『ドリトル先生と幸せになる犬』




                第八幕  ペット業界にあるもの

 先生はこの時動物の皆と一緒にふわりが最初にいたペットショップとは別のお店に向かっていました。先生は街の中を歩きつつ皆に言いました。
「今からボランティアで診察に行くけれど」
「ペットショップにいる皆のね」
「診察をするんだね」
「そうするのね」
「そうだよ、命があるから」
 それでというのです。
「ペットショップにいる皆もね」
「しっかりとだね」
「診察して」
「それでなのね」
「そう、そしてね」
 それでというのです。
「健康である様にするんだ」
「ただペットショップにいるだけじゃないね」
「そこにいる子達も皆生きもので」
「それで命があるから」
「健康チェックも必要ね」
「そう、おもちゃでも機械でもないから」 
 ペットショップにいる子達もというのです。
「僕もボランティアでしているんだ」
「皆の健康チェックをね」
「そうしているんだね」
「日本に来てからね」
「いつもそうしているね」
「学園の動物園や水族館の子達のチェックもして」
 健康のそれをというのです。
「そしてね」
「その他にだね」
「そうしたこともだね」
「チェックをして」
「そしてだね」
「皆が健康でいられる様にしているんだ」 
 そうしているというのです。
「今もね」
「いいことだね」
「先生らしい行いだよ」
「ペットショップの子達の健康チェックをするなんて」
「そして問題があったら治療するし」
「何度も言うけれど命があるから」
 ペットショップの皆にはです。
「そのことを忘れたらいけないよ」
「そうだよね」
「ペットはおもちゃや機械じゃない」
「道具でもないんだ」
「命があるからね」
「いつも大事にしないといけないね」
「日本ではおもちゃや機械や道具でも命を持つと考えているよ」
 先生達が今いるこの国もというのです。
「そうだね」
「そうそう、付喪神だね」
「ものも長く使われていると命を持つね」
「それこそ何でもね」
「そう言うね」
「アンデルセンの童話で片足のないおもちゃの兵隊やツリーや毬のお話があるけれど」
 この人の童話のことも思い出すのでした。
「日本ではそう考えているね」
「ものも長く使っていると命を持つ」
「付喪神になる」
「そうなるよね」
「そう考えているね」
「そうだよ、だからね」
 それでというのです。
「日本だと心ある人はね」
「ものも大事にするね」
「ただのおもちゃや道具と思わないで」
「それで大事にするね」
「ものを大事にと言うし」
「そう、ただね」 
 それでもと言う先生でした。
「心ない人もいるね」
「そうだよね」
「世の中いい人も悪い人もいて」
「それでね」
「ものを大事にしない人もいるね」
「どうしても」
「ペットショップでもそうだよ」 
 こうしたお店でもというのです。
「心あるお店もあれば」
「心ないお店もある」
「酷いお店もね」
「中にはね」
「そうだよね」
「本当にペットを商品、ものとしかね」
 そうしたというのです。
「思っていないお店もあるよ」
「ふわりが最初にいたお店は違うけれど」
「ペットの扱いも酷くて」
「お店の裏ではただペットを産むだけの子達もいたりして」
「それでヤクザ屋さんが関わっていたりとかね」
「入れ墨入れたブリーダーさんもいるよ」
 つまり本職か元のヤクザ屋さんのブリーダーもいるというのです、先生はこうした人のこともお話するのでした。
「そうだよ」
「それでお店もだね」
「ヤクザ屋さんかそれに近い人がやってるとか」
「ペット業界にも関わるとか」
「そんなことになってるね」
「そう、だからね」
 それでというのです。
「日本のペット業界にも問題が多いんだ」
「他の場所と同じだね」
「何処も問題があるね」
「本当にね」
「世の中は」
「問題のない場所はないよ」 
 先生は暗い顔でお話した。
「この世界ではね」
「完璧なものはなくて」
「何処でも問題はあるね」
「光と影があって」
「表と裏が」
「そうだよ、その問題を発見して」 
 そしてというのです。
「その都度改善していく」
「それが大事だね」
「そのことが大事だね」
「何といってもね」
「そうだよね」
「そう、だからね」
 それでというのです。
「徐々にだよ」
「問題と常に探して見付けて」
「そして解決していく」
「沢山の問題があっても」
「それでもだね」
「その都度解決していことだよ、ペット業界もね」
 この場所もというのです。
「そうしていくべきだよ、そして僕はね」
「先生の出来ることをする」
「出来るだけのことをね」
「いつもそう言ってるわね」
「そう考えてるって」
「そうだよ、そして僕の出来ることはね」
 それはといいますと。
「問題点を見付けたら皆に知らせて」
「生きものの健康を保つ」
「獣医さんとして」
「そうすることね」
「そうだよ、じゃあ今から行こうね」
 そのお店にとです、こう言ってでした。
 先生は皆と一緒にペットショップにお邪魔してそのうえでそこにいる犬や猫やハムスターや熱帯魚の健康をチェックしてです。
 問題がある子の治療をしてお薬も出しました。その後でお店を後にしましたが先生はこの時も言いました。
「こうしてね」
「皆の健康を保って」
「それで心ある人に家族として迎えられて」
「幸せになってもらうのね」
「そうだよ、命あるなら」
 それならというのです。
「やっぱり幸せにならないとね」
「全部の生きものが幸せになって欲しいから」 
 トートーが言いました。
「だからそうなる様に努力するんだね」
「先生も他の心ある人達も」
「そうして頑張ってるんだね」
 チープサイドの家族も言います。
「こうしたことをして」
「そうだね」
「自分のことしか考えないで努力もしなかったら」
 ホワイティは言いました。
「誰も幸せにならないしね」
「世の中そんな人もいるけれど」
 チーチーは真剣な顔で言いました。
「幸せじゃないしね」
「他の命のことを考えて努力する人は幸せになれるわ」 
 ポリネシアは言いました。
「自然とね」
「悪い人達は人が見ているから」 
 こう言ったのはジップです。
「幸せになれないね」
「幸せになって欲しいと思う人は幸せになる」
「この世の摂理だね」
 オシツオサレツは心から思いました。
「そうした気持ちになってね」
「そして動かないとね」
「悪質なブリーダーやペットショップやふわりの前の飼い主みたいな人なんて」
 ガブガブも思いました。
「天罰が下らないといけないわ」
「そして先生みたいな人は幸せになる」
 言い切ったのはダブダブでした。
「そういうことだね」
「今回のことでも思ったよ」
 老馬は先生に言いました。
「先生はまた立派なことをしたよ」
「そう言ってくれたら嬉しいよ、けれど僕が出来ることは少しだよ」
 ほんの僅かだというのです。
「この世の皆が幸せになれるにはね」
「皆がその為に動かないとね」
「さもないと出来ないね」
「神様もそう思っているね」
「神様は自分で動く人を助けてくれるよ」
 そうしてくれるというのです。
「だからね」
「先生も他の人達もね」
「動いていくべきね」
「他の人達の為に」
「是非共」
「そう、だから僕も今そうしたし」
 先生はさらに言いました。
「ボランティアの施設にもね」
「行ってるね」
「そして生きものの診察をしてるね」
「そこに保護されている人達の」
「そうだよ、実はふわりは国崎さん達が来なかったら」
 保健所にというのです。
「あの保健所はボランティア団体の人達がいつも訪問しているからね」
「保護されていたんだね」
「そして殺処分にはならなかったの」
「最悪の事態にはならなかった」
「そうなんだね」
「そうなんだ、それで新たなネットとかで新しい飼い主の人が募集されて」
 そうしてというのです。
「本当の意味での家族に迎えられたよ」
「国崎さんじゃなくても」
「そうした人達に迎えられた」
「そうなのね」
「そうなっていたよ、けれど前の飼い主の人達は許されないよ」 
 その人達の行為はというのです。
「命を粗末にすることはね」
「そうだよね」
「それは問題外よね」
「どう考えてもね」
「それとこれとは別だね」
「飼えないなら新しい飼い主を探せるし」
 それが可能だというのです。
「吠えて五月蠅いならね」
「その原因を考えてね」
「それをなおしてくれる人もいるし」
「そこに連れて行けばいいし」
「五月蠅いから捨てるとかね」
「やっぱり最低よね」
「最初から愛情なんてないよ」
 先生は言い切りました。
「だからそんなことが出来るんだよ」
「もういらない、だね」
「それで捨てる」
「とんでもない冷酷さだね」
「ドライアイスみたいだよ」
「そう、心から愛情がなくて徹底的に自分勝手で冷酷な」
「僕も否定出来ないね」
 とても温和な先生でもです。
「そうした人達については」
「そうだよね」
「行いが見せてくれるから」
「それじゃあね」
「否定出来ないよね」
「残念ながらね」
 こうしたお話をしてでした、先生は大学に戻りました。この日は午前ハボランティアに出て午後は講義があったのです。
 それでまずはお昼を食べましたが。
 イカ墨のスパゲティ、とても沢山の量のそれとサラダを注文して食べましたが先生はそのパスタを食べながら一緒に食べる皆に言いました。
「いや、イギリスだとね」
「イカ墨どころかね」
「烏賊自体食べないからね」
「こうしたスパゲティもね」
「想像もつかないね」
「うん、日本に入ったのは三十年ちょっと前だったけれど」 
 それがというのです。
「今ではね」
「こうしてだね」
「普通に入って」
「それで食べられてるね」
「そうだよね」
「うん、それがね」
 まさにというのです。
「面白いね」
「そうだよね」
「普通に食べられるからね」
「このイカ墨のスパゲティも」
「そうなっているから」
「しかも美味しいからね」 
 そのスパゲティを食べてにこにことなっています。
「いいね」
「そうだよね」
「ただ食べるとお口の周りが真っ黒になるけれど」
「何しろイカ墨だから」
「そうなるけれどね」
「けれどその真っ黒なのがまたね」 
 イカ墨のそれがというのです。
「いいんだよね」
「面白いからね」
「烏賊の墨まで食べるなんて」
「しかも味がいいから」
「余計にね」
「そうだね、こうして食べて」
 そのイカ墨のスパゲティをです。
「美味しい思いをしよう」
「そうしようね」
「お昼は楽しく」
「そうして食べて」
「午後も頑張ろうね」
「そうしようね、それと」
 先生は食べながらこうも言いました。
「このスパゲティには大蒜が入っているね」
「それと唐辛子がね」
「烏賊も入っているけれど」
「そちらもね」
「しかもオイルはオリーブオイルだから」
 それでというのです。
「尚更美味しいね」
「スパゲティはオリーブがないとね」
「やっぱりしっくりこないわね」
「それに大蒜もね」
「どうしても」
「日本でオリーブオイルが普通になったのは三十数年前からで」
 そうだったというのです。
「それだめではバターとかサラダオイルだったけれど」
「それじゃあね」
「先生前もお話してくれたけれど」
「オリーブオイルには敵わないわね」
「どうしてもね」
「うん、オリーブオイルはね」
 このオイルはといいますと。
「まさにスパゲティの為にあるね」
「他のお料理にも使われるけれど」
「やっぱりそうよね」
「スパゲティにはオリーブオイル」
「他にはないわ」
「考えられないよ」
「うん、それとお塩もね」
 これもというのです。
「必要だけれど日本だとあまり入れないね」
「そうそう、和食は塩分高いけれど」
「そうしたお料理多いけれど」
「パスタにはあまり入れないね」
「茹でる時は」
「それはお水がね」
 これがというのです。
「関係あるね」
「あっ、日本のお水とね」
「本場のお話するとイタリアだとね」
「どうしてもだよね」
「お水の質が違うから」
「どうしてもね」
「そう、それが違うから」
 それでというのです。
「お塩もね」
「日本じゃあまり入れないね」
「お塩については」
「イタリアじゃ凄い入れても」
「日本だとね」
「お水の質が違うと」
 それならというのです。
「どうしてもだよ」
「そうだよね」
「お塩を使う量も違うね」
「日本だとおおむねお水は軟水で」
「凄くいいお水だけれど」
「そのまま飲める位」
「けれどね」
 それでもというのです。
「多くの国では違うね」
「硬水でね」
「特に欧州は硬水ばかりで」
「イタリアもで」
「他の国でもね」
「ドイツは昔からイタリア文化に憧れがあって」
 この国のお話もしました。
「スパゲティも結構食べるけれどね」
「そうそう、それでよね」
「ドイツでもだね」
「お塩をどれだけ使うか」
「それが違うね」
「そうだよ、その国のそのお水によって」
 それぞれというのです。
「お塩を使う量も違うよ」
「そこ大事だね」
「日本はあまり使わなくても」
「イタリアじゃかなり使う」
「その違いもあるね」
「そうなんだよ」
 先生は日本のイカ墨のスパゲティを食べつつ言いました。
「これがね」
「そうだよね」
「こうして考えると面白いね」
「何かとね」
「食べものでも」
「そうだね、しかし日本にいたら」
 こうも言う先生でした。
「食べることが楽しくて楽しくて」
「それだよね」
「先生食事の時にこにこしてるね」
「いつもね」
「そうなったね」
「しかもカロリーが少なくて」
 日本のお料理はです。
「栄養バランスもいいから」
「先生イギリスにいる時より痩せたね」
「脂肪率が減ってね」
「血糖値やコレステロールも下がったし」
「健康になったね」
「そうなったよ」
 実際にというのです。
「僕もね」
「いいことだね」
「美味しいものを食べて健康になる」
「これ最高だよ」
「何といっても」
「そうだね、身体にいいものをバランスよく沢山食べる」
 このことがというのです。
「最高のことだね」
「そうだよね」
「今飲みものは牛乳だし」
「チーズもあるしね」
 見ればスパゲティとサラダにそれぞれチーズがたっぷり入っています。イカ墨のスパゲティの上に小さく切られたチーズがあって熱で溶けてます。
「スパゲティの中にはトマトも入ってるし」
「それもたっぷり」
「サラダもあるし」
「栄養バランスもいいね」
「そうなっているね」
「よく菜食主義は身体にいいというけれど」
 それでもと言う先生でした。
「これも極端過ぎるとね」
「かえってだよね」
「よくないよね」
「身体に悪いね」
「蛋白質やカルシウムも摂らないとね」
 こうした栄養もというのです。
「やっぱりね」
「よくないよね」
「あまり極端な菜食主義でもね」
「身体に悪いんだよね」
「禅宗のお坊さんもね」
 先生は皆にスパゲティを食べつつお話しました。
「実は玄米のお粥とお漬けものだけでね」
「生きていないよね」
「実はそうだよね」
「それだけじゃとてもね」
「生きていられないよね」
「お野菜もしっかり食べているしね」
 玄米のお粥以外にもというのです。
「お豆腐、大豆だってね」
「食べてるね」
「それで今は他にもだよね」
「何かと食べてるね」
「お布施してもらったものを」
「そう、お布施してもらったものは何でも食べる」
 先生は皆に言いました。
「残さずね」
「それが禅宗のお坊さんで」
「他のもしっかり食べてるね」
「お肉やお魚も」
「そうよね」
「自分で食べる為に殺生をすることは駄目でも」
 それでもというのです。
「お布施だとね」
「残さず食べる」
「お肉も」
「そしてお魚も」
「そうするんだね」
「禅宗のお坊さんはね、だからカレーもね」
 先生も好きなこの食べものもというのです。
「頂くよ、ただ残したら駄目だから」
「お口に合わなくても」
「それで幾ら量が多くても」
「それでもなのね」
「全部食べないといけないんだ」
「そこが大変だよ」
 先生は皆に少し苦笑いでお話しました、そうしつつスパゲティを食べてサラダも食べますがいい食べっぷりです。
「禅宗のお坊さんは」
「難しいね」
「本当にね」
「そこはね」
「何かと」
「そう、だからね」
 それでというのです。
「僕には禅宗のお坊さんは無理かな」
「先生も残さず食べるけれど」
「それでもだね」
「そのことについては」
「無理だっていうんだね」
「うん、他の修行も厳しいからね」 
 このこともあってというのです。
「とてもね」
「そうだよね」
「先生は無欲だけれどね」
「あんな厳しい修業はね」
「合わないかもね」
「無理だね、僕は神学も学んでいて」
 そうしてというのです。
「それで博士号も持っているけれど」
「お坊さんにはなれないよね」
「牧師さんや修道士さんには」
「そうした人には」
「どうもね」
 先生ご自身が言いました。
「無理だと思うよ」
「合わないね」
「先生が思うには」
「やっぱり先生に合ってるのはね」
「今の生活だね」
「そう思うよ」 
 こう皆に答えました。
「本当にね」
「僕達と一緒にいてね」
「そうしてだね」
「仲良く暮らす」
「それが一番いいね」
「そうなんだ、だからね」 
 サラダのドレッシング、オニオンのそれが本当に美味しいと思いながら皆に対してこう言うのでした。
「僕としてはね」
「禅宗のお坊さんにも修道士にもならないで」
「それでだね」
「僕達とこうして暮らして」
「学問に励んでいくんだね」
「それで満足しているよ」
 もう充分にというのです。
「だからね」
「それでだね」
「これからもだね」
「僕達と一緒に暮らして」
「学問もしていくね」
「そうしていくよ、ただね」
 こうも言う先生でした。
「日本にあまりに馴染んでしまって」
「文化にも気候にも景色にも」
「そして食べものにも」
「人にもだね」
「その全てに馴染み過ぎて」
 それ故にというのです。
「もうね」
「他の国では暮らせない」
「そうなんだね」
「先生にとっては」
「そうなんだね」
「イギリスにもね」
 生まれ育ったお国でもというのです。
「もう暮らせないかもね」
「日本みたいに食べものが美味しくないし」
「それに日本みたいにお風呂も充実していなくて」
「それでだね」
「うん、だからね」
 それでというのです。
「もうね」
「先生にとってはだね」
「もう他の国で暮らせない」
「イギリスでも」
「そうなっているよ、このスパゲティも日本みたいに多くのお店にないし」
 イカ墨のスパゲティもというのです。
「それに紅茶だってね」
「日本の方が美味しいし」
「そう考えたらね」
「日本からだね」
「離れられないよ、ただね」
 先生はまたスパゲティを食べつつ言いました、見ればスパゲティもサラダもかなり減っています。皆もかなり食べています。
「イギリスへの愛情はね」
「なくならないよね」
「衰えないね」
「そうだね」
「生まれ育った国だから」
 それ故にというのです。
「本当ね」
「そうだよね」
「僕達だってそうだよ」
「イギリスのことは忘れないよ」
「愛情もね」
「そうだよね、日本から離れられなくなっても」
 それでもというのです。
「イギリスへの愛情は変わらないよ」
「そうでないとね」
「生まれ育った国だから」
「そうした愛情は自然に育つし」
「大事にしないとね」
 動物の皆も言います、そしてです。
 先生は皆と一緒にお昼を食べてから午後の講義を行って論文を書いてからお家に帰りました、そうしてでした。
 お家でまた祖国イギリスのお話をしていますと。
 トミーもです、こう言いました。
「そうですよね、もう僕達国籍は日本ですが」
「それでもだね」
「イギリスは生まれ育った国ですから」
「愛情はあるね」
「当然として」
「生まれ育った国を愛さない人ってそうはいないよね」
 ホワイティが言ってきました。
「そうだよね」
「そんな人滅多にいないよ」
「いても相当な変わり者だよね」
 オシツオサレツも二つの頭で言います。
「そうだよね」
「生まれ育った場所なのに」
「何か日本の知識人にはいるみたいだけれど」
 ポリネシアは首を捻って言いました。
「おかしな人達だからね」
「そんなおかしな人はいても」 
 それでもと言うジップでした。
「大抵の人はそうだね」
「言うなら親を愛するのと同じだね」
「そうよね」
 チープサイドの家族は祖国愛を親への愛情と同じとしました。
「相当おかしな人でないと自分の親を愛するよ」
「若しくはその親御さん達が相当おかしくないとね」
「だからその人か祖国が相当おかしくないと」
 老馬も言いました。
「普通は自分の国を愛するね」
「日本の知識人の中にはソ連や北朝鮮が心の祖国だった人がいたそうだけれど」
 それでもと言うトートーでした。
「本当におかしな人だしね」
「まあおかしな人もいるわ」
 ガブガブは一言で言い切りました。
「世の中にはね」
「そうした人は置いておいて」
 老馬はこう言いました。
「普通の人はね」
「自分の国を愛して」
 チーチーが続きました。
「そして親もだね」
「そう、両方愛するね」
 ダブダブはまさにと言いました。
「普通は」
「そうだよ、だから僕はイギリスが愛していて」
 日本にいてもとです、先生は言いました。
「そして両親もね」
「お亡くなりになったけど」
「そうだよね」
「愛情を持ってるね」
「今も」
「そうだよ、大事にしてもらって愛してもらったから」
 それでというのです。
「愛しているよ」
「イギリスもご両親も」
「そうだね」
「そうしているね」
「そして愛しているなら裏切らなくて」
 そうしてというのです。
「ずっとね」
「想ってね」
「慕うよね」
「そうだよね」
「そうだよ」
 動物の皆にも答えます。
「本物の愛情を持っているとね」
「それならだよ」
 ここで王子がお部屋に入ってきました、実は先生のお家にさっきからいましたがおトイレに行っていて今戻ってきたのです。
「ふわりは前の飼い主の人達を裏切らなかったね」
「そうだよ」
 その通りとです、先生も答えました。
「彼女はね」
「そうだよね」
「犬は人を裏切らないというけれど」
「それはその人を心から愛しているからだね」
「だからふわりもね」
 彼女もというのです。
「裏切らなかったよ」
「そうだったんだね」
「今の家族の人達もね」
「裏切らないね」
「何があってもね」
「愛情があったから、けれど」
 ここで王子は自分の座布団の上に座ってそうして深刻なお顔で言いました。
「前の飼い主の人達はね」
「実はふわりを全く愛していなかったからね」
「おもちゃでしかなかったから」
「おもちゃで遊んでいるだけでね」
「愛情なんてだね」
「実は全くなかったんだ」
 そうだったというのです。
「それでね」
「自分達の赤ちゃんが産まれたら」
「赤ちゃんで遊んでばかりになってね」
「赤ちゃんで、だね」
「そう、赤ちゃんとじゃないよ」
 そこは断る先生でした。
「決してね」
「赤ちゃんもおもちゃだね」
「彼等には会ったことがないけれど」
 そうした意味で知らないけれどというのです。
「よくわかるよ」
「そのことはだね」
「どういった人達かね」
 まさにというのです。
「よくわかるよ」
「愛情なんて全くない人達だね」
「国崎さんのご主人から聞くに二人共普通の家庭で育って」
 そうしてというのです。
「愛情もね」
「受けてきたんだ」
「そうだったみたいだよ、ただね」 
 それでもというのです。
「どうも元々の地がね」
「ああしたのだったんだ」
「もうそれがどうしても矯正されなくて」
「飽きっぽくて我儘で愛情を持たなくて」
「とんでもなく冷酷だったんだ」
「命を何とも思っていない」
「そんな人だったんだ」
 こう王子にお話しました。
「あの人達は」
「そうだったんだね」
「世の中障害とかじゃなくて心根、地があまりにも悪くてね」
 先生は悲しいお顔でお話しました。
「大抵の教育を受けても機会があってもね」
「変わらない」
「そんな人達もいるんだね」
「まともな親御さんでも」
「家庭も学校や仕事場でも」
「そうでも」
「そう、自分で努力をしなくて」
 その為にというのです。
「全くね」
「変わらないんだね」
「悪いままで成長しない」
「そんな人もいるんだね」
「どんな素晴らしい教えを聞いても」
 どんな宗教や哲学のそれをというのです。
「けれどね」
「それでもだね」
「更正も成長もしない」
「反省もしなくて」
「悪いままだね」
「そうした人達は稀だけれどいてね」 
 先生はその悲しいお顔のままお話していくのでした。
「ふわりみたいなとてもいい娘を家族に迎えても」
「そのよさに全く気付かなくてね」
「ただふわりで遊んでるだけ」
「それで他のおもちゃがあれば捨てる」
「そうするんだね」
「零点の人に百点の存在はわからないよ」
 先生は動物の皆にもお話しました。
「まさにね」
「その通りだね」
「どんないい環境でも心根が変わらない」
「そしてどんな教育を受けても機会を得ても」
「全く成長しない」
「悪いままの人がいるのよね」
「そうなんだ、そしてね」 
 それでというのです。
「ああしたことをするんだ」
「我儘で自分勝手で平気で約束を破る子供っているけれど」
「ふわりの前の飼い主はそうだね」
「その子供がそのまま大人になった」
「普通の家庭でもどんな教育を受けても性根が変わらなくて」
「本人が努力しないで」
「そうなったんだ、そしてこうした人達程」
 先生はさらにお話しました。
「羨んだりひがんだり妬んだりね」
「するよね」
「努力をしない人程ね」
「羨んでひがんで妬んで」
「あれこれ不平言うのよね」
「努力をしていたらその努力に必死になって」
 そうなってというのです。
「羨んだりとかね」
「そんなことする余裕なくなるよね」
「とてもね」
「そうはならないよね」
「本当に」
「うん、努力に力が注がれて」
 そうなってというのです。
「とてもね」
「誰かを羨んでひがんで妬んで」
「不平を言うとかね」
「そんなことはないね」
「そして欲もね」
 これもというのです。
「努力の先に向けられて」
「変に強欲にならないね」
「浅ましい欲持たないね」
「そうなるね」
「うん、現にふわりの今の飼い主の人達は努力をしてるよ」 
 あの人達はというのです。
「どうしたらふわりと一緒にずっと暮らせるかをね」
「犬ひいてはトイプードルのことを熱心に学んで」
「ふわりをいつも見てね」
「考えて行動して」
「そうしてるね」
「子育ての様に努力していて」
 それでというのです。
「家族として暮らそうとしているね」
「そうした努力をしているね」
「あの人達はまさに」
「だから誰も羨んだりとかしないし」
「欲もないね」
「欲はね」
 それはといいますと。
「ふわりと一生一緒にいたい」
「そうした欲だね」
「あの人達にあるのは」
「ふわりとずっと一緒にいて」
「そして一緒に幸せになりたいという欲だね」
「ふわりを最高に幸せにしてね」
 そしてというのです。
「そうした欲だよ」
「素晴らしい欲だね」
「そんな欲は実現されないとね」
「そうでないと駄目ね」
「欲にもいい欲と悪い欲があってね」
 先生はさらにお話しました。
「あの人達のよくはいい欲でその欲の中でも」
「特にだね」
「素晴らしいね」
「そうした欲だね」
「いい欲の中でも」
「そうだよ」
 こう皆にお話します。
「あの人達の欲はね」
「いい欲ならね」
「手に入れるべきだね」
「手に入れる為に努力する」
「それが大事だね」
「実はお金や名声や地位はね」
 こうしたものはといいますと。
「いい欲を手に入れようと思ったら」
「その途中でだね」
「手に入れるね」
「そうなっていくものだね」
「そうなることがとても多いから」
 それでというのです。
「これといって目指すものでもないかもね」
「そう言えばモーツァルトもベートーベンも」
 トミーはこの偉大な音楽科の人達を思い出しました。
「名曲を作曲していって」
「そうしてだったね」
「色々得ましたね」
「うん、まあモーツァルトはビリヤードが好きでね」
「お金を貰っても使って」
「それでなかったけれど」
 それでもというのです。
「収入はあったよ、ベートーベンもお金は暮らせるだけはね」
「十分にですね」
「あったしね」
 そうだったというのです。
「色々あったけれどね」
「それでもですね」
「地位もあったしね」
「音楽の責任者の」
「そうだったからね」
「後で、ですね」
「そうしたものはついてくるよ。ワーグナーだってね」
 この人もというのです。
「前半生は不遇だったと言われているけれど」
「リガの歌劇場の監督になったり」
「それなりの地位にあって収入もね」
 これもというのです。
「あったよ」
「そうでしたね」
「彼自身の人格や行動で色々逃げていたから」
「不遇でしたね」
「政治的主張は今は問題ないにしても」
 言論の自由が保障されているからです。
「けれどね」
「それでもですね」
「浪費家で借金が多かったから」
「そのことですね」
「問題だったんだ、けれど努力して」
 そしてというのです。
「ひたすら目的に向かって頑張れば」
「色々なものが後でついてきますね」
「そうなるから」
「嫉妬することもですね」
「ないよ」
「そうですね」
「だから本気で努力していると」
 その人はというのです。
「嫉妬したりとかはね」
「しないですね」
「それでも嫉妬するなら」
 そうした人はといいますと。
「かえって凄いよ」
「そうですか」
「そう、本当にね」
 それはというのです、そしてでした。
 先生は皆とさらにお話していきました、そこにあるものは確かな人生にある教訓でした。








▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る