『ボリス=ゴドゥノフ』




               第六幕   破滅


 クロームイの森の中である。遠くに城が見える。だがその城は炎に包まれ高らかに燃えている。そして喧騒が森の中まで支配していた。何かを追い立てている声であった。
「こっちに連れて来い!」
 それは民衆の声であった。彼等は一人の立派な毛皮を着た貴族を引き立てていた。
「こいつを裁け!盗人だ!」
「何で盗人なんだい?」
 誰かがそれに問うた。
「決まっている、ボリスの手下だったからさ」
 それに別の誰かが答える。
「ボリスの」
「そうさ、皇帝の座を盗んだ大盗人じゃないか」
「ああ、そうか」
 問うた者はそれを聞いて満足そうに頷いた。
「そういえばそうだな」
「そうだろ?じゃあその手下のこいつはなんだ?」
 貴族を指差して問う。
「立派な盗人だ」
 すぐに返答が返って来た。
「それ以外の何者でもない」
「そうだろ?盗人はどうするべきだ?」
「こうだ」
 きゅっと首を絞める動作をする。
「木に吊るしてな」
「いやいや、それはどうかな」
 だが別の者がそれに異議を呈する。
「仮にもお貴族様だ。ここは礼儀正しくいかないと」
「礼儀正しく、か」
「そうさ。まずは丁寧に棒をお見舞いして」
「ふむ」
その言葉に頷く。
「御家族もお招きしよう。その前でゆっくりと」
「御家族も交えてな」
「ははは、それはいい」
 あまりにも下卑た顔と声であった。だが彼等はそれに気付かない。
「お貴族様にはそれがいい。いや、盗人だったかな」
「どっちにしろ同じことさ。ボリスの手下なんだからな」
「そうだな、悪党の手下だ」
「悪党の手下もまた悪党」
「容赦することはねえ」
「全くだ」
 そして貴族の家族を引き立てて来た。中には幼い女の子もいる。だが民衆はそんな彼等を小突き回し、嬲り者にする。彼等は今何も見えてはいなかった。
「飢饉に寒波」
「ボリスはわし等に色んなものをくれた」
 彼等は口々に言う。
「今その御礼をしよう」
「そして憂さを晴らそう」
「ロシアの為に」
「そしてわし等の為に」
「おおい、皆の者」
 ここでワルアラームとミサイールが民衆達の前に姿を現わした。彼等はグレゴーリィについてロシアに戻って来ていたのである。無論破戒僧であることは隠して。
「あっ、お坊様」
 民衆達は二人に顔を向けた。彼等は二人を高潔な僧だと思っている。
「こうなったのは誰のせいかわかっておるな」
「勿論です」
 彼等は頷いた。
「ボリスのせいです」
「左様、こうなったのは全てボリスのせいだ」
 ワルアラームは我が意を得たとばかりに満足そうに頷く。
「ボリスのその手下達は皇帝の椅子を奪い、したい放題してきたからだ」
「そして皇子も殺そうとしていた」
「だがそれは適わなかった」
「それで今天の裁きを受けている」
「左様。これは神の怒りである」
 ミサイールも高らかに言った。
「悪は裁かれる。ボリスとその手下達もまた」
「既に裁いております」
「その一部を」
 見れば民衆達の足下には貴族とその一家が転がっていた。寄ってたかって嬲られ、惨たらしく殺されていた。服はまるでボロ布の様になっており死体も元の形を留めてはいなかった。あまりにも無残な姿であった。
「そうだ、それでいいのだ」
 そしてワルアラーム達はそれをよしとした。
「ボリスは神の敵でもある」
「異端者なのですね」
「そう、異端だ」
 煽る様に言う。
「ボリスとその手下達は異端である!」
「異端を許してよいのか!」
「いえ!」
 民衆達はそれを拒否した。
「異端を許すな!」
「一人残らずこの手で殺してやる!」
 そこに転がる貴族達の様に。彼等は全くわかっていなかった。
「そして何を望むんだ?」
 ワルアラーム達は彼等に問うた。
「何を望むのだ?答えてみるんだ」
「皇帝を」
 彼等は答えた。
「正しき皇帝を」
「そう、皇帝をだ」
 ミサイールはそれに頷いてみせた。
「皇帝陛下を。では我等の陛下は誰だ」
「ディミートリィ様だ!」
 彼等は一斉に答えた。
「あの方しかおられぬ!」
「わし等の皇帝は他にはおられぬ!」
「そう、あの方しかおられぬ」
「ロシアを守るのは」
「そして正しき教えを」
 民衆達はグレゴーリィが偽者であることも、彼の後ろにポーランドがいることも、そしてそのポーランドもまたバチカンに操られていることも全く知らなかった。彼がロシア正教の守護者になると信じて疑わなかった。
「では迎えよう」
 ワルアラームとミサイールはそんな彼等を煽動する。
「ボリスとその手下共を倒し」
「ロシアを救うのだ」
「そう、今ロシアの運命がかかっている」
 ワルアラーム達とは別にロシア正教の僧侶達が民衆の前に姿を現わした。見ればワルアラームやミサイールよりも遥かに位の高い僧侶達であった。彼等はボリスに見切りをつけグレゴーリィについたのだ。彼等はグレゴーリィが何者で後ろに何がいるのかを知っていた。だが金と地位の為に彼についたのである。
「ロシアの運命が」
 彼等は畏まる民衆達に対して言う。上から語り掛けるかの様に。
「これで決まるのだ」
「ボリスを倒す」
「そうだ」
 民衆の言葉に応える。
「ボリスを倒せ」
 彼等はさらに言った。
「そしてディミートリィ様を玉座に」
「本来おられるべき場所に」
「それこそが神の御意志」
 正確に言うならばそれが彼等の望みであった。都合よく神の名を出すことはよくあることである。それに多くの者は容易に騙される。心を攻められるからである。
「皆の者、神に従え」
 僧侶達はなおも言った。
「そしてディミートリィ様を玉座へ」
「ディミートリィ様を玉座へ」
「ロシアを治めて頂くのだ」
「そして陛下はどちらに」
「もうすぐこちらに来られる」
 彼等は言った。
「出迎えの用意はいいか」
「はい」
 民衆達もワルアラーム達もそれに答えた。
「何時でもいいです」
「是非共おいで下さい」
「では畏まって待て」
 僧侶達は威厳を正してそう宣告した。
「もうすぐだからな」
「はい」
 遠くから歓声が聞こえて来る。そしてそれと共に軍勢がやって来た。民衆はそれを認めると一斉に立ち上がった。
「万歳!万歳!」
 彼等は叫ぶ。
「ディミートリィ様だ!皇帝陛下だ!」
「我等の救世主だ!」
「これ、待て!」
 僧侶達は興奮する民衆を宥める。
「座っておれ。皇帝陛下の御前であるぞ」
「いや、よい」
 そこにやって来た軍の先頭にいる馬に乗った男がそれを許した。見れば紫のマントに金の鎧兜を身に着けている。剣の柄も鞘も宝玉で飾られている。
「陛下」
 僧侶はその男に顔を向けた。そして恭しく一礼した。
「民が私を迎えてくれたのだ。どうして邪険にできようか」
 グレゴーリィであった。彼は馬の上から鷹揚に言葉をかけた。
「はい」
「皆の者」
 彼は民衆と自分の兵士達に対して言った。
「モスクワまでもうすぐだ」
「ハッ」
 兵士達はそれに頷く。
「そしてそこでボリスを倒す」
「民を救うのですね」
「そうだ」
 彼は言い切った。無論これもまた芝居である。
「我ディミートリィ=イヴァーノヴィチは誓う」
 そしてその芝居を続ける。民を従わせる為に。
「神の思し召しによりロシアの皇帝となり簒奪者ボリスに虐げられている民達を救い出す」
「わし等を」
「そう、そなた等をだ」
 彼はまた言った。
「そしてロシア正教を。全てを救おう。ロシアを復活させるのだ」
 だがそれは嘘であった。彼の率いる兵はポーランドの兵であり指揮官達はポーランドの貴族達であった。よく見れば彼等の十字架はロシアの十字架ではなかった。
 イエズス会の者もいた。しかし民衆達やワルアラーム達はそれには気付かない。僧侶達は知っていたが何も言いはしない。そして平然と彼等を見ていた。
「変わった御坊様達もおられるな」
「ああ、きっと凄く徳の高い方々だぞ」
 民衆達はイエズス会の者達を見てこう囁き合っていた。彼等のことを全く知りはしなかったのである。
「行こう、諸君!」
 グレゴーリィは剣を掲げた。そして高らかに宣言する。
「モスクワへ!黄金の丸屋根が輝くモスクワへ!」
「陛下の宮殿に!」
 兵士達も民衆達も叫ぶ。
「そして本来の玉座に戻られる!」
「ロシアは正しき血筋の下に!」
「行くぞ!」
 グレゴーリィは馬を進めた。
「モスクワへ!」
「栄光と平和の為に!」
 兵士達だけでなく民衆達もそれに続いた。後に彼等により殺された無残な屍達を残して。
 モスクワは陥落した。ボリスの子等も彼に従った貴族達も殺された。フェオードルは姉を庇い、クセーニャはフェオードルを庇って死んだ。モスクワは炎に包まれた。そして多くの者が命を落とした。
 クレムリンでグレゴーリィが皇帝になる。マリーナがその隣にいる。彼等は今権力の座についた。それを讃える声が宮殿に木霊する。
 だがモスクワには死臭が満ちていた。犬が子供の首を咥えて走る。かって聖愚者をからかっていた子供の首であろうか。見れば多くの子供達も死んでいた。子供達だけでなく髭のある男も太った女も死んでいた。皆もの言わぬ骸となり烏や犬にその身体を貪られていた。
 その中を一人の僧侶が歩く。あの聖愚者であった。
「流れよ赤い涙」
 彼は言う。遠くに偽の皇帝を称える歌を聴きながら。
「泣くがいい、正教徒達よ。またすぐに戦乱が起こり、暗い闇に覆われる」
 彼にはわかっていた。これからのロシアが。戦乱がなおも続きロシアが暗黒に覆われ続けることが。
「これがロシアの苦しみだ。泣くのだ」
 屍達を見下ろして言う。
「泣け、ロシアの民よ。飢えたる民達よ!」
 勝利を讃える歌がクレムリンから流れる。だがそれと同時に聖愚者の沈痛な叫びもまた木霊していた。それはモスクワを覆っていた。そしてロシアも。その空は今漆黒の無気味な雲に覆われていた。嵐と雪が吹き荒れ屍達を苛んでいた。


ボリス=ゴドゥノフ   完


                 2006・2・14





遂に完結。
美姫 「とっても暗いわね」
だな。聖愚者の言うように、これからロシアは混迷するのかな。
美姫 「とりあえずは新たな皇帝の下で、って感じでしょうけれど」
ともあれ、完結おめでとうございます。
美姫 「お疲れ様でした」



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