が効いてきたのかも) 
 そう思うといてもたってもいられなかった。立ち上がって尋ねた。
「皆、本気なのかい!?また僕をからかってるんじゃないだろうね」
「まさか」
「冗談でこんなこと言わないわ」
 彼女達は答えた。ネモリーノにはとても冗談には見えなかった。
(ううん)
 彼はそれを聞いてまた考えた。嘘には思えない。無論お世辞にも。少なくとも彼にはそう思えた。
(間違いない、薬が効いてきたんだ)
 彼は確信した。これも願いは適ったのだと思った。
 娘達はそんな彼の周りに集まりだした。ネモリーノはそれを上機嫌で見ていた。
(やったぞ、これでアディーナは僕のものだ!)
 彼は兵隊にとられることも忘れて喜びに支配された。そしてこれから起こることに思いを馳せていた。
「はて」
 そこに騒ぎにつられてドゥルカマーラがやって来た。
「あの騒ぎは一体何じゃ」
 見ればネモリーノがいる。
「またあの若者か。何かと人騒がせな御仁じゃ」
 だがそれまでと様子が全く違う。何と若い娘達に囲まれて上機嫌であいるのだ。
「何と」
 ドゥルカマーラはそれを見て目を瞠った。
「本当に娘達に囲まれておるわ。これは一体どういうことじゃ!?」
 あの薬がインチキであることは彼が一番よく知っている。その薬が効いている筈がないのだ。
「おかしいのう、そんな筈はないのじゃが」
「あ、先生」
 ネモリーノがここで彼に気付いた。そして娘達から離れて彼のところに来た。
「有り難うございます、おかげで願いが適います。これも全て先生のおかげです」
(むむ)
 ドゥルカマーラは彼を見て内心色々と思った。
(まさか本当じゃったのか?いや、幾ら何でもそれは)
 考え込んでしまう。どう考えても唯のワインにそんな効果がある筈がない。
 しかしそんなことを言える筈もない。彼はここはいつものインチキとハッタリに徹することにした。
「ほっほっほ、そうじゃろそうじゃろう」
 彼は顔を崩して笑った。
「何せわしが丹精込めて作った薬じゃからな」
(丹精込めて入れ替えただけじゃがな)
 とりあえずは自分の功績にした。だが実際は不思議で仕方ない。
(様子を見るか、暫くは)
 今までの経験でそうすることにした。ここでまた騒ぎにつられて人が来た。アディーナであった。
「えっ!?」
 彼女は目の前の光景を見て思わず我が目を疑った。
「これは一体どういうこと!?あのネモリーノが」
 ネモリーノはまた娘達に囲まれていた。それでアディーナには気付かなかった。それでも彼は喜んでいた。
(アディーナもすぐ来るさ、そして僕の側に)
 だがそう浮かれるあまり実際に彼女が来ても気付かなかったのだ。滑稽な事態であった。
「先生」
 アディーナは側にいたドゥルカマーラに顔を向けた。
「一体何事ですか!?」
(おや)
 ドゥルカマーラは彼女を見てそこに他の娘達とは違ったものを感じた。
「いや何」
 だが今はそれについて思いを巡らさずアディーナの話に答えることにした。
「あの若者はわしの薬を飲んだのじゃ」
「薬を!?」
「そうじゃ、愛の妙薬をな」
「愛の妙薬」
 それを聞いたアディーナの眉が怪訝そうに歪んだ。
「うむ。飲めばどんな娘にも惚れられるという魔法の薬じゃ。わしの誇る自慢の薬じゃよ」
「そうなのですか」
「うむ。普通は飲んでから一日経ってから聞くのじゃがのう」
「一日」
 アディーナはそれを聞いてハッとした。ネモリーノの言葉を思い出したのだ。
(まさかあの時私に一日だけ待ってくれって必死に頼んでいたのは)
 彼女は事の真相がわかってきた。
「ところがのう」
 だがここでドゥルカマーラがまた言った。
「あの若者はすぐに効いて欲しいとまた買ったのじゃ。たっぷりとな」
「たっぷりと」
「そうじゃ。かなり切羽詰っておったな。それでお金を作ってわしのところにまた来た」
「お金を作って」
「そう、兵隊に志願しての」
「兵隊に!?」
 アディーナはそれを聞いて思わず声を挙げた。だがすぐに口を閉ざした。しかしそれはネモリーノには聞かれていなかった。
「ネモリーノ、あっちへ行きましょう」
 ジャンネッタ達が彼を誘っていた。
「木の下で舞踏会。皆で踊りましょうよ」
「うん」
 ネモリーノは口元も目元も極限まで緩めてそれに応えた。
「行こう、そして皆で踊ろうよ」
「ええ」
 そして彼等はネモリーノの家から少し離れた木の下に向かった。その場にはアディーナとドゥルカマーラだけになった。
「先生」
 アディーナはあらためて彼に尋ねた。
「それは本当の話なんですか!?ネモリーノがそんなことを」
「本当です」
 ドゥルカマーラは答えた。
「彼自身がそう言ってました」
「何と」
 アディーナはそれを聞いて言葉を失った。
「とにかくすぐにお金が欲しかったようですな」
(まあどう考えても検査で落とされるじゃろうが。あれは借金にでもなるかのう)
 心の中の言葉はここでは伏せた。
「お金が」
「はい」
「けれどネモリーノは今家にそれ程お金があるわけでもないし」
「どうやら兵隊に志願したようで」
 ドゥルカマーラはタイミングを見計らって言った。
「兵隊に!?」
 アディーナはそれを聞いて思わず声をあげた。
(おや)
 ドゥルカマーラはここで気付いた。
(どうやらあの若者の想い人といのは)
 頭の回転の早い彼のことである。すぐに結論を導き出した。
「娘さん」
 そしてアディーナに問い掛けた。
「そんなに心配ですかな」
(少し露骨じゃったかのう)
 彼は心の目でアディーナの動きを見張った。
「それは・・・・・・」
 見ればアディーナは狼狽の色を濃くしていく。
「先生」
 もうその狼狽を抑えることが出来なかった。彼女は不安に満ちた顔でドゥルカマーラを見上げた。
「その話、嘘ではありませんよね」
「はい」
 ドゥルカマーラは如何にも他人事のように答えた。
「何しろ本人の言葉ですから。嘘ではないでしょうな」
「ネモリーノは嘘なんか言わない」
(おやおや)
 ドゥルカマーラはその言葉を聞いて目を細めた。
(これはかなり気にしておるな)
 彼はここで更に攻勢に出ることにした。
「兵士になれば戦場に立つ。銃弾と砲弾が飛び交う戦場へ」
「要領の悪い彼がそんなところに行ったら」
「戦場では要領が悪いと危ないですな」
「死・・・・・・」
 アディーナの顔が蒼ざめる。ドゥルカマーラは他人事の様に続けた。
「戦場ではよくあることです。何しろ戦場は殺し合いの場所ですからな」
「ネモリーノがそんなところに行ったら。気の優しい彼が行ったら」
 アディーナの顔はさらに蒼くなっていく。もう白くなっている。
(もうすぐじゃな)
 ドゥルカマーラはここで切り札を出すことにした。
「それ程気になりますかな、あの若者が」
「はい!」
 アディーナは強い声で切り返した。それが何よりも彼女の心を物語っていた。
「先生、何とかなりませんか!?早く彼を救わないと」
「その言葉、偽りではありませんな」
 ドゥルカマーラはあえて神父の様な口調で問うた。
「こんな時に嘘なんて言いません」
 アディーナはキッとした声で言った。
「それなのにどうしてあんなに上機嫌で。やけになったのかしら」
「それが私の薬の効き目です」
 ドゥルカマーラは言った。
「薬の」
「はい。あの若者は最初に私から薬を買った時にこう言いました。たった一人の娘の為に飲むのだと。どんな女性の心
も支配できるというのに」
(私のことだわ!)
「イゾルデの魔法の薬が欲しいと言いましてな。それで私はあの若者に差し上げたのです」
「そんなことを」
「はい。私はどんな薬も作り出すことができますので。当然その愛の妙薬も」
(だからあの時あんなに上機嫌だったのね。それなのに私は)
 アディーナは悔やんだだが悔やんでも悔やみきれるものではなかった。
「しかしそれでも駄目だったようで。それで彼は自分を軍に売って金を作ったのです」
「そして薬を買ったのですね」
「はい。それでそのお金のぶんだけ飲んだのです。するとああして娘達に囲まれまして。いやはや、自分で作ったのですが凄い効き目ですな」
(知らなかった、彼がそれ程私のことを想っていたなんて)
 彼女は今までそれはほんの一時の迷いだと考えていたのだ。
(それなのに私はいい気になって冷たくして。何ということをしてしまったのかしら)
(ふむ)
 ドゥルカマーラはその間も彼女から目を離してはいなかった。
(どうやら上手くいきそうじゃな)
 思わず笑みがこぼれる。だがそれはすぐに消した。
「お嬢さん」
 そしてアディーナにあえて優しく問いかけた。
「貴女の悩み、私が解決しましょうか」
「先生が!?」
「はい」
 ドゥルカマーラは恭しく答えた。
「今苦しいのでしょう」
「ええ」
 否定することはできなかった。
「どうすれば彼を救えるのかしら」
「そんな時こそ私の薬です」
「先生の」
「そうです、そんなことは新しい愛を見つければすぐに収まります」
(こう言ったらどうなるかのう)
 ドゥルカマーラはここであえてアディーナを挑発するようなことを口にした。
「新しい愛」
 アディーナはすぐにその言葉に眉を顰めさせた。
(よしよし)
 ドゥルカマーラはそれを見て内心満足気に笑った。彼の思うとおりであった。
「もてたいでしょう」
「いいえ」
 アディーナは首を横に振った。
(そら乗ってきたな)
 ドゥルカマーラは勝利を確信した。さらに言葉を続ける。
「大金持ちの殿方なぞは」
「お金なら困っていませんから」
「貴族の子弟は」
「柄じゃありませんわ」
「では美男子は」
「興味ありません」
「ふむ」
 ドゥルカマーラはここでまた考える演技をした。そして間を置いてまた言った。
「ではどなたがいいのですかな」
「決まっているでしょう」
 アディ−ナは毅然とした声で言った。
「私が欲しい人、それは」
「それは」
 ドゥルカマーラは何もわかっていない素振りで問うた。
「ネモリーノだけです」
「あの若者だけですか」
「はい、私はその他には何もいりません」
「そうですか、ならば話が早い」
 ドゥルカマーラは笑いながら言った。
「それでは私の薬を」
「先生の」
「左様、あの若者に渡したものと同じものを。これで貴女も救われますぞ」
「折角ですけれど」
 アディーナはここでどういうわけか不敵な笑みを口に浮かべた。
(おや!?)
 ドゥルカマーラはここで目の光を変えた。雲行きが変わったのを感じていた。
「私には必要ありませんわ」
「どうしてですかな」
(ふむ、これはまずいのう)
 彼は自分の薬が売れそうにもないことを肌で感じていた。
(これは何とかしなくてはな)
 そしていつもの口八丁手八丁に訴えることにした。
「そうは言いましてもお嬢さん」
「私も薬を持っておりますの」
 アディーナは流し目をして彼に返した。
「それは?」
 ドゥルカマーラは問うた。
「私自身ですわ」
 彼女は悠然と微笑んでそう答えた。
「貴女御自身が」
「ええ」
 彼女は微笑んで答えた。
「先生はご存知ありませんのね。女の武器というものを」
「女の武器」
「はい。女は愛の妙薬に頼ることなく好きな男を手に入れることができますわ」
「またまたご冗談を」
 ドゥルカマーラはアディーナのその言葉を笑い飛ばした。
「人の心はそうそう簡単には動きませんぞ」
「それもわかっておりますわ」
 アディーナはすぐに返した。
「それをわかったうえで言っていますの」
「それは凄い」
 だが彼はその言葉をまだ本気にはしていない。
(そんな簡単に適えられたらわしのこのインチキの薬も売れることはないわい)
 どうやらこの薬は結構な売れ行きらしい。
「私の持っている愛の妙薬」
「それは」
「この顔、そして流し目ですを」
 そう言いながらドゥルカマーラを横目でチラリ、と見る。
(ほお)
 彼はそれを受けて思った。
(言うだけはあるわい。これは中々強烈じゃ)
 最早若い娘には興味のない彼であるがこれには少し心が揺れるものがあった。アディーナはさらに続ける。
「微笑みもありますわよ。私がこれを使ったらネモリーノなんてすぐに陥落しますわ」
 不敵な声でそう言った。
「しかし今あの若者はわしの薬の力を得ておりますじゃ。そうそう簡単にはいきませぬぞ」
「それでもです」
 やはりすぐに切り返してきた。
「先生の薬の御力でも私には適いませんわ。私の目の力には」
「やれやれ」
 ドゥルカマーラはそれを聞いてもうお手上げといった様子であった。
(こりゃわしなんかの手におえる娘ではないわ。とんだ小悪魔じゃ)
 再び彼女を見た。
(一本取られたわい。ここは二人の成り行きを離れたところから見るとしようか)
 彼はこれからの戦略を決定した。そしてこの場は退くことにした。
「見ていらっしゃい、ネモリーノ」
 一人になったアディーナは毅然とした声で言った。
「貴方の心は私のものよ」
 そしてその場を去った。後には誰もいなかった。
 筈であった。だがそこにはネモリーノがいた。
「アディーナがそんなことを考えていたなんて」
 木の陰から出て来た。実は彼はダンスから離れて一人家に帰ろうとするところをアディーナとドゥルカマーラを見ていたのだ。そして二人の会話を木の陰から聞いていたのだ。
「嘘じゃないよな」
 彼は信じられなかった。今アディーナの確かな気持ちを聞いたことが夢のようであった。
 アディーナの去った方を見る。だがそこには彼女はもういない。それでも彼はそこに見ていた。
「泣いていたようにも見えた」
 彼は呟いた。
「僕のことで泣いているんだ。間違いない」
 そして今彼女の本当の気持ちを察した。鈍感な彼でもわかった。
「彼女は僕を愛しているんだ。本当に。夢みたいだけれど本当のことなんだ」
 彼の言葉は恍惚となっていた。
「彼女が僕を愛している、僕はこれ以上何を望むんだ?いや」
 ここで首を横に振った。
「もう望むものは何もない。望んでいたものを手に入れたんだから」
 今彼はその手に幸せを掴んでいた。
「彼女の心は僕の中にある。そして彼女のその吐息が僕の吐息と混ざり合い一つになる・・・・・・」
 彼の中でアディーナと彼自身が踊っていた。
「神様、有り難うございます」
 神に祈りを捧げた。
「もう死んでも構いません。満足です」
 ネモリーノは家に入った。暫くして戸を叩く音がした。
「はい」
 ネモリーノは戸を開けた。そこにはアディーナがいた。
「アディーナ!?」
「ええ、私よ」
 アディーナは頷いて答えた。
「ネモリーノ」
「何だい?」
「ちょっと聞いたのだけれど」
(薬のことかな)
 彼は心の中で思った。
「何を?」
 彼はとりあえずはとぼけた。そして逆に問うた。
「貴方兵隊に行くって本当?」
(そのことか)
 彼は明日からのことを思い出し落胆した。
「ああ」
 そして力なく答えた。
「明日からね。けれどそれがどうしたんだい?」
「それがどういうことかわかってるの!?忠告しておくけれど貴方は兵隊には向かないわ」
(そんなことわかってるよ。けれどそれはもういいんだ)
 彼は心の中で呟いた後アディーナに顔を向けた。
「けれど君には関係ないだろう」
「おおありよ」
 少しキツい声で返してきた。
「わかってると思うけれど戦場はとても危ないところよ。死んでしまうのよ」
「わかってるよ」
 彼は俯いて答えた。
「貴方それでいいの?このままだと戦死するのよ」
「けど」
 その声は見る見る小さくなっていった。
(君の為なんだ。仕方ないだろう)
 それは言えなかった。彼にも意地があった。
「これを見て」
 彼女はここで一枚の紙を取り出した。
「さっき軍曹さんから貰って来たの。契約書よ」
 見ればネモリーノの字でマルが書かれている。彼がさっき書いたものに間違いない。
「払い戻してきたわ。貴方はこれで自由よ」
「自由」
「そうよ。そして」
(来たな)
 ネモリーノはここでほくそ笑んだ。
(気持ちはもうわかっている後は直接聞くだけだ)
 彼はアディーナの次の言葉を待ち受けた。
「さよなら」
「うん。さよなら・・・・・・って!?」
 彼はその言葉を聞いて思わず声をあげた。
「アディーナ、今何て言ったの!?」
「聞こえなかったの?さよなら、って言ったのよ」
 彼女は素っ気なく答えた。
「これを受け取ったら自由よ。後は何の心配もいらないわ、何もね」
「あの、アディーナ」
 ネモリーノは恐る恐る彼女に問うた。
「何?」
「他に何か・・・・・・言うことはない?」
「何を!?」
「いや、その」
 彼はその頑なに見える態度に思わず縮こまった。そしてアディーナを上目遣いに見た。
「何もないんだね」
「ええ。言っている意味がよくわからないのだけれど」
「わかったよ」
 彼は力落ちした声で言った。
「じゃあそれはいらないよ」
「えっ!?」
 今度はアディーナが声をあげた。
「当然だろ、僕が欲しいものが手に入らないんだ。だったらここにいても何の意味もないよ」
「貴方何を言っているの!?」
「別に狂ってもいないよ。僕は自分の気持ちに素直に従うだけなんだ」
 彼は顔を上げ、目を閉じて言った。
「他に何があるというんだい?」
「ネモリーノ」
 アディーナはそんな彼に対して強い声で話し掛けた。
「聞いて頂戴」
 ネモリーノはそれには答えなかった。だが心の中で思っていた。
(聞かない筈ないだろう)
 それが彼の本音であった。
(君の言葉なんだから)
 彼は聞かないふりをしながら聞くことにした。
「何故行くの?」
「自分の心に従うからさ」
 素っ気なく返した。
「冗談は止めて」
 だがそれはアディーナの強い言葉の前に打ち消された。
「何故行くの?兵隊になる決心をしたの?」
「そうさ」
 ネモリーノは彼女に言った。
「それで僕の運命をよりよく出来ると思ってね」
「違うわ」
 アディーナは彼のその言葉を否定した。首を横に振った。
「貴方は自分に嘘をついているわ。私にはわかるわ」
「馬鹿なことを」
「いいえ、馬鹿じゃないわ。私は心から願っているのよ、貴方のことを」
「そんな出まかせを」
「出まかせで契約書を買い戻す?」
 アディーナは言った。
「貴方の人生を心から案じているから・・・・・・だから買い戻したのよ」
「それもいつもの軽い気持ちだろう?また僕をからかっているんだ」
「黙って聞いて!」
 その声が強くなった。ネモリーノはその声の前に完全に沈黙してしまった。
「よく聞いて、貴方はもう完全に自由よ。貴方を縛るものは何もないわ。そう、何処へでも行くことができるのよ」
「何処へでも」
「そうよ、だから安心して。もう誰も貴方を縛ったりしないわ」
「誰も」
「ええ。だからもう何にも悩まされることはないわ」
「何にも」
「安心してね。それは」
「うん」
 ネモリーノは頷いた。ここでアディーナは一呼吸置いた。
(いよいよか)
 彼はそれを見ながら思った。
(やっと彼女が言うんだ、僕を好きだって)
 だが話はそれ程簡単なものではなかった。
「さようなら」
 アディーナはそう言うとプイ、と背を向けた。
「え」
 これにはネモリーノも呆然としてしまった。
「あの、アディーナ」
 そして背を向けた彼女に対して問い掛けた。
「何?」
 アディーナはそれに応えて顔を向けて来た。見返りだ。
「他に何か言うことはないの?」
「他にって?」
「うん。あの、僕に言うことがない?その・・・・・・つまり」
「ないわ」
 モジモジとする彼に対して言い放った。
「他に何と言えというの?私に」
「・・・・・・わかったよ」
 彼はそれを聞いてまた肩を落とした。
「じゃあいいよ。やっぱり僕には兵隊になるのが一番いいんだ」
「また何馬鹿なことを言っているのよ」
「馬鹿だから言うんだよ。どうせ僕は字も読めないしものも知らない。畑仕事以外は何も出来ない男さ。だけれどね」
 彼は言った。
「僕だって自分がどういう奴かわかっているつもりさ。だからあえて言わせてもらうよ」
「何?」
「自分の気持ちに素直でいたい、それだけだ」
「それだけ?」
「ああ、他に何があるっていうんだよ」
 今度は彼が背を向ける番であった。
「だから僕は行くよ。望むものが手に入らなくて何が自由なんだ、そんなもの何の意味もないよ」
「ネモリーノ」
「さようなら、君が言うよりも僕の方から言うよ。もう永遠にお別れさ」
「永遠・・・・・・何言っているのよ」
 アディーナはその言葉に焦りを覚えた。そして彼に対して強い声で言った。
「待ちなさい!」
「嫌だよ」
「いいから聞きなさい」
 そんな彼を無理矢理引き留めた。そして言った。
「貴方がまだ人の話を聞く意志があるのなら聞きなさい、よおくね」
「何をだい?」
 彼は振り向いた。アディーナはそんな彼を待っていたかのように口を開いた。
「もうこうなったら全部言うわ。聞きなさい」
「うん」
 彼は完全に飲まれていた。そして彼女の言葉に耳を集中させた。
「貴方が好きよ。貴方が本当に好きよ」
「本当!?」
 つい先程までの余裕は何であったのだろうか。彼は思わず聞き直した。
「この場で嘘を言って何になるのよ」
 アディーナはそんな彼を見上げて言った。
「貴方は私の可愛い人よ、それ以外の何者でもないわ。そしてね」
「そして・・・・・・」
「貴方と一緒になりたいわ。そして何時までも幸せに暮らしたいわ。私の言いたいことはそれだけ」
「あの」
 ネモリーノは今聞いた言葉を信じられなかった。思わず聞き直した。
「それ・・・・・・本気!?」
「本気よ」
「冗談じゃないよね」
「嘘だと思うなら」
 彼女はそんな彼に対して言った。
「その頬っぺたをつねって御覧なさい。よくわかるわよ」
「わかったよ。つねるまでもないよ」
 ネモリーノは満足した息を吐き出しながら言った。
「先生は僕に愛をくれたんだ。これ以上の贈り物はないよ」
「そうよ。ネモリーノ、貴方は私の想い人よ」
「本当なんだね、アディーナ」
 彼はまた問うた。
「本当に君は僕のものなんだね?僕の恋人なんだね?」
「・・・・・・何度も言わせないでよ」
 彼女は頬を赤らめさせていた。
「貴方が好きよ、本当に」
「ああ、神様」
 ネモリーノはそれだけで満足であった。もう他には何もいらなかった。
「有り難う、本当に有り難うございます。僕の望みはもうありません」
「私はあるわ」
「えっ!?」
「貴方と何時までも幸せに暮らすことを」
 そう言ってネモリーノの手をとった。大きな、それでいて温かい手であった。
「この手で私を包み込んでね。この優しい手で」
「うん・・・・・・」
 彼は頷いた。そしてアディーナを抱き締めた。
 アディーナも彼を抱き締めた。そして二人は広場へ向かった。そこには兵士達もいた。
「おや?」
 ベルコーレもいた。彼は二人の姿を認めて顔を上げた。
 二人は仲良く手を取り合って歩いている。ベルコーレはそれを見て頬を緩めた。
「やっと一緒になったか」
 だがそれはすぐに引っ込めた。
「ちょっと待った娘さん」
 厳しい顔をしてアディーナに問うてきた。
「これは一体どういうことかね?私との式を途中で放り出してその男と一緒に歩いているとは」
「見ての通りよ」
 アディーナは満面に笑みをたたえてベルコーレに言った。
「貴方もわかっていたのでしょう?」
「確かに」
(どうやらこの娘は俺よりも遙かに戦上手だったようだな)
 彼はここで自分の考えも見透かされていることを悟った。
「まあいいとしよう」
 結末はわかっていたので迷うところはなかった。
「どのみち女は他にも一杯いる。軍人をやっていれば苦労することもあるまい」
「あっさりしているのね」
「軍人は引き際も見極めないとな。おい、そこの若いの」
 そしてネモリーノに声をかけた。
「あんたも幸せにな。またこの村に来たら一杯やろう」
「はい」
 ネモリーノは幸福で頭が一杯だった。にこやかな笑みでそれに答えた。
「絶対アディーナと幸せになります」
「ああ、幸せにな。それは祈ってるよ」
「ほっほっほ、どうやらわしはまた人を幸せにしてしまったようですな」
 ここでドゥルカマーラも姿を現わした。
「先生」
 ネモリーノは彼に顔を向けた。
「おお、若いの。どうやら願いは適ったようじゃな」
「はい」
 彼は答えた。
「これも先生のおかげです」
「そうじゃろ、そうじゃろ」
 彼は上機嫌でそれを聞いていた。
「わしにできぬことはないからの。どんなことでも思いのままじゃ」
 ここで早速演技の上手いところを見せていた。
「恋も富も皆適えることができますぞ」
「富も」
「うむ。お若いの、あんたは今では村で一番の長者じゃ」
「僕がですか!?」
 彼はその言葉に面食らった。
「まさか、そんなことが」
「いやいや、本当に」
 ドゥルカマーラは戸惑う彼に対して言った。
「これは悲しいことでもありますが」
「悲しいこと」
「そう。聞きたいですかな」
「ええ。何かあったのですか」
「貴方の叔父さんですが」
「あの叔父さんが」
「亡くなられたのです。そしてその遺産が全て貴方のものとなったのですじゃ」
「叔父さんが・・・・・・」
 ネモリーノはそれを聞いて呆然となった。
「あの優しい叔父さんが死んだなんて」
 彼は急に悲しい顔になった。今までの幸福は遙か彼方に消え去ってしまったかのようであった。
「その心ですな」
 ドゥルカマーラはネモリーノのその表情を見て言った。
「その優しい御心が貴方に幸福をもたらしたのですじゃ」
「というと」
「神様がわしを貴方のところへつかわしたのですじゃ。これも日頃の行いの賜物ですかな」
「神様が僕に」
「まあわしの薬が全てを適えたのですが。それでもわしは神様の御導きがなければここには来ませんでしたな」
「そうね」
 アディーナもそれを聞いて言った。
「ネモリーノと私が一緒になることができたのは先生のおかげ。けれど」
「それをもたらしたのは僕の心だったと」
「そういうことですじゃ」
 ドゥルカマーラはそれに答えた。
「そしてその願いを適えたものこそこの薬」
「俺にとってはちょっと忌々しい薬だがな」
 ベルコーレが苦笑しながら言った。
「だが効果はてきめんだな」
「本当に。先生、有り難うございます」
「いやいや」
 アディーナの感謝の言葉に対して鷹揚に答えた。そこへジャンネッタや娘達、そして村人達がやって来た。
「あ、いたいた」
「ここにおられたのか」
 どうやら彼等はドゥルカマーラを探していたらしい。ネモリーノの話がすぐに広まったようだ。
「先生、薬はまだありますか?」
「勿論」
 彼は答えた。
「幾らでもありますぞ、ほら、こちらに」
 笛を吹く。すると彼の馬車がやって来た。
「この中に幾らでもあります。さあ順番に並んで下され」
「はい!」
 村人達はそれに従った。
「これは綺麗になる薬、これは脹れものに効く薬、頑固な者にはこのパイを、眠り薬はこれ」
 彼は馬車の中のものを次々に取り出して説明する。
「コーヒーなぞ比べ物にならない目覚めの薬、勇気を与える薬」
「本当に何でもあるんですね」
「当然ですじゃ、わしに作れないものはありませぬ。そしてこの薬を皆様に差し上げることこそわしの使命」
(ふむ、こうしたことも悪くはないな)
 彼は内心そう思っていた。
「お若いのはもういりませんかな?」
 そしてここでネモリーノに問うた。
「いえ、僕は」
 彼はそれに対して笑顔で手を横に振った。
「もう何もいりません。だって僕は欲しかったものが今この手にあるんですから」
 そして手の中にいるアディーナを見た。
「そうね、私も」
 アディーナも彼を見た。
「他には何もいらないわ。願いはこのまま永遠に二人でいること」
「左様ですか、それではいらぬお節介でしたな」
「けれどわし等にはお節介はまだ足りませんよ」
「そうですよ、早く薬を下さい」
 彼等も何時の間にかドゥルカマーラの薬を信じるようになっていた。我先に金を差し出す。
「並んで並んで」
 ドゥルカマーラはそんな彼等を宥めた。そしてまた並ばせる。
「さあさあそちらにはこれ、それであちらには・・・・・・」
 金を受け取り薬を手渡す。薬は忽ちのうちになくなった。
「後はお楽しみですじゃ。皆様に幸福が訪れますぞ」
「すぐにですか!?」
「勿論」
 彼は胸を張って答えた。
「このドゥルカマーラは嘘を申しません」
(まあこれ自体が嘘じゃが)
 やはり本音は隠している。
「皆さんが望まれることが適います、そしてこの村は幸せに包まれます」
「それはいい!」
「それも先生の御力ですね!」
「左様、その証拠が」
「僕達ですね」
「はい」
 彼はネモリーノ達に答えた。
「僕達は薬のことは決して忘れません、これは本当です」
「私もです。それでこうやって一緒になれたのですから」
「まあ俺にとってはちょっと妬ける話だが」 
 ベルコーレはまだ苦笑していた。
「これも新しい恋をしろってことだろうな。どうだい、娘さん」
 そこでジャンネッタに声をかけた。
「今度この村に来ることがあったら付き合わないかい?」
「今度って何時?」
「まあ駐屯地がこの地域だからまたすぐに」
「だったらいいわ。今度ここに来たらね」
「よし」
 彼は彼で新しい恋を見つけていた。
「さて、薬も見事全部売れてしまいました」
 見れば馬車の中は空になっていた。
「残念なことにこれで皆さんとお別れしなくてはならなくなりました。しかし御安心下さい」
 彼は大きな身振りをしながら話を続ける。
「私はまたこの村にやって来ます。そしてまた薬を皆さんにお届けします」
「是非お願いします!」
 村人達は皆彼に対してそう声をかけた。兵士達もそれに加わっている。
「すぐに来て下さいよ!」
「待ってますから!」
「はい」
 ドゥルカマーラはそれに恭しく答えた。
「必ず来ます。それもすぐに」
「おおっ!」
 彼等はそれを聞いて喜びの声をあげた。
「されど今はさようなら。次にお会いする時まで暫しのお別れを」
「約束ですよ」
「はい。何度も申し上げているようにこのドゥルカマーラ、嘘は申しません」
 にこりと笑ってそう言った。
「それではその日までさようなら」
「さようなら!」
 村人達も兵士達も別れの言葉を贈った。
「先生有り難う!」
「御恩は一生忘れません!」
 ネモリーノとアディーナもいた。ベルコーレも苦笑しながら手を振っている。その横にはちゃっかりとジャンネッタを置いている。
 ドゥルカマーラは後ろに向かって手を振りながらその場を去っていく。馬車は次第に遠のいていく。
 村人達は彼の姿が完全に見えなくなるまで手を振り別れの言葉をかけていた。そして二人の幸せを適えたこの愛すべき山師のことを何時までも忘れなかった。


愛の妙薬   完



                                         2004・11・6





めでたし、めでたし〜。
美姫 「うんうん、良かったわね〜」
今回のお話は喜劇という事もあって、陰謀とかはなかったな。
美姫 「そう? あれも一つの策略だと思うけれど」
陰謀と策略はまた違うもんだって。
美姫 「そうなの?」
そんな真顔で聞かれても…。
美姫 「兎も角、今回は初の喜劇でしたけれど、面白かったですよ〜」
うんうん。
美姫 「それじゃあ、今回はこの辺で」
ではでは。



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