『ドン=ジョヴァンニ』




                           第一幕  色事師の活躍

 夜の庭園。暗闇のせいで自慢の草木も花々も何も見えなくなっているこの場所で赤い服に青いズボンの何処かユーモラスな男がせわしく歩き回っていた。
「やれやれ」
 彼はまずは大きく息を吐き出した。暗闇の中に浮かんでいるその顔は端整といよりおかなり愛嬌のある顔である。目鼻立ちは笑っているようで茶色の髪も収まりが悪い。茶色の髪は心なしか薄くなりだしており額が広い。黒い目はあちこちを見回している。少なくともあまり高貴にも見えなければ威厳があるようにも見えない。そんな彼があれこれと夜の庭を歩き回りそのうえで何かとぶつくさ呟いているのだった。
「夜も昼もへとへとになって歩き回ってあんなとんでもない御主人様の為に動いて」
 こんなことを呟いていた。
「あっしも貴族だったなら。これ以上あんな滅茶苦茶なお方にお仕えするなんて」
 どうやら仕えている主への不平らしい。
「いつも美女を追いかけてものにされる。それに対してあっしは見張り役」
 今度は己の身を嘆いている。
「こんなことなら貴族になりたいもんだ。あんな人にお仕えする位なら・・・・・・んっ?」
 ここで左手に誰かが来たのを感じた。それで咄嗟に身を隠した。
 やがてその左手から女の声が聞こえてきた。かなり怒っているらしくきんきんとさえしている声になっていた。
「お待ちなさい!」
「誰に待てというのだ!」
「貴方にです!」
 やがて二人出て来た。一人は白いマントに黒を基調としており襟や袖、それにボタンのところに黄金をあしらっている豪奢な上着を着ている。ズボンは黒であり靴も同じだ。白い帽子が闇の中にも映えお洒落な白い羽根までそこに飾っている。
 暗闇の中に見える顔立ちは目は細く引き締まった顔立ちをしている。黒い髪と目が見える。髭はなく奇麗に剃っているのがわかる。その彼が一人の女に追われていた。
「絶対に逃がしません」
「わしを逃がさんというのか」
「そうです」
 追っている女は青いドレスを着ている。絹の豪華なものである。髪は茶色く上でまとめている。目は青く実に澄んでいる。ふくよかさもある顔は非常に整い本来は穏やかなものであることが窺える。だがその穏やかな美貌は今は怒りによって完全に消え失せてしまっていた。
「貴方をです」
「あれは」
 先程隠れた男はその有様を見て言うのだった。
「あの女の人はあれか。旦那が狙っていたあの人だな」
 言いながらあることを思い出しもした。
「確かドンナ=アンナさんだったな」
「誰か来て下さい!」
 そのドンナ=アンナがここで叫んだ。
「曲者です!曲者です!」
「だから黙っておれというのだ!」
 追われている男はまたしても怒りの声をあげた。
「わしを捕らえようというのか!」
「その通りです。悪党よ」
 アンナは怒りに満ちた声で男に告げた。
「貴方だけは許しません」
「全く。折角可愛がってやろうというのにだ」
 男は居直った言葉を出した。
「あまりにも騒ぐのでベッドに入った途端に逃げる羽目になったではないか」
「私の純潔は誰にも汚させません」
 アンナは強い声で男に告げた。
「そう、愛しいドン=オッターヴィオ以外には」
「純潔!?そんなものが何だというのだ」
 男は純潔と聞いて強い拒否反応を見せた。
「そんなものがな」
「アンナ!」
「お父様!」
 ここで厳しい大柄な男が出て来た。マントを羽織りその手には剣を持っている。顔立ちはまるで岩石のようで口にはピンと張った黒い口髭がある。
「この男は」
「不貞の輩です」
 父と呼んだその厳しい男に告げるアンナだった。
「どうか騎士長としてこの男に天罰を」
「わかっておる」
 言いながらもう剣を抜いて男に向かっていた。
「わしが成敗してやろう」
「ほざけ、老いぼれが」
 男も騎士長が剣を抜いたのを見てその剣を抜いた。
「私に剣を抜けた罪、償わせてやる」
「罪人は貴方です」
 アンナはその彼に対してきっとした声で告げた。
「私を汚そうとしてまだそのうえ剣を抜くとは」
「私にとって罪とはこの上ない甘美なもの」
 男は不敵に笑って言い放った。
「そして迫り来る輩は誰であろうと斬る」
「やれやれ、まただよ」
 隅に隠れているあの者が今のやり取りを見ながら溜息を出していた。
「こんなことだから。旦那はねえ」
「覚悟はいいな」
「それはこちらの言葉だ」
 この間にも騎士長と男は対峙していた。
「それならばだ」
「死ね!」
 激しい斬り合いがはじまった。一進一退であったがやがて騎士長の剣をかわした男が己の剣を突き出した。これで勝負は決まった。
「うぐう・・・・・・」
「お父様!」
 アンナは慌てて父を抱え込む。そうしてすぐに彼を連れて消えていくのだった。そこに男を呪詛する言葉を残して。
「この悪党!もう何があろうとも許しません!」
「勝手にするがいい」
 男はあくまで強気でかつ平然としていた。
「私に善悪という概念が通用するものか」
「ちょっと旦那」
 ここであの彼が血相を変えて物陰から出て来た。そしてそのうえで男の名前も呼ぶのだった。
「ドン=ジョヴァンニ様」
「何だレポレロ」
 ドン=ジョヴァンニと呼ばれた男も彼の名前を呼んだ。
「そこにいたのか」
「いましたよ。けれど旦那」
 レポレロは血相を変えたまま彼に対して言うのだった。
「また大変なことになっちゃいましたね」
「そうか?」
 だがそう言われても当のジョヴァンニは平然としたものだった。
「私はそうは思わないが」
「このセヴィーリアに来てはじめての刃傷沙汰でしたし」
「よくあることだ」
 彼にしては、なのだった。
「しかもあの御婦人は」
「詰まらん女だ」
 アンナに関してはこう言い捨てるのだった。
「私を拒むとはな」
「はあ」
「まあいい。それでだ」
 ジョヴァンニはここまで話してそのうえでレポレロに対して言ってきた。
「行くぞ」
「ここをですか」
「そうだ。あの女人を呼んだ」
 既にジョヴァンニの顔は警戒するものになっていた。
「今のうちにこの場を去るぞ」
「そうですね。危機からは身をかわすべきです」 
 レポレロは彼の人生訓をここで述べたのだった。
「まあ道案内はお任せ下さい」
「そうだな。この街は御前の生まれ故郷だったな」
「そういうことで」
 主に対して恭しく頭を垂れながら話すレポレロだった。
「それに旦那のお屋敷もあるじゃないですか」
「そういえば私もここで産まれたのだったな」
 自分のことはあまり覚えてはいないようだった。
「あちこちを旅していて何処が故郷かあまり考えたこともなかったが」
「私はちゃんと覚えてましたよ」
 レポレロはそうなのだった。
「もうね。ちゃんとね」
「それはそれでいいことだ。それではだ」
「はい、こちらです」
 早速道を指し示すレポレロだった。
「早く逃げましょう」
「うむ、そうしよう」
 こうして二人は庭を後にする。それと入れ替わりにアンナがやって来た。見れば白に豊かなレースの襟を持っていて所々に金の装飾を着けている服を着た端整な若者も一緒だった。
 髪は薄茶色で後ろに撫で付けている。気品のある顔で細い。目は穏やかな光を放っていてまるでギリシア彫刻を思わせる面持ちだが全体的に彫がありゲルマンのそれを思わせる。そうした彼がその手に剣を持ってアンナと共にやって来たのであった。
「さて、ドンナ=アンナ」
「はい」
「御父上はここで殺されたのですね」
「そうです。ドン=オッターヴィオ」
 アンナはここで彼の名を呼んだ。
「あの破廉恥な男によって」
「貴女を手篭めにしようとしただけでなく御父上まで殺すとは」
 ドン=オッターヴィオはもう怒りを隠せなかった。その手に持っている剣も今にも抜きそうである。どうやら中々激情家であるらしい。
「許せない、この僕の手で裁いてやる」
「けれどもう御父様は」
 アンナはそのオッターヴィオの前で悲嘆にくれた。
「二度と戻らないのですね」
「気を確かに」
 オッターヴィオは嘆くアンナを慰めてきた。
「僕でよかったら頼って下さい」
「有り難う」
 アンナはそのオッターヴィオの言葉を受けてそっと彼に寄り添った。
「貴方にそう言ってもらえると」
「はい、そして誓いましょう」 
 ここでオッターヴィオの声が強いものになった。
「貴女の御父上を殺したその男を必ず」
「仇を取って下さるのですね」
「当然です」
 強い言葉だった。
「それが貴女の夫になる者の責務です」
「有り難うございます」
「貴女の目に誓いましょう」
 アンナのその清らかな目を見ての言葉だった。
「そして僕達の愛に」
「御父様は殺されたけれど」
 アンナはオッターヴィオのその言葉を受けて言う。
「けれど私には今は」
「僕がいます」
「そうですね。それでは」
「まだ遠くに行っていない筈です」
 オッターヴィオは早速追おうと考えていた。そうしてその考えをアンナにも言うのだった。
「さあ、行きましょう」
「ええ、すぐに」
 アンナはオッターヴィオと共に庭から何処かへと向かった。彼女はオッターヴィオに手を引かれることなく自ら進んでいた。それどころか彼よりも半歩ばかり先にも行っていた。
 夜の通り。ここにジョヴァンニとレポレロがいた。ジョヴァンニは周りをきょろきょろと見回しているレポレロに対して問うた。
「どうしたのだ?」
「いえね」
「追手が来たのか?」
「いえ、違います」
 それではないというのだ。
「どうも不安になりまして」
「不安だと?」
「そうです。思うんですが」
 彼は困惑し困り果てたような顔で主に言うのだった。
「旦那様のやり方は酷過ぎるんじゃないですか?」
「そうか?」
「そうかじゃないですよ。あの人を殺したことも」
「剣を向けられれば当然のことだ」
 ジョヴァンニはそれを言われても平気であった。
「違うか?」
「違いますよ。そもそも夜這いも」
「私にとっては至極当然のことだ」
「そうやって女性を辱めてもですか?」
「女を辱めたことなぞないぞ」
 彼はそれはいささか感情的になって否定した。
「私はあくまで口説きそのうえで陥落させるのがやり方だ」
「じゃあ夜這いをしても」
「手は出さぬ。言葉だ」
 それだというのである。
「もっとも私の言葉で陥落しなかった女はあまりいないが」
「あの人はそのあまりいない人のうちだったんですね」
「そうだ」
 それだというのである。
「全くもって詰まらん女だ」
「左様ですか」
「あのドンナ=エルヴィーラと同じだ」
 不意にある女の名前も出すのだった。
「あの糞真面目な女とな。ああした女はどうも駄目だな」
「そういえばここにはあの人は来ていませんね」
 レポレロは腕を組んで考える顔になり述べた。
「何処までも追って来る人なのに」
「来るなら来い」
 ジョヴァンニは受けて立つといった感じだった。
「私はここにいるのだからな・・・・・・むっ!?」
「今度はどうしたんですか?」
「女が来た」
 今度はこんなことを言うのだった。
「女がな」
「そうですか?」
「私にはわかるのだ」
 ジョヴァンニは目を光らせて言った。
「この私にはな」
「また美しい方には目がないからですね」
「その通りだ。美女がいればたちまちのうちにわかる」
 彼は断言さえした。
「私にはな。さて」
「さて?」
「これはまたかなりの美人だな」
 彼はさらに言う。
「イギリス生まれかも知れないな」
「イギリスですか」
「そうだ、イギリスだ」
 どういうわけかわからないが彼はそこまでわかるらしい。鋭い目をしながらそのうえで言葉を続けるのだった。言葉も鋭いものになっている。
「イギリス女だな」
「ふむ。イギリスですか」
 レポレロはジョヴァンニのその言葉を聞いて述べた。
「イギリスといいますと」
「さて、どんな女か」
 レポレロが何かに気付いたのは見ていたがジョヴァンニはここでまた言うのだった。
「さて、隠れて見てみよう」
「隠れるんですか?」
「まずは誰か確かめる」
 彼の考えはこうだった。
「誰かな。その為にだ」
「わかりました。それじゃあ」
 レポレロもそれに従い物影に隠れた。やがて道に赤い服を着た小柄な美女が現われた。
 上で束ねた縮れ気味の茶色の髪に彫の深い顔をしている。目ははっきりとしていて実に整っている。鼻は高めで口元は引き締まっている。その美女が出て来たのである。
「あの悪党はこの街に戻ってきているというけれど」
「悪党ねえ」
 レポレロはその美女の声を聞いて呟いた。
「うちの旦那も悪党だけれど」
「結構なことだ」
 ジョヴァンニにとっては褒め言葉である。
「私は神も信じないしな。悪ならば悪でいい」
「やれやれ。そのうち地獄に落ちますよ」
 レポレロはジョヴァンニのその言葉を聞いて肩を竦めさせた。
「本当に何時か」
「落ちればそれでいい」
 彼はそれすらも受け止めようというのだった。
「それならば地獄で美女を探し悪魔共と宴を開こう」
「本当ですか?」
 そんなことを言う主に呆れるレポレロだった。その間にも美女は何かを言い続けている。
「誰が告げてくれるのでしょう。あの悪党の居場所を」
 どうやら誰かを探しているらしい。
「恥ずかしいとはいえ私が愛して私を裏切ったあの人を」
 こんなことも言う。
「若しあの悪党を再び見つけたらそして二度と私の元に戻って来ないのならば」
 未練を込めての言葉だった。
「その時こそは。心臓を引き裂いてやるわ」
「ふむ」
 ジョヴァンニは美女のそうした嘆きの言葉を聞いて述べた。
「どうやらあれだな」
「あれっていいますと?」
「恋人に捨てられたらしい。これはいい」
「いいんですか」
「狙い目だ」
 ジョヴァンニは言いながら楽しそうに笑った。
「可哀想な女だ」
「そうやって一八〇〇人でしたね」
 レポレロはジョヴァンニのその言葉を聞いて呆れたように言った。
「旦那が陥落させた女の人は」
「恋をなくした女に新しい恋を与える」
 ジョヴァンニは物陰から出ながらレポレロに告げる。
「それはいいことではないのか?」
「ただのこましでなければ」
 レポレロの今の言葉は無視して美女の前に出た。そうしてそのうえで彼女に声をかけるのだった。
「若し、セニョリータ。いえ」
「いえ?」
「ミスですかな」
 彼女がイギリスの女ということを感じ取っての言葉だった。
「若しかして」
「私がイギリス人とわかるのですか?」
「感じで」
「待てよ」
 レポレロもまた物陰から出て来た。そうしてその美女をいぶかしむ顔で見ながら言うのだった。
「このシルエットは確か」
「そう。貴女はまさに」
「!?貴方は」
 美女はジョヴァンニの言葉を聞いているうちに目を顰めさせた。
「この声、その顔は」
「何っ、まさかと思うが」
「ドン=ジョヴァンニ!」
「ミス・・・・・・いやドンナ=エルヴィーラ!」
 驚きのあまりスペイン語で呼んでしまったジョヴァンニだった。
「ここにも来たのか!」
「遂に見つけたわこの悪党!」
 ドンナ=エルヴィーラはきっとしてジョヴァンニに告げた。
「ここで会ったが百年目、故郷のセヴィーリアに戻っているのは聞いていたけれど」
「よりによってこんな場所で会うとは」
「この悪魔!悪党!ペテン師!女たらし!山師!!」
 エルヴィーラはヒステリックに喚く。レポレロはその喚きを聞いて呟いた。
「まさにその通りだな。旦那を知るにはうってつけだよ」
「まあ落ち着け」
 ジョヴァンニはうんざりした顔でエルヴィーラに言った。
「落ち着くのだ。いいか?」
「私にあんなことをした癖に」
 しかしエルヴィーラのヒステリーは止まらない。
「私の家に忍び込んで誘惑して夢中にさせて」
「そうだったよなあ」
 レポレロはエルヴィーラのそんな言葉を聞いて呟いた。
「あの時もなあ。旦那は見事だったよ」
「私を花嫁にするなんて言ったりして三日後には消えて」
「そうだったかな」
「そうよ。そして私を悲しみの中に置いたのよ。貴方を愛したばかりに」
「それには理由があったのだ」
 だがジョヴァンニは苦しいながらも反論する。
「そうだったな」
「え、ええ」
 いきなり話を振られたレポレロは咄嗟に言い返したのだた。
「その通りですとも」
「理由が?」
「そうです。あったんですよ」
 レポレロは慌てて身体中から冷や汗をかきながらエルヴィーラにも答えた。
「実はね。そうだったんですよ」
「あれが裏切りや浮気でなくて何なの?」
 しかしエルヴィーラはさらに言うのだった。
「けれそ公平な天の神が貴方に会わせてくれた。復讐の為に」
「レポレロよ」
 ジョヴァンニはここでレポレロに告げた。
「ありのままを話せ」
「事実をですか」
「そうだ。事実だ」
 事実を言えというのだった。
「いいな」
「何をお話すればいいんですか?」
 レポレロが知っている事実は一つではないらしい。
「それで何を」
「そうだな。何から何までもだ」
 ジョヴァンニは特に考えることなく素っ気無く述べた。
「わかったな」
「はあ。それでは」
「あの、エルヴィーラさん」
 レポレロはジョヴァンニの言葉を受けてからエルヴィーラに顔を向けて言うのだった。
「世の中には何でもそれなりの訳というものがありまして」
「それなりの?」
「そうです。四角が丸でないということもまた」
「貴方も私をからかうの!?」
 エルヴィーラの怒りはレポレロにも向かおうとした。
「そんなこと言って・・・・・・あっ」
 ここでジョヴァンニが姿を消したことに気付いた。
「何処に。一体」
「あっ、そういえば」
 レポレロはわかって演技をした。
「何処かに行かれましたね」
「また私を置いて」
 何故かここで嘆き悲しむエルヴィーラだった。
「折角ここまで来たのに」
「まあ旦那はそういう人ですから」
 レポレロは嘆き悲しむエルヴィーラとは対称的に素っ気無かった。
「別に何も思われることは」
「あの悪党はまた私を裏切ったのね」
「まあまあ」
 また怒りだしたエルヴィーラにレポレロが告げた。
「御聞き下さい」
「何を?」
「旦那にとっては貴女は最初の恋人でも最後の恋人でもないんですよ」
「私だけではないのね、やっぱり」
「はい」
 エルヴィーラに対して頷きもするのだった。
「その通りです。ほら」
 ここで懐からやたらと長い紙を取り出してきた。その白い紙には何かと書かれていた。見ればどれも人の、しかも女の名前であった。
「このカタログですが」
「そのカタログがどうかしたの?」
「あちこちで旦那が陥落させた女の人の名前が書かれているんですよ」
「何てことなの」
「エルヴィーラさん」
 レポレロはさらに語りだした。
「これがうちの旦那が陥落させた美女のカタログです。私が作ったんですよ」
「共犯なの?」
「だったらよかったんですが」
 少し残念そうな顔にもなったがそれは一瞬だった。表情を戻してさらに言うのだった。
「一緒に御覧になって下さいね」
「また随分と多いわね」
 何だかんだでそのカタログを一緒に見るエルヴィーラだった。
「ええと?」
「イタリアでは六四〇人、ドイツでは二三一人、フランスでは百人」
「フランスが少なくないかしら」
「フランスにおられた時は短かったですから」
 だからだというのだった。
「そのせいですよ」
「そうなの」
「トルコでもそうでして九一人、イギリスは三一一人」
「私の国ね」
「はい。そして祖国のスペインでは」
 ジョヴァンニの祖国である。
「この国では?」
「もう一〇〇三人です」
 四桁なのだった。
「一〇〇三人、その中にはですね」
「どんな人がいるの?」
「村娘もメイドさんも町娘もいますし」
 様々である。
「伯爵夫人も男爵夫人も侯爵夫人もプリンセスもおられます」
「身分にはこだわらないのね」
「旦那はあれでも身分にはこだわらないんですよ」
 ある意味において凄いことである。
「ありとあらゆる地位の姿格好の年齢の方々を」
「陥落させてきたというのね」
「ブロンドの娘さんは上品さを、鳶色の髪の方は貞淑さを、白髪は優しさを褒めて」
 髪についてはそうであった。
「冬は太った方、夏は痩せた方がお好きで大柄の人も小柄の人もそれぞれで」
「本当に拙僧がないわ」
「御年寄りはカタログを増やすため。けれど」
「けれど?」
「旦那が一番好きなのはまだおぼこい娘さんですね」
「そういう娘が好きなの」
「はい」
 こう答えるのだった。
「とにかく貧しかろうとお金持ちだろうと美人だろうが不細工だろうが」
「何でもなのね」
「スカートをはいていればもうそれだけでなのですよ」
「何て人なの!?」
「さて」
 エルヴィーラがここまで聞いてさらにエキセントリックになり自分から注意が逸れたのを見てレポレロも。こっそりと動くのだった。
「わしもこれでな」
 彼は姿を消した。後に残ったのはエルヴィーラ一人だった。その彼女は一人で怒りに震えていた。
「あの悪党はそんな調子で私を裏切ったのね。あの男は」
 わなわなと震えている。
「私の心を裏切ったあの男」
 きっとした顔になる。
「復讐をしてあげるわ。何があろうとも」
 こう決意して何処かへと去るのだった。また一人ジョヴァンニの敵が生まれた。
 その頃セヴィーリアのすぐ側の村では。村人達が夜だが祭を開いていた。そうしてその祭の中で口々に祝いの言葉を述べていた。
「おめでとう!」
「おめでとう!」 
 まずはこの言葉からだった。
「ツェルリーナおめでとう!」
「マゼットおめでとう!」
 祝福の言葉を述べながら若い二人を囲んで。それぞれワインを飲み御馳走をたらふく食べて楽しく騒ぎ歌い踊っているのだった。
 そこにいるのは太り気味の黒髪の青年だった。顔もやけに丸く人懐っこい顔をしている。見れば晴れ着であるがまさに農夫の格好だ。
 もう一人は小柄で浅黒い肌のまだ少女と言ってもいい年齢の女だった。髪は黒く縮れ気味でそれを上で束ねている。目は大きく黒いものではっきりとしている。唇は赤く大きい。顔立ちは可愛らしいものだがどういうわけかよく動く表情でしかも利発さが窺える。服は白い婚礼用のドレスである。二人は並んで周りの祝福を受けている。
「さあ、祝おう」
「二人も飲んで食べて」
「もう食べてるよ」
 まずは若い農夫が皆の声に笑顔で応えていた。
「充分にね」
「私もよ」
「おや、マゼットはもうかい」
「ツェルリーナも」
「そうよ。ほら、言うじゃない」
 ツェルリーナと呼ばれた少女は笑顔で言うのだった。
「恋せよ乙女ってね」
「うん、確かにね」
「それはね」
 皆笑顔でツェルリーナのその言葉に頷く。
「それでツェルリーナは楽しんでるんだ」
「恋を」
「そうよ。時を無駄に過ごさない為に」
 ツェルリーナはにこにこと、しかもそこに利発を入れて言葉を続ける。
「胸の中で心が沸き立つのを感じたならそれを癒す薬はほらここに」
「胸か」
「つまりは」
「そう。楽しむのよ」
 自分の胸を指し示しながらの言葉であった。
「だから恋せよ乙女なのよ」
「さて、じゃあ僕も」
 マゼットと呼ばれた農夫も言う。
「愚かな喜びは短いけれど僕の喜びはこれからだから」
「いらっしゃい、マゼット」
 ツェルリーナの方からマゼットを誘った。
「そして楽しみましょう」
「うん、そうしようよ」
「歌って踊って奏でて」
 ツェルリーナの笑顔での言葉が続く。
「そして楽しみましょう」
「この楽しい喜びを」
「ほう」
 丁度この場にジョヴァンニがやって来た。ツェルリーナを見てまず目を止めた。
「これはいい。おあつらえ向きだな」
「これだけいたら一人位はなあ」
 その横にはもうレポレロが来ていた。そしてこう呟くのだった。
「わしにも一人位は」
「そうだな。御前も誰か引っ掛けるといい」
 レポレロが着飾った村娘達を物欲しそうな目で見るのを見てからのジョヴァンニの言葉である。彼もまた彼女達を見てはいる。
「私も五人か六人、いや十人か」
「またお盛んなことで」
「私にとっては何でもない。さて」
 ここで前に出るジョヴァンニだった。そして村人達に言うのだった。
「やあやあ、楽しんでおられますな」
「あっ、貴族の方だ」
「本当だ」
 皆彼の羽帽子とマントからそう判断した。実際に彼は貴族である。
「ここに何か御用で?」
「どうされたのですか?」
「いや、続けて下さい」
 ジョヴァンニは村人達が宴を中断したのでそれは続けさせた。
「歌も踊りも。ところで」
「はい」
 村人の一人が彼の言葉に応える。
「何か?」
「今日はどうされたのですか?」
 ジョヴァンニは何気なくを装って彼に問うた。
「随分と賑やかですが」
「結婚式が行われているのです」
「ほう、それは目出度い」
 ジョヴァンニは演技を続ける。続けながらさりげなくツェルリーナをちらりと見た。
「そして花嫁は」
「はい、私です」
 ここでツェルリーナがにこりと笑ってジョヴァンニに挨拶をした。
「ツェルリーナです」
「ふむ。では花婿は」
「僕です」
 遅れてマゼットがジョヴァンニに挨拶をする。
「マゼットです。宜しく」
「ふむ。見事な御仁だ」
 一応マゼットを褒めはする。
「お若いのにしっかりしておられる」
「そうですかね」
 だがレポレロはそう思ってはいなかった。
「結構抜けてそうですけれど」
「それはあえて言うな」
 ジョヴァンニもこっそりとレポレロに言いはする。
「さて、それでだ」
「はい」
「マゼットはですね」
 ツェルリーナがにこにことしながらジョヴァンニに話してきた。
「とても優しくて善良なんですよ」
「それは私もだ。ではセニョリータ」
「はい」
「私は・・・・・・待て」
 横にいるレポレロが村の女の子達に声をかけているのを見て彼に声をかけた。
「何をしている?」
「まあちょっと」
 村娘達から一旦離れて主に応えるレポレロだった。
「この娘達があんまり可愛いんで一緒に遊びたくて」
「それはいいが相手のことを考えるように」
 ここではわざと良識ぶって説教してみせた。
「いいな」
「はい」
「いや、待て」
 ここで演技で言うジョヴァンニだった。
「この方々を私の屋敷に御招待しろ」
「旦那のですか」
「そうだ。そこで新たな祭だ」
 それをしようというのだ。
「チョコレートにコーヒーにワインにハムを出せ」
「他には?」
「出せるだけ出すのだ」
 少なくとも気前はいいジョヴァンニだった。
「いいな」
「わかりました。それじゃあ」
「特にだ」
 ここでツェルリーナの傍に何気なく近寄ってその腰を抱いてからその横にいるマゼットに顔を向けてそのうえで言うのだった。
「花婿殿は喜ばせて差し上げろ」
「わかりました。それじゃあ」
 レポレロが言われるまま村人達をジョヴァンニの屋敷に案内しようとする。しかしここでマゼットがジョヴァンニに対して言ってきた。
「あの、旦那様」
「何か?」
「一つ言っておくことがあるのですが」
 呑気だがいささか気にかけるような顔でのマゼットの言葉だった。
「ツェルリーナはですね」
「花嫁殿は?」
「僕なしではいられないので」
「いや、大丈夫ですよ」
 すかさずレポレロが彼に言ってきた。
「旦那がいますので」
「この方がですか」
「無事に貴方の代わりを務めてくれますよ」
 にこやかだが含んだものが多分にある言葉だった。
「ですから御心配なく」
「花嫁殿は騎士に護られております」 
 ジョヴァンニは自分がその騎士だというのだった。
「ですから御安心あれ」
「そうですか」
「花嫁殿はすぐに私と共に屋敷に参りますぞ」
「大丈夫よ、マゼット」
 ツェルリーナはジョヴァンニをちらりと見てから夫に顔を戻して述べた。
「私はこの騎士様に護られているから」
「だから?」
「心配は無用よ」
 にこりと笑っての言葉だった。
「私はね」
「けれど僕達は結婚したんだし」
「言い争いは止めよう」
 ジョヴァンニは自分のせいだというのに二人の喧嘩の仲裁に入った。
「これ以上騒いでも宴の時間が減るだけだしね」
「そうだよな。折角この貴族の方が招いて下さるんだし」
「ここは御好意を受けないとな」
 村人達はジョヴァンニの本意を読むことなく彼の言葉に賛同した。
「それじゃあ今から」
「行こう、マゼット」
「わかりました、旦那様」
 マゼットは不満を隠してジョヴァンニに告げた。
「僕は頭を下げて参ります。貴方様の御気に召すように」
「わかってくれて何よりだ」
 ジョヴァンニは満足した顔でマゼットの言葉を受ける。
「それはな」
「もう口答えはしません。騎士殿を疑うことはしません」
「うむ。信頼してくれて何よりだ」
 ジョヴァンニは満足気な顔を作って頷いてみせる。
「本当にな」
「私に示してくれた好意がそれを物語っています」
 言いながら眉を顰めさせてツェルリーナに顔を近付け。そっと囁くのだった。
「浮気なんかしたら許さないよ」
「私がそんなことをすると思うの?」
「信じてるよ」
 それでもなのだった。
「まあいいさ。騎士様に任せるよ」
 今度は疑う目でジョヴァンニを見るがそれは一瞬だった。
「きっと君を淑女として扱ってくれるだろうからね」
「じゃあマゼット行こう」
「主役がいないとどうしようもないよ」
「わかったよ」
 村人達の言葉を受けて渋々ながらこの場を後にするマゼットだった。他の村人達もレポレロに連れられて消え去った。残ったのはジョヴァンニとツェルリーナだけだった。
 二人きりになったジョヴァンニは。早速その本性を露わにさせたうえで。こう言うのだった。
「さて、あの間抜けはいなくなった」
「あの、マゼットは私の夫なのですが」
「おっと、そうだったな」
 一応ツェルリーナの言葉は受けはした。
「しかしツェルリーナよ」
「はい」
「その黄金のような顔に甘くとろけるような笑顔」
 早速彼女を口説きはじめた。
「これが一人の泥臭い奴のものになるのはな」
「ですが私はもうマゼットと結婚してますよ」
 ツェルリーナはここでは何も知らない女の子だった。
「ですから」
「結婚には何の価値もない」
 まさにジョヴァンニといった言葉だった。
「そなたはあの様な泥臭い男だけのものではないのだ」
「マゼットだけの」
「そうだ。他の運命を呼び覚まし悪戯っぽい目と愛らしい唇にほっそりとして柔らかいかぐわしい指先に」
 目と唇を見詰めてからその指を持ったりもした。
「まるでクリームのチーズに触れ薔薇の香りの中にいるようだ」
「いけませんわ」
 その指から離れてみせた。
「その様なことは」
「何がだ?」
 とぼけてみせるジョヴァンニだった。
「何がいけないのだ?」
「ですから」
 ここではまだ貞淑なツェルリーナだった。まだ、であるが。
「私は知っています」
「私の何を知っているというのだ」
「貴方の様な高貴な方はです」
 つまり貴族ということである。
「いえ、殿方はです」
「私も含めてか」
「そうです。私達に対して誠実な方は滅多におりません」
 こうジョヴァンニに述べるのだった。
「それは知っているつもりです」
「私は違う」
 真剣さを装っての言葉だった。
「私はまことに高貴な者だからだ」
「そうなのですか?」
「私は嘘は言わない」
 この言葉自体が嘘ではある。
「この目に見えないか?その誠実が」
 密かに自分の目を見るように告げるのだった。
「私の誠実が」
「それは」
「時を無駄にしてはいけない」
 そしてここで畳み掛けた。
「この時に私はそなたを迎えよう」
「貴方がですか」
「そうだ」
 ツェルリーナの目を見ながらの言葉だった。
「この私が。私がそなたを迎えるのだ」
「けれど私は」
 まだ拒みはするツェルリーナだった。ジョヴァンニから顔を背けさせての言葉だった。
「今はもう」
「誓いを交わすのだ」
 だがジョヴァンニは彼女にさらに攻撃を仕掛ける。
「そして頷くだけでいいのだ」
「頷くだけ」
「そうだ。それでいい」
 彼は言うのだった。
「それだけでな」
「けれど」
「私の恋人よ」
 今度は恋人とさえ呼んでみせた。
「行こう、今から」
「今からですか」
「善は急げという」
 かなり図々しい言葉であった。少なくともジョヴァンニが言うにはそうだ。
「だからこそだ」
「それでも私は」
「ツェルリーナ」
 彼女の名を呼んでみせさえする。
「あの場所で手を取り合い誓いをかわすので」
「あの場所で」
「そう、あの場所で」
 そこから見えるある小屋を指し示しての言葉である。
「そなたはそこで私にはい、と答えるのだ」
「はい、と」
「そうだ。はい、とだ」
 こう彼女に告げるのだった。
「そんなに遠い場所ではないな」
「ええ」
「だから行こう」
 またツェルリーナを誘う。
「あの場所に」
「行きたくもなし行きたくなくもなし」
 ツェルリーナは迷ったような顔を見せてはいた。
「心は少しばかりおののく」
「よいおののきだよ」
「本当に幸せになれるかしら」
 そのことに不安を感じてさえもいた。
「私をからかっているのでは?」
「さあ、おいで」
 だがジョヴァンニはそんな彼女に対してまた言うのだった。
「私の愛しい娘よ」
「マゼットが」
「運命は変わるのだよ」
 またここでこんなことを言うジョヴァンニだった。
「そしてそれを変えるのは」
「もうこれ以上は駄目」
 遂に陥落せんとなるツェルリーナだった。
「もう」
「では行こう」
「ええ、行きましょう」
 そして陥落したのだった。
「私の恋人よ」
「そうだ、私はそなたの恋人なのだよ」
 内心満面の笑みを浮かべるジョヴァンニだった。
「汚れない愛の苦しみを和らげる為に」
「二人であの小屋に」
 こうして二人で小屋に向かおうとする。しかしここでエルヴィーラが出て来た。まさに今行こうとする二人の前に出て来たのだった。
「むっ、貴様は」
「ここにいたのね」
 ジョヴァンニはそのエルヴィーラを見て顔を曇らせた。
「まさかこの様な場所で出て来るとは」
「これこそ神の思し召しです」
 エルヴィーラは強い顔で彼に告げた。
「神は私に貴方の不実を見せてくれた。そしてこの娘を助けさせてくれうるのだわ」
「この方は?」
 ツェルリーナはそのエルヴィーラを見てきょとんとなっていた。少なくとも今小屋に行こうとする気持ちはかなり消えてしまっていた。
「一体」
「まあ待つのだ」
 ジョヴァンニはとりあえずここはエルヴィーラに優しい声をかけた。
「私は気晴らしをしようとしているだけだ」
「気晴らし。そうね」
 エルヴィーラはその彼女の言葉を聞いてもまだその険を消してはいない。
「私は貴方がどんなふうに気晴らしをしてきたのか知っているは」
「ということは」
 ツェルリーナは今のエルヴィーラのやり取りでもうジョヴァンニがわかってしまった。
「旦那様、若しかして」
「いや、これはだな」
 ジョヴァンニはそんなツェルリーナに優しい言葉をあえてかけて誤魔化そうとした。
「この気の毒な御婦人はだな」
「この方は?」
「私に惚れていてな」
「そういえば」
 ツェルリーナはここでちらりとエルヴィーラを見た。
「この方はまだ旦那様を
「だから愛しているふりをしなくてはいけないのだ」
 こう言い繕うジョヴァンニだった。
「私は人がいいからこんな不運を招くのだ」
「さあ、こちらに」
 エルヴィーラはツェルリーナを自らのところに誘う。
「この男の話を聞いては駄目よ。彼は嘘吐きでその目は当てにはなりません」
「そういえば」
 またここでジョヴァンニを見る。すると彼女も次第にわかってきたのだった。
「どうもこの目は」
 詐欺師の目だと思ったのである。
「あまりよくは」
「私は自分の悲しみから彼がわかるの」
 エルヴィーラは今度はジョヴァンニを見据えていた。
「だから貴女には私のような目には遭って欲しくはないのよ」
「それじゃあ私は」
「いらっしゃい」
 さらにツェルリーナを誘う。
「私のところに」
「くっ、また失敗か」
 ジョヴァンニはここに至っては失敗を悟るしかなかった。
「それではここは逃げるしかないな」
「お待ちなさい、不実な人」
 エルヴィーラはその彼を追おうとする。
「逃がしませんよ」
「生憎だが私は脚が速い」
 実際にもうエルヴィーラが届かない場所にまで来ていた。
「それではな。二度と会うまいぞ」
「そういうわけにはいかないわ」
 逃げるジョヴァンニに追うアンナ。だがジョヴァンニは悠々と逃げ延びまた道に出た。するとそこで一組の男女に出会ったのであった。
「おや」
「むっ?」
「あのですね」
 見れば若い男であった。彼は何気なくジョヴァンニに声をかけてきたのだった。
「今僕達は人を探しているのですが」
「人を?」
「そうです、人をです」
 こう彼に言うのであった。
「実は彼女の父、僕にとっては将来義父になられる方が殺されまして」
「私が殺したあの騎士長だな」
 ジョヴァンニは話を聞いてすぐに察した。
「ふむ。ではこの女は」
 若者と共にいるその青いドレスの女を見てこれまた察しをつけた。
「あの時のだな」
「復讐の為に。オッターヴィオの助けになってくれる方を探しています」
 ここでそのアンナも言うのだった。
「どなたか。貴方はどうでしょうか」
「はい、私でよければ」
 ジョヴァンニはその殺した男が自分だというのはしゃあしゃあと隠して恭しく一礼してみせた。
「この剣も血も貴女に捧げましょう」
「有り難き御言葉。それでは」
 アンナはにこりと笑ってジョヴァンニのこの言葉を受けた。しかしその時だった。
「ここにいたのね」
「また出て来たか」
 ここでまたエルヴィーラが出て来たのであった。ジョヴァンニの顔がまた歪んだ。
「今日は何故この女がいつも出て来るのだ」
「それこそが神の思し召しです」
「貴様はイギリス人だろうが」
「それがどうかしましたか?」
「カトリックではない」
 イギリスはイギリス国教会である。
「もっとも私は神なぞどうでもいいのだがな」
「貴方のそうした考えもなおしてあげます」
 エルヴィーラはきっとした顔でまたジョヴァンニに告げた。
「ですから御二人共」
「はい」
「どうされたのですか?」 
 オッターヴィオもアンナも今のエルヴィーラの様子から只事ではないのは感じていた。
「それで」
「何か」
「この男を信用しないで下さい」
 エルヴィーラはその二人に対してこう告げるのだった。
「不貞で不実な男です」
「不実な?」
「そうなのですか?」
「そうです。前に私を欺き」
 このことも二人に話すのだった。
「そして今貴方達も欺こうとしているのです」
「アンナ、この方は」
「ええ、そうね」
 オッターヴィオとアンナはエルヴィーラの真摯な話し方とその表情から真実を悟った。
「嘘はついていない」
「ええ、絶対に」
「この御婦人はです」
 ジョヴァンニは二人に対してもツェルリーナに話したのと同じように話すのだった。
「分別を失っているのです」
「いえ、あまりそうは」
「思えませんけれど」
 だが二人は今は彼の言葉をそのまま聞こうとはしなかった。
「この御婦人はどうも」
「嘘を言われる方では」
「二人だけにして下さい」
 ジョヴァンニはこの場の難を避ける為にこう二人に提案した。
「この方もそのうち鎮まるでしょうし」
「いえ、ここにいて下さい」
 だがエルヴィーラは当然こう主張するのだった。
「そして私の話を」
「やはりここはあの御婦人の話が」
「そう思うけれど」
 二人も二人でかなり迷いだしていた。
「あの方は本当の苦しみを語られているし」
「けれどあの方の言うことも聞いてみなければ」
「どうしてこの人を懲らしめてやろうかしら」
「どのようにしてこの場をやり過ごすか」
 エルヴィーラもジョヴァンニもそれぞれ考えていた。
「この裏切り者を何とかして」
「この窮地を何とかして」
 二人はそれぞれせめぎ合っていた。そんな二人を見ながらオッターヴィオとアンナの二人は二人で一つの決断を下したのであった。
「よし、ここは留まりましょう」
「そうしよう」
 オッターヴィオはアンナの今の言葉に頷いた。
「そして事情を見極めましょう」
「そうするとしよう」
「あの方の態度も話し方も」
 アンナはここでエルヴィーラを見て話した。
「分別を失った様子はありませんから」
「そうだね。どうもね」
「これはまずいな」
 ジョヴァンニは決断を下した二人を見て苦い顔で呟いた。
「私がここで消えたらこの二人は私を疑うぞ」
「あの御二人はわかってくれるわ」
 エルヴィーラはジョヴァンニと逆に希望を見出していた。
「それなら」
「あの御婦人は」
「分別を失っておられます」
 ジョヴァンニはここでもオッターヴィオにこう答える。
「あの方は」
「裏切り者です」
 エルヴィーラはアンナの問いに答えていた。
「不幸な御婦人です」
「嘘つきなのです」
 そのうえでまたお互いをこう指し示す。
「ですから信用なさらないように」
「信じて頂きたいのです」
「やっぱりここは見極めましょう」
「そうしよう」
 やはり二人はこの場に留まる。ジョヴァンニにとってはまことに都合が悪い状況だった。それで苦い顔をしているとやがて騒がしさに人々が集まってきたのだった。
「もう騒ぐな」
「騒ぐなですって!?」
「そうだ。人が集まって来たではないか」
 ジョヴァンニはその集まってきた人々を指し示してエルヴィーラに抗議する。
「こうしてな」
「そんなことは構いません」
 しかしエルヴィーラはそれに構わなかった。
「今の私には慎みなぞ気にしません」
「何という女だ」
「貴方の罪も私のことも皆さんにお話しましょう」
「見て、オッターヴィオ」
「うん」
 アンナはジョヴァンニの曇った顔を見てオッターヴィオに指し示した。
「あの人の顔」
「かなり怒ったものになっているね」
「しかも蒼白よ」
 このことまで見極めてきた二人だった。
「疑いを持つには充分だと思うけれど」
「そうだね。けれど」
 ここでオッターヴィオは言うのだった。
「君が相手の顔を覚えていないのはまずかったね」
「暗がりだったから見えなかったのよ」
 バツの悪い顔になるエルヴィーラだった。
「だからね。それは」
「まあそれは仕方ないね」
「気の毒な女だ」
 進退極まったジョヴァンニはたまりかねたように半ば叫んだ。
「この女と一緒にいてやろう」
「一緒に?」
「そう、一緒にだ」
 エルヴィーラを見ての言葉だった。
「それでいいな。二人で話をしよう」
「え、ええ」
 そして何故かこの申し出に頷くエルヴィーラだった。
「二人でなら」
「よし、これで決まりだ」
 ジョヴァンニは強引に話をまとめてしまった。
「それでは御二人共」
「ええ」
「それでは」
「また御会いしましょう」
 ここでまた二人に恭しく一礼してみせたのだった。
「私にできることなら何でもしますので。それでは」
「それでは」
 二人はこうしてアンナ達と別れた。だがここでアンナは彼の顔を見てはっとした顔になったのだった。そうしてオッターヴィオと二人だけになってから。蒼白になって彼に告げるのだった。
「ねえオッターヴィオ」
「どうしたの、アンナ」
「あの男だけれど」
「怪しかったね」
 いぶかしむ顔でジョヴァンニが消えた方を見ての言葉だった。
「どうにも態度が」
「それだけじゃないわ」
 だがアンナはその蒼白になった顔のまま彼に再び告げた。
「あの男は」
「どうしたの?」
「あの男なのよ」
 震える声で自分をそっと抱き締めるオッターヴィオに告げ続ける。
「あの男が御父様を」
「何だって!?」
「あの男の最後の顔を見て思い出したの」
「あの顔を見て」
「ええ。私が闇夜の中で見た顔を同じだわ」
 こう話すのであった。
「まさしく。今思い出したわ」
「ではあの真摯な態度も」
「偽りだったのよ」
 このことも悟るアンナだった。
「御父様を殺したことをあえて隠してそのうえで私達と」
「何という男だ」
「私が一人で部屋に寝ていた時にマントにその身を包んだあの男が忍び込んできて」
「そして貴女が声をあげたら」
「そう。失敗したと見て逃げて」
 ジョヴァンニの失態であった。
「そして私が追って声に気付いた家の者達と御父様が出て」
「それで義父様はあの男に殺されたのか」
「私は操は守ったけれど御父様を殺されてしまった」
 ここで涙がその両目からぽろぽろと溢れ出る。
「私は」
「何という。恐ろしい」
「これでわかってくれたわね」
 オッターヴィオの顔を見ての言葉だった。
「誰が私の操を襲ったのか。そして人を欺いたのは誰か、御父様を殺したのは誰か」
「うん」
 オッターヴィオはアンナの言葉を受けて力強く頷いた。
「よくね」
「私は貴方に復讐を果たして欲しいし貴方も同じですね」
「勿論です」
 オッターヴィオの言葉には迷いがない。
「だからこそ僕は今ここにいるのです」
「この胸の痛みを、悲しみの涙を思って」
 涙をまだ流しながらオッターヴィオに告げる。
「例え貴方の心の中で正義の怒りが弱まることがあろうとも」
「それは有り得ません」
 オッターヴィオもオッターヴィオで己の正義に対して述べるのだった。
「どうして僕が騎士がその様な罪を犯すことが信じられましょうか」
「騎士がなのですね」
「そうです、騎士がです」
 オッターヴィオは騎士と貴族を同じにして話していた。
「疑いの覆いを取り除くことで真実を見極めなくては。僕は自分の中に貴女に未来の夫として、友人として求められた果たすべき務めを感じています」
「何と有り難い御言葉」
「僕は貴女の憂いを払い取り復讐を果たしましょう」
 そしてこうも言うのだった。
「貴女の心の安らぎこそ僕の願いです」
 こう言うのだった。
「貴女を喜ばせるものは僕にも喜びを与えてくれますし不安に陥れるものには不安を感じます」
「私達は同じだと」
「そうです」
 これは誓いの言葉だった。
「貴女の溜息に僕も嘆き貴女の怒りも涙もぼくのものです」
「オッターヴィオ・・・・・・」
「貴女が不幸ならば僕も不幸です。ですから」
「その不幸を取り払いましょう」
「ええ、是非」
 二人でこう誓い合い彼等もジョヴァンニを追う。また彼を追う者が生じたのだった。 
 別の道でレポレロは一人とぼとぼと歩いていた。そしてそのうえでぶつくさと呟いていた。
「もう決めた」
 俯きながらの言葉だった。
「もうあの滅茶苦茶な旦那から別れよう。さもないと」
「おお、レポレロ」
「早速出て来られた」
 ジョヴァンニの姿を見て溜息をつくことしきりであった。
「全く。何事もなかったかのように。もうこんなことから足を洗わないと」
「どうなった?」
「滅茶苦茶になりましたよ」 
 むっとした顔をジョヴァンニに向けての言葉だった。
「本当にね。何もかも」
「何もかもだと」
「そうですよ。旦那が仰った通りね」
「村の者達を私の屋敷に案内したな」
「はい」
「ならいい」
 それを聞いてまずは満足した顔になるジョヴァンニだった。
「それならな」
「それでもてなして派手にやってもらいましたよ」
「さらにいい」
「特にあの花婿。ええと」
 話しながら彼の名前を思い出す。
「マゼットね。あの男の心を和らげて焼き餅を解きほぐそうとしましたが」
「私の思い通りだ。やはりわかっているではないか」
「皆に食べてもらって飲んでもらって」 
 レポレロはさらに話す。
「そうしてもらったのですが」
「それでどうなったのだ?」
「乱入ですよ。もう台風がね」
「今はそんな季節ではないが」
「人間の台風ですよ」
 顔を顰めさせての今のレポレロの言葉だった。
「それもとびきりのが。誰だと思います?」
「ツェルリーナだな」
 ジョヴァンニは少し考えてから察した目で述べた。
「若しかすると。そうだな」
「そしてもう一つ台風が来まして」
「エルヴィーラだな」
 今度はほぼ瞬時に答えることができた。
「そうだな」
「その通りです。貴方のことを皆に言いました」
「それもとびきり悪くだな」
「ええ。真実をそのまま」
 悪く言うことがそのまま真実になるのがジョヴァンニであった。
「仰っていましたよ」
「それで御前はどうしたんだ?」
「もう何も言えませんでした」
 たまりかねた顔での言葉だった。
「何もね。エルヴィーラさんがヒステリックに旦那のことを皆に話すのを聞いているだけで」
「それで今ここにいるのか」
「あの方がやっと疲れだした頃にです」
 レポレロはここからまた話すのだった。
「庭の外に優しく連れ出してですね」
「うむ」
「巧に戸口を閉め鍵をかけて」
 つまり締め出したのである。
「それで村人達も放っておいてここまで逃げてきたんですよ」
「ここまでか」
「村人はまだ屋敷にいるんじゃないですか?」
 このことはあまりよくわからないようだった。
「多分ですけれど」
「そしてエルヴィーラは」
「道でしょうね」 
 そこにいるというのである。
「まあそんなところでしょうね」
「よし、これ以上はない」
 ジョヴァンニはここまで聞いたうえで満足した顔で笑った。
「最高の出来だ。後はだ」
「後は?」
「最後の仕上げを私がしよう」
 満足した顔のままの言葉だった。
「最後はな」
「最後はっていいますと?」
「まだ屋敷には村娘達が残っているな」
「多分」
 やはりこのことははっきり言えないレポレロだった。
「そうだと思いますけれど」
「よし、その娘達だ」
 全く懲りることのないジョヴァンニだった。
「酒で皆が酔い潰れるまで華やかな宴を開くのだ」
 彼は実に明るく言いだした。
「若し広場で娘を見つけたら誰でも連れて来て踊らせる」
「踊りは何を?」
「メヌエットだろうがラ=フォリアだろうがアルマンドだろうが何でもいい」
 とにかく何でもなのだった。
「皆が歌い踊る間に私は恋を探す。そして」
「そして?」
「カタログには十名程度の名前が新たに載ることになるのだ」
「だといいですけれどね」
 何故か少し醒めたレポレロの言葉だった。
「まあとにかくです」
「うむ」
「仕切りなおしといきましょう」
 何だかんだでジョヴァンニと共にいると生き生きとした顔になるレポレロである。
「その為にも」
「屋敷に戻るぞ」
「はい、そうしましょう」
 こんなことを言い合いながらこの場を後にする二人だった。そしてその頃少し遠くにジョヴァンニの屋敷が見える庭先で。ツェルリーナがマゼットに必死に言っていた。
 ジョヴァンニの屋敷はさながら宮殿のようである。大きく立派でかつ豪奢である。彼の豊かさを示すだけでなくその家柄さえ示しているようだった。
 だが今はそれは背景でしかなく。ツェルリーナは必死にマゼットに言い続けていた。
「だから聞いてよ」
「聞くものか」
 マゼットは必死に声をかけるツェルリーナに背を向けていた。
「誰が聞くものか」
「それはどうしてなの?」
「自分の胸に聞いてみたらいいだろ?」
 ツェルリーナに背を向けたまま言う。
「そんなことは」
「自分の胸にって」
「浮気者」
 彼が責めるのはやはりこのことだった。6
「幾ら貴族だからってそれでも」
「そんなことを言われる理由はないわ」
 ツェルリーナは必死にマゼットに告げる。
「私にはそんな」
「僕は浮気は許さないから」
 マゼットはまだ背を向けたままである。
「絶対に」
「私が浮気をしたなんて」
「結婚式の日にだよ」
 ここでえツェルリーナに向かい合う。
「僕を捨てて他の男といっしょにいて」
「あのことなのね」
「この不名誉な記録を僕の前に置くのかい!?どうなんだよ」
「私は逃げることができたのよ」
「逃げることが?」
「だから今すぐにここに来られたのよ」
 こうマゼットに言うのだった。
「助けてもらって」
「助けてもらって」
「大体そのままいったのなら今もいないでしょ」
 このこともマゼットに話す。
「そうでしょ?お屋敷にすぐに来ることなんてできないじゃない」
「そういえばそうか」
 言われて気付くマゼットだった。
「言われてみればそうだな」
「そうよ。だからここに今いるのよ」
 また言うのだった。
「そうでしょ?信じてもらえないのなら」
「僕に信じてもらえないのなら」
「何だってしていいわ」
 腹を括った言葉だった。
「それこそ何でもね」
「何でもって」
「ぶってよ」
 ここまで言う。
「その時は貴方が私をぶって」
「僕がって」
「幼い仔羊みたいにここにいて貴方の鞭を待つわ」
「いや僕がって」
 マゼットはツェルリーナにこう言われて明らかに戸惑いを見せた。気の優しい彼が誰かを、とりわけツェルリーナをぶつことなぞ想像もできなかったからだ。
「そんなことは。とても」
「髪の毛を引き千切られても眼をくり抜かれても」
 欧州での拷問はかなり酷い。
「貴方のの両手に口付けしてあげるわ」
「ツェルリーナ・・・・・・」
「まだ怒っているの?」
 マゼットの戸惑う顔を見て言う。
「もう怒らないで。喜びと楽しみで昼も夜も楽しみましょう」
「仕方ないな」
 ここで遂に許してしまったマゼットだった。
「わかったよ。もういいよ」
「マゼット」
「君が何もしていないのはわかったし」
 これは事実だしツェルリーナも隠さないのでマゼットにもわかったのだ。
「それじゃあね。それで」
「次のお祭はここだな」
「!?」
「あの声は」
 マゼットとツェルリーナだけでなく周りの村人達も声をあげた。
「あのいかさま騎士殿の声だ」
「間違いない」
「来るわよ」
「来たらいいじゃないか」
 マゼットは心配する顔になるツェルリーナに対して告げた。
「だったら」
「だったら?」
「あいつが来る前に隠れるんだ」
 マゼットが提案するのはこのことだった。
「来る前に隠れるんだよ」
「隠れるの」
「隠れる場所は一杯あるし」
「確かに」
 見ればその通りだった。庭には茂みや木が多くある。その陰に隠れればそれで済むことだった。
「何処にでもね」
「けれどマゼット」
 ツェルリーナはマゼットを心配する顔になっていた。
「貴方があの人に見つかったら」
「大丈夫だよ」
 しかしマゼットは平気な顔であった。
「皆もいるし」
「だから大丈夫なのね」
「うん。けれどツェルリーナ」
 彼女には真面目な顔を向けて告げる。
「君はここにいるんだ」
「私はここに?」
「皆は隠れて」
 他の村人達にはこう告げる。
「皆はね。それでいいね」
「ああ、いいよ」
「わかったよ」
 村人達はマゼットのその言葉に頷くのだった。
「そういうことでね」
「じゃあ今から」
「よし、これでいい」
 マゼットは皆が隠れるのを見て満足した顔で頷く。
「それで君はね」
「私は?言葉なんて無意味なものよ」
「いや、無意味じゃないよ」
 マゼットは今のツェルリーナの言葉は否定した。
「絶対にね。無意味じゃないよ」
「無意味じゃないの」
「そうさ。だからなんだ」
 だからとまで言う。
「ここにいて。いいね」
「そこまで言うのならわかったわ」
 ツェルリーナも遂に納得するのだった。
「それじゃあ・・・・・・あっ」
 ところがであった。ツェルリーナはここでつまづいてしまってそれで物陰の中に入ってしまった。マゼットもそれには驚いてしまったがもう遅かった。ジョヴァンニが来たので彼も慌ててツェルリーナの横に隠れた。ジョヴァンニは家の召使達を連れてやって来たのだった。
「さあ皆様方」
 ジョヴァンニはここでも前のことを完全に忘れて陽気に告げてきていた。
「まだ寝る時間ではありません。目を覚ましましょう」
「目を覚ましましょう」
 召使達も言う。
「元気を出して容器に過ごしましょう。笑いましょう、善良な人々よ」
「善良な人々よ」
「さて」
 ジョヴァンニはここで後ろにいる召使達に対して告げるのだった。
「皆さんを踊りの部屋に案内して食べきれないだけの御馳走をお出しするのだ」
「わかっております」
「ですから皆さん」
「あの」
 ここで何とか物陰からそっと出るツェルリーナだった。
「何か?」
「おお、ツェルリーナ」
 ジョヴァンニは彼女の姿を見つけて楽しげな声をあげた。
「見つけた。もう逃がさないぞ」
「あっ、駄目です」
 手を掴まれてもそれを拒もうとする。
「駄目です。それは」
「いや、ここにいてくれ」
 しかしジョヴァンニも引かない。
「私はそなたにここにいて欲しいんだよ」
「お許し下さい」
 ツェルリーナは演技をする。
「御願いですから」
「許してあげるよ」
 ジョヴァンニは一応こう言いはする。
「幸せにしてあげるのだから」
「さて、どうなるかしら」
 ツェルリーナはこの中でこっそりと呟いた。
「これから」
「あの」
 今度出て来たのはマゼットだった。よそよそしさを装っている。
「旦那様」
「おお、マゼット君か」
 ジョヴァンニはそっとツェルリーナから手を放して彼に対した・
「君を探していた」
「僕をですか」
「そうだ。このセニョリータは」
 言うまでもなくツェルリーナのことである。
「君なしではもう生きていられないとのことだ」
「勿論ですよ」
 マゼットは言葉に皮肉を込めて返した。
「僕達はもう夫婦なんですから」
「その君達を祝わせてもらおう」
 ここでジョヴァンニの後ろから音楽が聴こえてきた。オーケストラの演奏であった。
「この楽師達の音楽が聴こえるね」
「はい」
 マゼットはあえて表情を消してこの言葉に頷く。
「よく」
「私と共に行こう」
 ジョヴァンニは今度は彼も誘う。
「今から皆で」
「それでは三人で」
「村の皆も一緒に」
「勿論だとも」
 ジョヴァンニは二人の申し出ににこやかな顔を作って頷いてみせる。
「それじゃあ今から」
「はい、今から」
「皆で行きましょう」
 こうしてまず三人が向かいその後をジョヴァンニの召使達と物陰からぞろぞろと出て来た村人達が続く。その頃屋敷には仮面を着けた三人の男女がもう窓辺のところにいた。
「さあ、御二人共」
「ええ」
「ここですね」
 それぞれエルヴィーラ、アンナ、オッターヴィオである。三人はもうここに来ているのだった。
「ここです」
「ここがあの悪党の屋敷」
「ここだったのですか」
「もうすぐです」
 エルヴィーラは二人に顔を向けて告げる。
「あの悪党に天罰を与えてやりましょう」
「その通りです」
 オッターヴィオが彼女の言葉に最初に頷く。
「アンナ、僕はここで仇を討つことになる」
「危険が多いかも知れない」
 アンナはこのことを危惧していた。
「オッターヴィオ、気をつけてね」
「わかってるよ。僕は大丈夫だよ」
「エルヴィーラさん」
 エルヴィーラにも気遣う声をかける。
「貴女も」
「わかっております」
 エルヴィーラの声ははっきりとしていた。
「もうあの男のことはよくわかっていますから」
「そうですか。それでは」
「いよいよ」
「あれ、旦那」
 ここで窓が開いた。そしてその中からレポレロが顔を出してきて三人を見て言うのだった。
「あれ見て下さいよ」
「どうしたのだ?」
「ほら、あそこですよ」
 こう言って三人を指差して出て来たジョヴァンニに対して言うのだった。
「あそこにきれいな仮面の人達が来られてますよ」
「ふむ。それも面白いな」
 ジョヴァンニは彼の言葉を聞いてこう述べた。
「ではその方々も宴にお招きするのだ」
「あの人達もですか」
「そうだ。客人は多い方がより楽しくなる」
 派手好きのジョヴァンニらしい言葉であった。
「だからだ。それでいいな」
「わかりました。それじゃあ」
「あの声は」
「間違いありませんね」
「ええ」
 三人は窓辺から聞こえた声を聞いて頷き合う。
「あの悪党です」
「もう僕もわかりました」
「確実に」
「あのですね」
 レポレロは窓からその三人に声をかけた。
「宜しいでしょうか」
「はい」
「何でしょうか」
 三人は話し合いを止めてレポレロに対して応えた。
「私達に何か」
「あるのでしょうか」
「宜しければですが」
 こう前置きするレポレロだった。そのうえでまた三人に告げる。
「うちの旦那が皆様を宴にお招きしております」
「おお、それは有り難い」
 オッターヴィオが明るい声を作って彼の申し出に応えた。
「それでは是非」
「はい。じゃあどうぞ門のところへ」
 こう言って窓を閉めるレポレロだった。三人はここでまた言い合うのだった。
「それではいざ」
「勝負の時に」
 こうして三人は門のところに向かう。確かに今勝負の時が迫ろうとしていた。
 舞踏の間は華やかに黄金や赤い装飾で満たされていた。シャングリラから光が絶えずキャンドルも部屋の中を眩く照らしている。多く置かれたテーブルの上には様々な御馳走や菓子が置かれワインが次々と飲まれていく。そこに皆が集まり中心にはジョヴァンニがいて陽気にシャンパンを飲み皆に告げていた。
「さあ皆さん楽しんでくれているでしょうか」
「はい、充分に」
「楽しませてもらっています」
 皆陽気にその言葉に応える。
「御馳走もお酒も美味しい」
「最高ですね」
「遊んで騒いで踊って下さい」
 彼が言うのはこのことだった。
「まだまだありますから」
「そうですね」
「レポレロ」
 隣で一人御馳走を貪りワインを瓶ごと飲むレポレロに声をかけた。
「コーヒーをお出ししろ」
「コーヒーですか」
「それにチョコレートもだ」
「わかりました。それじゃあ」
「シャーベットにビスケットもだ」
 菓子が続く。
「とにかく何でも出すのだ。いいな」
「わかりました。それじゃあ」
 彼はここで一旦後ろに下がる。ジョヴァンニは一人になるとマゼットの横に立っているツェルリーナに対してそっと近寄ってきたのだった。
「来たね」
「ええ」
 二人もそれは見ていた。そうして頷き合うのだった。
「いよいよだな」
「そうね」
「はじまりが楽しければ」
「終わりは苦くなるかも」
 こんなことを言い合いながらやって来るジョヴァンニを見る。彼はにこやかな笑顔でツェルリーナのところに来てその手を取って言うのだった。
「やはり奇麗で可愛いね」
「いえ、そんな」
「いや、本当に」
 マゼットをよそにの言葉だった。
「奇麗だよ。本当に」
「おやおや、早速仕掛けてるね」
 部屋に戻ってきて主に言われたものを置き終えたレポレロはここで言った。
「相変わらず素早いことで。ジャネッタにサンドリーナ」
 主の真似をして言ったりもする。
「こんなふうに」
「今は我慢だ」
 マゼットは二人の横でそっと呟く。
「我慢しないと」
「怒ったら駄目よマゼット」
 ツェルリーナもこっそり呟く。
「ここはね」
「さて、マゼットを煙に捲いて」
 ジョヴァンニもジョヴァンニで呟く。
「話はそれからだな」
「おお、来られましたね」
 ここでレポレロが部屋の入り口を見て声をあげた。見ればあの三人が来たのだ。
「お待ちしていましたよ」
「ようこそ」
 ジョヴァンニはツェルリーナの傍から離れて客人に向かいながら声をかけた。
「よくぞ来られました」
「いえ、お招き頂いて有り難うございます」
「どうもです」
 三人も三人で恭しさを作って挨拶をする。
「丁重なおもてなしを有り難うございます」
「この様な宴に」
「それではです」
 ここで言うジョヴァンニだった。
「また音楽を。そしてレポレロ」
「はい」
「御前は踊りの相手を組ませるのだ」
「わかりました。それじゃあ」
 こうして舞踏がはじまる。曲はメヌエットだった。
 そのメヌエットがはじまる中でレポレロは皆に対して言うのだった。
「さあさあ皆さん」
「はい」
「踊りですね」
「そうです。踊りましょう」
 笑顔で皆に告げる。
「皆で踊りましょう」
「よし、それなら」
「皆で」 
 村人達も召使達もそれに入る。こうして皆で踊りはじめた。
 そんな中でエルヴィーラはツェルリーナを見つけてアンナに告げた。
「あの娘がですね」
「悪党に言い寄られていた」
「そうです。ツェルリーナちゃんです」
 年下なのでちゃん付けであった。
「いい娘なのですが」
「何という男なのでしょう」
 部屋の中心に戻ったジョヴァンニを忌々しい目で見ての言葉だ。
「我慢できないわ」
「今は耐えるんだ」
 オッターヴィオは怒りを爆発させようとする彼女に優しく告げる。
「今は。いいね」
「ええ。何とか」
「ははは、さらに楽しくなってきたな」
 ジョヴァンニは部屋の真ん中で上機嫌なままだった。
「さて、レポレロよ」
「はい」
 そしてまたレポレロに声をかけるのだった。彼もそれに応える。
「わかっているな」
「勿論ですよ」
「そろそろカタログの名簿を増やしにかかる」
 彼のライフワークにかかるというのだ。
「その最初はやはり」
「あの娘ですね」
「そうだ。ツェルリーナだ」
 彼女をちらりと見たうえでの言葉だった。
「あの娘からだ」
「わかりました。それじゃあ」
 彼は頷いてからマゼットのところに行きあれやこれやと言ってツェルリーナから離す。彼はかなり不穏な顔だったがレポレロは酒に御馳走まで出して離す。その間にジョヴァンニはツェルリーナに再び寄るのであった。
 そうしてそのうえで。彼女を誘う。
「ではツェルリーナ」
「はい」
 彼女は今は心の中の警戒を隠していた。
「今から」
「ええ」
「あの娘に」 
 アンナはオッターヴィオと踊りながら怒った声を出していた。
「いよいよその毒牙を」
「だから今は」
「落ち着いて下さい」
 オッターヴィオだけでなくエルヴィーラも彼女に声をかけて宥める。
「騒いだら駄目だよ」
「今が肝心ですよ」
「え、ええ」
 二人に言われて何とか怒りを収めるアンナだった。その間にジョヴァンニは何気なくツェルリーナをそっと部屋から出す。三人はそれを見て言い合った。
「いよいよですね」
「そうですね」
「今です」
「よし、今だ」
 マゼットもここで言った。
「ツェルリーナ、上手くやれよ」
「あれ、まずいかな」
 レポレロもここで事態を悟った。
「旦那ひょっとして策士策にやらかい?」
「誰か!」
 部屋のすぐ外からツェルリーナの声が聞こえてきた。
「誰か来て下さい。誰か!」
「!?あの声は」
「ツェルリーナ!?」
 ここで村人達も驚きの声をあげた。
「間違いない、あれは」
「どうしたんだ?」
「げっ、旦那まずったか!?」
「そんな馬鹿な」
 召使達も召使達で動きを止めた。
「あの旦那に限って」
「そんなことは」
「助けて!」
 ここでまたツェルリーナの声がする。
「どうか。どうか」
「旦那、やばいですよ」
 レポレロはもうジョヴァンニのところに向かっていた。
「このままだと」
「今です」
「ええ」
「それでは」
 エルヴィーラ達三人は顔を見合わせて頷き合う。
「行きましょう」
「そして今こそ天罰を」
 与えようとした時だった。何と部屋の中にジョヴァンニが入って来た。見れば右手に剣を持っており左手でレポレロの後ろ襟を掴んで猫の様に持っていた。
「もう許せん!」
「えっ!?」
「どういうこと!?」
「レポレロさん!?」
 皆、召使達も含めて彼がレポレロを捕まえて出て来たのには驚きの声をあげた。
「何が何だか」
「どうしたっていうの!?」
「もう許さん。私が成敗してくれる」
「あの、旦那」
 当のレポレロも訳がわからず目を点にさせていた。
「一体これは」
「成敗してやる。新妻を手篭めにしようなどとは」
「何で私なんですか」
 レポレロの抗議も当然だった。猫の様に掴まれたまま抗議する。
「私が何をしたっていうんですか」
「そんなことでは騙せません」
「その通り」
 だがエルヴィーラ達は違った。ここで三人一斉に仮面を取ってジョヴァンニに対する。
「ドン=ジョヴァンニ!」
 オッターヴィオは拳銃を出しながら彼の名を呼ぶ。
「ここで天罰を与えてやる!」
「私の目は誤魔化せはしません」
 エルヴィーラがジョヴァンニに対して告げる。
「そう、決して」
「むっ、ドンナ=エルヴィーラか」
「そう、私です」
 きっとジョヴァンニを見据えての言葉だ。
「私がいるからには貴方の勝手にはさせません」
「またここで出て来るとは」
「悪党よ、これで最後です」
 最後にアンナが彼に告げた。
「もうこれで」
「まさかここに来るとは」
「ツェルリーナ」
「マゼット」
 この間に部屋に戻って来たツェルリーナはマゼットのところに帰った。見れば服は全く乱れていない。
「私は大丈夫よ」
「そうか。なら後は」
「ええ。あの旦那を」
 二人はエルヴィーラ達のところに向かった。これで五人。ジョヴァンニの方にはレポレロがいる。しかし数での劣勢は明らかだった。
 村人達も召使達も見守るだけだ。彼等は何が起こったのかまだわかりかねているところがある。だが五人の中心人物であるエルヴィーラは言うのだった。
「覚悟するのです、ドン=ジョヴァンニ」
「私に覚悟せよというのですか」
「その通りです」
 その目はじっとジョヴァンニを見据えていた。
「今ここで。悔い改めるのです」
「戯言を」
 だがジョヴァンニはエルヴィーラのその言葉を一蹴した。
「私に悔い改めろというのか」
「さもなければ貴方のことが世界に知れ渡り」
「結構なことだ」
 ジョヴァンニはこのことを一蹴した。
「私の名が知れ渡るのならな。結構なことだ」
「その悪事が知れ渡るでしょう。そして何時か裁きの雷が落ちることでしょう」
「雷であろうと嵐であろうと」
 ジョヴァンニはエルヴィーラに何を言われても怖気付くことさえなかった。
「私は恐れぬ。世の終わりが来ようとな」
「嵐なんてものじゃないよ」
 五人は今まさにジョヴァンニを取り押さえようとしている。しかしここで召使達は混乱したのか部屋の灯りを次々に消していく。場は次第に暗闇に包まれてきている。
「けれど旦那は恐れることなんてないし。どうなるんだろうな、一体」
「ではレポレロよ」
「あっ、はい」
 ここでレポレロに声をかける。彼もそれに応える。
「去るぞ」
「去るぞって」
「この場を去る」
「あっ、ちょっと旦那」
「待つのです!」
 エルヴィーラが先頭に立ってジョヴァンニを追おうとする。だがそれは適わなかった。
「あっ、暗闇が!」
「ドン=ジョヴァンニ!」
「一体何処に!」
「闇夜は私の永遠の味方だ」
 ジョヴァンニはレポレロと共に闇の中に消えながらこう五人に告げた。もう部屋の中は完全に真っ暗闇になっており驚く村人達の声が木霊する。
「誰が消したんだ!」
「何も見えないぞ!」
「さらばだ!」
 その中でまたジョヴァンニの声が聞こえた。
「私を悔い改めさせることなぞ誰にもできぬ!」
 最後にこう言い残して何処かへと消えた。しかしエルヴィーラも他の者達も諦めてはいなかった。
「次こそは」
「必ず」
 暗闇の中で歯噛みしていた。騒動はまだ続くのだった。



手を出しまくったツケだな。
美姫 「とは言え、上手く逃げ延びているわね」
本当に。付き合わされるレポレロは災難としか言いようがないが。
美姫 「今まで色々と付き合わされて、挙句に自分を犯人として言い逃れようとまでされて」
この後はどうなるんだろうか。
美姫 「楽しみね」
うんうん。次回も待ってます。
美姫 「待ってますね」



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