『ボリス=ゴドゥノフ』




                第四幕  野望


 ポーランドはかつては強国であった。モンゴル帝国との戦いという受難もあったがそれでもヤゲロー朝の下強勢を誇っていた。とりわけ騎兵隊は有名でありポーランド騎兵ここにあり、とされていた。
 ロシアとは国境を接しておりその関係は悪く、しかも宗教的な対立も抱えていた。
 ロシアはロシア正教である。ギリシア正教の流れを汲み、イコン等独特の信仰形態を持っていた。ギリシア正教という存在がロシアの大地に受け入れられ、それに合わせて変貌したものである。
 これに対してポーランドはカトリックであった。教会の力も強くその信仰心は篤いものがあった。その為ローマ教皇の覚えもよく深い信頼を受けていた。ロシアと衝突する要素は多分にあったのである。
 そのポーランドのサンドーミルでのことである。城にある緑の草達が満ちる中庭で女達が気分よく歌っていた。小柄で金色の髪に青い目を持つポーランドの女達であった。その服もまたポーランドの軽やかなものである。ロシアの重々しい毛皮ではなかった。彼女達は日の光を浴びて気持ちよくそこにいた。
「蒼いヴィスラ河のほとりの柳の下」
 彼女達は朗らかに踊りながら歌っていた。
「雪の様に白い花が一輪川面に入る」
「そして華麗な己の姿を見入る」
 二つに分かれて歌う。見れば輪が二つあった。
「その美しい花の下に軽やかに蝶達がたわむれる」
 一度一つになって歌いまた二つになる。
「花の妖しい美しさに魅せられて」
「蝶は柔らかい花びらには触れもしない」
「綺麗な花は首傾げながら」
「穏やかな水面を物憂げに見る」
 そこに白い絹で着飾った一人の少女がやって来た。黄金色の髪を後ろに垂らし青い目と雪の様に白い肌を持っている。背丈は歌っている女達よりも頭ひとつ高く、毅然とした姿勢を保っていた。そしてゆっくりと前に向かって歩いていた。
 整った顔をしている。だがその表情は普通の少女のそれではなかった。強い光を放っていた。それは白い光ではなかった。赤い光であった。野心に燃える、欲望の光であった。それは顔や目だけでなく身体全体から放たれていた。その為白い絹の服を着ていても、黄金色の髪に青い瞳、そして白い肌を持っていても彼女の印象は赤いものであった。まるで炎の様であった。
 その彼女がやって来たのを見ると娘達は歌と踊りを一時中断した。そして彼女に恭しく挨拶をした。
「ようこそ、マリーナ様」
「ムニーシェクの姫様、御機嫌よう」
「はい」
 応える言葉自体は穏やかであったがその言葉もまた赤いものであった。燃え盛る炎の様であった。
「歌を歌っていたのですね」
「はい」
 娘達はそれに答えた。
「ヴィスラ河の花の歌を」
「それでは今度は姫様の歌を」
 そしてまた輪を作った。今度はマリーナを囲んだ。
「お城の美しいお姫様」
 輪は二重である。そしてまた二つに分かれて歌う。
「河のほとりの花よりも」
「もっと綺麗で白いお姫様」
 マリーナはそれを黙って聴いている。その青い目は何かを見据えていた。
「サンドミールの栄光と歓喜を一身に燦然と咲き誇る」
 ここは一つになって歌っていた。
「才気溢れて気高い勇者達も」
「姫の前ではかすむだけ」
「けれど姫様はそれにはお構いなく」
「ただ至福の笑みを浮かべられるだけ」
「有り難う」
 マリーナは歌が終わったところでそう応えた。だがそれには心が篭っていなかった。
「あの青い河と白い花に比べてくれて」
「はい」
「それは御礼を言うわ。そして」
「何でしょうか」
 娘達はマリーナの前に集まった。そして畏まって声をかけてきた。
「他の歌を聴きたいのだけれど」
「他の歌ですか?」
「そうよ、昔の歌で」
 彼女は言った。
「ばあやに教えてもらった歌なのだけれど」
「それはどんな歌ですか?」
「ポーランドの歌よ」
 彼女はここで笑った。まるで欲しいものを手に入れんとするかの様に。
「ポーランドの戦士達の歌よ」
「それは私達には」
「歌えないの?」
「はい」
 彼女達は申し訳なさそうに答えた。
「戦いの歌は」
「ポーランドの戦士達の偉大さと勝利、そして栄光の歌」
 マリーナは言う。
「それが聴きたいのよ、私は。けれど貴女達は無理なのね」
「すいません」
「だったら仕方無いわ。下がりなさい」
 彼女達に下がるように言った。
「お菓子を用意してあるから」
「有り難うございます」
 それを聞いて娘達は上機嫌で下がった。そしてマリーナは中庭に一人になった。
「平和なぞ退屈なだけ」
 彼女は言った。
「それよりも私が欲しいのは野望。こんな小さな城ではなく広大な国土が欲しいのよ。そう、ポーランドの戦士達の栄光に相応しい広大な国土が」
 そこに見えるのは炎であった。戦いで全てを焼き尽くす炎であった。
「それを手に入れたい。その為にはどうするべきか」
 自分に対して問う。
「あの男こそそれを私とポーランドにもたらしてくれるでしょう」
 不敵に笑う。そしてその青い目に先日ここにやって来た鼻と額にイボのある男を見た。グリゴーリィである。
「あの男。ロシアの皇子だと自分を偽るあの男こそ私の野心を適えてくれる者」
 そこには愛はなかった。野心だけがあった。
「彼の婚約者となったことこそが私の運命。そして手に入れるものは」
 きっと上を見据えた。
「太陽。すなわち玉座」
 強い声で言う。
「モスクワのクレムリン。皇帝達の城よ」
 次に自分の着ている白い絹の服に目をやった。
「そしてこの白い服から赤と黄金の服に着替える。そして私はその赤と黄金の光で太陽になるのよ。ロシアを照らす太陽に」
 まるで神にまでならんとする態度であった。
「貴族達もひれ伏させ、民衆達も従わせる。絶対にして至高の存在となる。彼を使って」
 あくまで求めるものは野心のみであった。愛はない。野望に燃えるその青い目にはそんなものは欠片程も見えはしていなかったのであった。
「私は太陽になるのよ」
 そう言い切った。それが終わると中庭に黒い法衣の男が姿を現わした。その外見からカトリックの神父でることがわかる。だが普通の神父ではなかった。その目の光は鋭く、邪悪なものさえあった。
「姫様」
「ランゴーニ神父様」
 マリーナは彼に気付き顔を向けてきた。
「お話を聞いて頂けるでしょうか」
 低く、くぐもった声であった。何処か陰鬱な響きのある声であった。
「はい、何でしょうか」
 マリーナはそれに応えた。
「私で宜しければお話下さい」
「はい、今教会は危機にあります」 
 彼は言った。
「信仰の泉は涸れ、香炉の煙も細くなっております。そして殉教者の傷口は開き、僧院は悲しみと嘆きに満ちております」
「嘆かわしいことです」
 そこには心が篭っていた。信仰の心はあるようであった。
「敬遠な神父達は皆憂いております。今のこの世を」 
 彼はあえてそう芝居がかって深刻に言ってみせた。
「それもこれも全て異端者の為です」
「異端者の」
「そう、モスクワの異端者達の為です」
 ランゴーニは言った。
「彼等はモスクワで邪悪な教えを信じております」
「はい」
 彼女もそれに頷いた。
「それを何とかせねばなりません、貴女が」
「私が」
「そう、貴女がです」
 彼女の心に囁く様にして言う。
「信仰の為に」
「そしてポーランドの為に」
「そう、ポーランドの為でもあります」
 彼女の後ろに回り込んで囁いてきた。
「この国を繁栄させる為には」
「ロシアを討つ必要があると」
「いえ、もっとよい方法があるのです」
「それは」
「ロシアを。こちら側に引き込むのですよ」
 神父の目が邪に光っていた。それは権力と野望を見る目であり神や信仰を見る目ではなかった。
「ロシアを。神父様がいつも私に仰っていることですね」
「左様」
「最初は驚きましたが。ですが私が皇后となり支配者になるには」
「宜しいかと」
 そう告げる。
「ポーランドと私の為にも」
「そうです。カトリックとして、そして」
「ポーランドの傀儡として」
「如何でしょうか。これならばポーランドの利益になります」
「はい」
「あまりにも広大になってしまったロシアは全てを手に入れようとすればポーランドの手に余ります」
 ランゴーニはそこまでわかっていた。シベリアに進出し、広大になったロシアを。その為彼はロシアにポーランドの傀儡政権を立てることを考えているのだ。
「貴女こそそれを為されるのに相応しい」
「そしてロシアをカトリックに」
「そうです。如何ですかな。我等にはもう手駒がありますし」
「あの修道院から逃げて来た皇子ですね」
「左様、彼を皇帝にし」
「私は皇后に」
 その言葉と共に語る者達の心に何かが宿った。
「ですがあの若者は迷っています」
「ここまできてですか」
「困ったことに。皇帝になれたとしても後がどうなるか、そして野望を前にして」
「情ないことです」
 マリーナはこう言って顔を背けさせた。
「野望こそこの世で最も素晴らしきもの」
 そしてその身に纏う紅の衣を映えさせた。
「それを前にして迷うことなぞ」
「では貴女のされることはわかっていますな」
「はい」
「その美貌と甘言で彼を篭絡するのです。愛と野心を混ぜさせて」
「ロシアに向かわせる為に」
「理性なぞ無用なこと」
 驚くことにこれが神父の言葉である。
「野望により他の者を傷つけはしないかという良心の呵責なぞ迷信深い愚にもつかぬものです」
「全くです」
 しかもマリーナも同じ考えであった。満面に笑みを浮かべて頷く。
「おだて、気紛れて見せ、虚言で悩ませる」
「さすれば陥落させるのは容易なこと」
「人の心なぞ城に比べれば弱いもの」
「野望の前には」
「何の意味もないことなのです」
「では姫」
 ランゴーニはマリーナの顔を覗き込んできた。
「頼みますぞ」
「はい、ポーランドの為に」
「ローマ=カトリックの為に」
 二人のいる世界には瘴気すら漂っていた。邪な野望の瘴気である。そしてそれは緑である筈の庭を何故か黒く染めているように見られた。そこには信仰も良心もなかった。それを仮面にした野望だけが存在していた。

 この頃グレゴーリィは客人としてこの城にいた。彼は今まで着たこともない絹の服に身を纏い、贅沢な酒や料理を楽しみ、舞踏や演劇を目にしていた。そしてそれに満足を覚えていた。
「これが貴族の暮らしなのか」
 彼は青を基調とした絹の服を着て自分の部屋にいた。ロシアのそれとは違い細かく、豪奢な装飾品があちらこちらにある。プラハで造られたというガラス細工の人形に目をやっていた。
「ロシアにはこんなものはなかった」
 その人形をうっとりと眺めながら呟く。
「ずっとここにいるのも悪くはないかもな。そして」
 マリーナのことが頭に浮かんだ。
「彼女と一緒になって。ポーランドに住むか」
 ロシアを出る時にあった。野心はもう忘れようとしていた。満ち足りた生活がそうさせていた。そういう意味で彼は普通の人間であった。だがそれでも野心は完全には消えてはいなかった。彼が気付いていなかったとしても。
 そしてそれを思い出させる者達もいた。ランゴーニがまるで影の様に部屋に入って来たのである。
「皇子」
 彼は部屋に入ると恭しく頭を垂れた。
「まずは挨拶もせずに入って来た無礼を御許し下さい」
「いや、それはいい」
 生活からの余裕であろうか。グレゴーリィは穏やかな動作と声でそれを許した。
「今は私も特に用事はないから」
「有り難き御言葉」
「そして何の用かな」
 彼は問うた。
「急な用事でも」
「マリーナ様が御呼びです」
「マリーナが」
 それを聞いたグリゴーリィの眉がピクリと動いた。
「はい。その託を頼まれまして」
「そうだったのか」
 それを聞くとさらに興味が沸いてきた。
「そして何と」
「すぐに部屋に来て欲しいと」
「マリーナの部屋へ」
「はい。姫はいつも貴方のことを思っておられます」
 そしてここで嘘を言った。
「夜の静寂の中でも昼の喧騒の中でも。思うことは同じなのです」
「私のこと」
「そうです、ロシアの皇帝であられる貴女に」
「ロシアの皇帝」
 だがそれを聞いた時動きが止まった。
「ロシアの皇帝か」
「左様です、陛下」
 ランゴーニは恭しく彼の前に跪いた。
「そして無二の宝を手に入れられる御方」
「マリーナを」
「どうされますか、今貴方の手の中には二つの宝があるのです」
 ランゴーニは顔を上げて問う。
「どちらも今手に入ろうとしております」
「両方」
 言葉の間にどちらかを選ぶことはできない、とあった。少なくともランゴーニはその目でそう語っていた。グリゴーリィもその目を見ていた。邪な光はこの時は消えていた。いや、消していた。
「幸福は。今訪れようとしているのです」
「皇帝としての冠と。愛が」
「そうです、迷うことはないと思いますが」
「わかった」
 彼は頷いた。
「では行こう、マリーナのところへ」
「はい」
「そして私は私の幸福を手に入れる。それでよいのだな」
「それこそ神の思し召しです」
「神か」
 グリゴーリィは神の名を聞いて考える顔になった。
「陛下、何か」
「立て」
「!?」
「立てと言っている」
「わかりました」
 ランゴーニは言われるがまま立ち上がった。そして二人は立ったまま正対した。
「神と言ったな、今」
「はい」
 ランゴーニはこくりと頷いた。
「愛のある俗世を離れた神父であるそなたが。その様なことを言うとは妙な気がする」
「妙なことではございませんぞ」
 だがランゴーニはそれは否定した。
「俗世を離れていても。愛を語ることはできます」
「そして導くこともか」
「左様」
 彼はまた頷いた。
「むしろそれこそが神に仕える者の責務です」
「わかった、では責務を果たしてもらおう」
 グリゴーリィは言った。
「今から私を彼女のところに導いてくれ」
「はい」
 こうして二人は部屋を出た。だがすぐに遠くの方から賑やかな声が聞こえてきた。
「いけませんな」
 ランゴーニはそれを耳にして顔を顰めさせた。
「どうしたのだ」
「向こうから宴会に招かれているポーランドの貴族達がやって来ます」
「何だ、そんなことか」
 しかしグリゴーリィはそれを一笑に伏した。
「それなら問題ない。敬意を以って迎えよう」
 彼はもう皇帝になったつもりであったのだ。
「彼等の地位や名誉に相応しく」
「後ではそれはよいでしょうが」
 ランゴーニはそれを思い止まらせようとする。
「今はお止め下さい」
「どうしてだ?」
「姫を裏切ることになります」
「マリーナを?」
「詳しい話は後で。どうぞこちらへ」
「う、うむ」
 彼等はそこにあった空き部屋に身を隠した。そしてそこでポーランドの貴族達をやり過ごすことにした。見れば彼等は宴が終わった後なのか上機嫌で話しながら廊下を進んでいた。
「いやいや、今宵は愉快でした」
 背の高い老貴族が笑顔で言う。彼とマリーナが腕を組んでいた。
「なっ」
 部屋の扉を微かに開け覗いていたグリゴーリィはそれを見て思わず部屋から出そうになった。だがそれはランゴーニに制止された。
「落ち着き下さい」
「う、うむ」
 見ればマリーナも朗らかな笑みを作っている。そしてその老人と話していた。
「御気持ちは嬉しいですが」 
 彼女は言う。
「貴方はもう御高齢。私では相手になりません」
「いやいや」
 だが貴族は笑いながら返す。
「そういうわけではありませんぞ。こう見えてもまだ心は若いですからな」
「さて、どうでしょう」
 軽く笑って返す。
「それに私は今ポーランドから出たいと思っていますし」
「そして何処に」
「モスクワに」
 優雅に笑って言う。だがそれは優雅な笑みとは全く異なる言葉であった。
「そして皇后に」
「では私が皇帝では駄目ですかな」
「さて」
 この言葉にはとぼけてみせた。
「あまり考えたことはありませんわ」
「では今から考えましょう」
「どうでしょうか」
「ゆうるりとワインでも楽しみながら」
「あれだけ飲まれたのに?」
「何の、まだまだこれから」
 赤い顔を崩していた。
「これからですぞ」
「もうすぐモスクワへ進軍ですな」
 貴族達は口々に言う。
「そう、そしてそこに我等の栄光と財宝がある」
「ロシアの国土が」
 見れば彼等の目はマリーナやグリゴーリィと同じになっていた。野心に燃えていたのであった。
「ポーランドの為に」
「その栄光の為に」
 彼等は半ば歌いながら口々に言う。
「兵を進めようぞ」
「モスクワに」
 意気高くそう言う。そしてグリゴーリィ達の隠れている部屋から消え去ってしまった。
「ランゴーニ」
 彼は声が聞こえなくなるとランゴーニに顔を向けて来た。
「はい」
「あれはどういうことだ?」
 そして彼に尋ねてきた。
「何故マリーナが老人と共にいたのだ?」
 彼はきつい目でランゴーニに対して問うていた。
「私に永遠の愛を誓っていたのではないのか?」
「確かにその通りでございます」
 彼は答えた。
「あれはほんの社交辞令」
「辞令なのか」
「左様です。ですから御気になさらないで下さい」
「その言葉、私が信じると思うか」
「無論です」
 彼はその平然とした態度を崩すことなく述べた。
「姫様の御言葉も御耳に入られた筈ですが」
「うむ」
「あの御老人に対してはつれなかったですな」
「確かにそうだな」
「そういうことです。姫様の御心にあるのは貴方だけ」
「私だけ」
「はい」
 ランゴーニはここでグレゴーリィの顔を目だけで覗き見た。
「左様でございます」
「ふむ」
 彼はそれに納得しようとしていた。ランゴーニはそれを見て自分の話が上手くいっていることを感じていた。
「ですから。御安心下さい」
「わかった、その言葉信じよう」
 まだわだかまるものがあるとはいえそれに納得しておくことにした。
「さすれば陛下」
「何だ」
「先程のあの方々の御言葉にあったようにモスクワに行く準備をしますか」
「剣と兜を」
「はい。そして馬を」
「わかった。その先に全てがあるのだな」
「左様です」
 グレゴーリィの後ろに回り込んだ。そしてマリーナにした様にまた囁いたのだ。
「愛と」
 彼は囁く。グレゴーリィの耳元で。
「そして皇帝の紫衣と冠が」
「モスクワにはある」
「すぐに向かいましょう。それは本来貴方のものであった筈なのですから」
「それをボリスが不当に簒奪した」
 そう思わせることが肝心であったのだ。
「その簒奪者を滅ぼして。お戻り下さい」
「モスクワに、そして玉座に」
「そうです。では参りますか」
「マリーナの場所に」
「はい」
 こうして二人は部屋を出た。そしてまたマリーナの部屋に向かうのであった。
「では私はこれで」
 ランゴーニはマリーナの部屋の扉の前まで来るとグレゴーリィに別れを告げた。
「ごゆっくり」
「うむ」
 グレゴーリィは鷹揚に頷くと彼を見送り目の前にある扉を開けた。
 扉を開けると花の香りがした。香水のものである。そして部屋の中は紅を基調としており女らしい雰囲気があった。だがその紅は同時に彼女の心も表わしていた。しかしグレゴーリィにはそれは目には入らなかった。
「マリーナ」
 彼は熱い声でマリーナの名を口にした。するとそこに彼女がいた。
「皇子」
 マリーナは晴れやかな顔を彼に向けて来た。
「わざわざおいで下さったのですね」
「貴女に会う為なら」
 彼は言った。
「例え何処でも」
「嬉しい御言葉」
 彼女はこの時グレゴーリィの顔に愛とは全く別のものを見ていた。これに対してグレゴーリィはマリーナの顔に同時に二つのものを見ていた。
 一つは野望、そしてももう一つは愛。彼とマリーナの違いはそこであった。
「マリーナ」
「モスクワへ行ったら何を為されますか?」
「!?」
 愛の言葉を語ろうとしたところでマリーナは問うてきた。グレゴーリィはそれを受けて言葉を止めた。
「何を?」
「ロシア女を愛されるのですか?あの大柄で太った女達を」
「馬鹿な」
 グレゴーリィは首を横に振ってそれを否定した。
「何故私があの眉の太い毛深い女達を」
「お嫌ですのね」
「そうだ。私は髭の生える女は好きではない」
 ここまで言った。
「私には貴女だけだ」
 そしてまたマリーナを見据えた。
「貴女だけなのだ」
「けれど貴女は私しか見ていない」
「どういうことだ」
「私が見ているのはロシアの玉座と皇帝の赤と金の衣、そして王冠」
「無論それも望んでいる」
 彼は言い切った。
「あれは本来私のものだったのだ。そしてそれを奪い返すまで」
 半ば自分が本物の皇子の様に思えてきていた。野心の為か現実とそうではないものの区別がつかないようになってきていたのかも知れない。
「奪い返すのですね」
「そうだ」
 そしてまた言い切った。
「この手に。明朝出陣する」
「進む場所は」
「モスクワだ。他に何処があろうか」
 グレゴーリィは言う。
「ここに集う将達と共に。運命が定めた父の玉座まで私は行く」
「では私は」
「共に来てくれるか」
 グレゴーリィは問うた。
「はい」
 断る筈もなかった。マリーナは即座に頷いた。
「勿論でございます」
「よし。ならばよい」
 グレゴーリィはそれを聞き満足そうに頷いた。
「それでこそ皇子です」
 マリーナはそんな彼を恍惚とした眼差しで見詰めた。そこには皇帝の冠があった。
「栄光と強大な権力を求められるその凛々しい御姿こそが貴方には相応しい」
「そうか」
「はい。それこそが夜のしじまにも昼の太陽にも映えます。そんな貴方だからこそ心からお慕いするのです」
 彼が権力に燃えているからこそ。今彼女は彼を権力と見ていた。
「その言葉、偽りではないな」
「はい」
 彼女は頷いた。
「どうして。嘘なぞつけましょうか」
「わかった。では行くぞ」
「はい」
「モスクワへ。栄光と繁栄が我等を待っている」
「そして玉座が」
 彼等は抱き合い共に野望を成就させることを心から誓い合ったのであった。今彼等はそうした意味で完全に結ばれたのであった。
「これでよし」
 その二人がいる部屋の扉の向こうで呟く声がした。ランゴーニであった。
「明日からロシアは我々の手に落ちる。このローマ=カトリック教会の手に」
 彼にもまた野心があったのだ。教会としての。
「その為には何でも使わせてもらおう。駒としてな」
 最後に邪な笑みを浮かべた。そして扉から離れ暗い闇の中へとその姿を消していった。
 次の日の朝早くグレゴーリィ率いるポーランド軍は進撃を開始した。行く先は最早言うまでもない。彼等は今野望に燃えていた。そしてそれを阻もうとするものは全て焼き尽くさんとしていた。ロシアは戦乱の炎をも受けようとしていたのであった。





うーん、動乱の時代とも言えるのかも。
美姫 「全体的に、このお話はどろどろとしてるわね」
どろどろと言うより、暗いというか陰謀やら何やらがやたらと。
美姫 「どんな結末になるのかしら」
次回も待ってます。
美姫 「待ってますね〜」



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