『ドリトル先生のダイヤモンド婚式』




                第九幕  商店街の骨董品屋さんで

 先生は今はご自身が勤務している学園の傍にある商店街にいました、この商店街は沢山のお店が並んでいて繁盛しています。
 その商店街、アーケード街の中を歩きつつです、先生と今も一緒にいる生きものの皆はこんなことを言いました。
「八条町って商店街二つあるけれどね」
「ここともう一つね」
「どちらも賑やかだよね」
「最近日本の商店街は大変らしいけれど」
「八条町ではそうだね」
「どちらも観光地になっていてしかもいいお店ばかりで」 
 先生が皆に答えました。
「しかもご近所に人が多くて学校や企業の本社も沢山あるからだよ」
「ここは八条グループの本拠地だからね」
「世界的な企業グループの」
「だから八条グループの企業の本社も一杯あるし」
「八条学園もあるしね」
「だから人も多いから」
「それでね」 
 その為にというのです。
「商店街も繁盛しているんだ」
「駅前の商店街って最近大変だけれどね」
「列車に乗る人が減って」
「それでそうなってるけれど」
「八条町の商店街は違うね」
「あと八条鉄道の駅前もだよ」
 先生はアーケード街を歩きつつ皆にさらに答えました。
「そちらもだね」
「そうなんだよね」
「そっちも賑やかだよね」
「八条鉄道のどの駅前の商店街もね」
「八条鉄道側が商店街の人達とお話してそれぞれの駅前での対策を講じてきたからね」
 商店街がこのまま繁盛している様にです。
「自動車が多くて国道沿いが繁盛してね」
「それで駅前の商店街は寂れる」
「日本って二十一世紀になってからその傾向が顕著だけれど」
「それに対してどうするか」
「商店街としては深刻な問題だけれどね」
「いいお店が沢山あったり面白いことがあるなら」
 それならというのです。
「人は来るよ」
「そうだよね」
「商店街も魅力があれば来るよね」
「ただ駅前にあるだけじゃ駄目だね」
「それだけだとね」
「そして駅前に人がいつもいる様に」
 その様にというのです。
「駅の周りの住宅街やマンションも充実させたしね」
「だから八条住宅や八条建設も協力したんだったね」
「それぞれの企業の支社や社員の人達のお家も置いて」
「ご家族の人達も住める様にして」
「八条グループは外国の社員の人達も多いからその人達にも来てもらって」
「全体として賑やかになる様にしたね」
「あらゆる対策を考えてどれが一番いいか見極めてね」
 そうしてというのです。
「実行に移す、何もしないとね」
「寂れるだけだよね」
「商店街だって」
「どうにもならなくなるね」
「何も努力しないとね」
 先生歯このことは残念なお顔でお話しました。
「何もならないよ」
「商店街だと寂れるだけ」
「それだけだね」
「そう思うとね」
「何事も努力だね」
「八条鉄道も商店街の人達も頑張ったから」
 その為にというのです。
「今も賑やかなんだよ」
「シャッター街になってないね」
「駅前の商店街よくそうなってるけれど」
「地方都市の駅前なんか酷いね」
「もう寂れきって何もない」
「そうなっているけれどね」
「そうなっていることを思うと」
 それこそというのです。
「この商店街はいいよ」
「そうだよね」
「賑やかでね」
「努力の結果が出ているね」
「本当に」
「心から思うよ、鉄道もただ列車が走るだけじゃないんだ」 
 それに留まらないというのです。
「これからも栄える為にはね」
「努力が必要だね」
「これからも」
「そうしたら駅前も賑やかでいられて」
「乗る人もいるわね」
「そういうことだよ、しかしね」
 先生は商店街の中を歩いて左右のお店を目で見て回ってもいます、そうしながらこうも言いました。
「この商店街は本当にいいお店が並んでいるね」
「そうだよね」
「お陰で行く場所に困らない位だよ」
「何かとね」
「そうだよね」
「美味しいお店も多いし品揃えも充実していて」
 そうしてというのです。
「いいよね」
「そうだよね」
「どのお店もそうだね」
「色々な種類のお店があるだけじゃなくて」
「どのお店もいいお店だよね」
「バラエティーにも富んでるしね。本屋さんもね」
 見れば商店街の中には本屋さんもあります、見れば昔ながらの商店街にある感じの昭和を感じさせる外観です。
「あるしね」
「あるね、実際に」
「ああしたお店に入って本を買うのもいいわね」
「風情もあるし」
「先生もあのお店よく入るしね」
「そして本を買ってるわね」
「何かとね。漫画も買うしね」 
 先生は色々な本を読んでいてそちらもよく読んでいるのです。
「ライトノベルもね」
「そうだよね」
「先生色々な本読むからね」
「漫画もライトノベルも読むね」
「どれもね」
「純文学も哲学書も読むけれどね、そうした本もね」
 漫画やライトノベルもというのです。
「読むよ」
「先生前言ってたね」
 トートーが言ってきました。
「漫画ヤライトノベルは下手な哲学書を越えてるって」
「変な哲学書より漫画読む方がいいってね」
 ホワイティも言います。
「先生言ってるね」
「哲学書が凄いんじゃないってね」
 ジップも先生に言います。
「罹れてる内容次第だって」
「哲学書でも駄目な本は多い」 
 チーチーはこう言いました。
「先生言ってるよね」
「それもいいと言われてる思想家の本でも何を書いているかわからなかったりする」
 ポリネシアは今は哲学的なお顔になっています。
「そんな本は駄目だって」
「読んですぐにわかるのがいいってね」
「先生言ってるわね」
 チープサイドの家族は先生のこのお言葉を思い出しています。
「聖書も論語も仏典もわかりやすいって」
「言いたいことをはっきり書いているって」
「コーランや天理教の経典もそうで」
「理解しやすいんだよね」 
 オシツオサレツはチープサイドの家族に続きました。
「それこそが真理だってね」
「先生いつも言ってるね」
「真理はわかりやすい」
 老馬も言いました。
「そうだって」
「何を書いているか言っているかわからない思想書は駄目だとも言うわね」
 ガブガブも先生のお言葉を言います。
「そうしたものは実は中身がないって」
「難しいイコール凄いんじゃなくて哲学書イコール偉大でもないね」 
 ダブダブの言葉は明快なものでした。
「そうなんだね」
「そうだよ、問題は内容だよ」 
 先生も言います。
「漫画、ライトノベル、純文学、哲学書のジャンルじゃないんだ」
「内容なんだね」
「それ次第でね」
「それでどうかで」
「哲学書が凄いんじゃなくて」
 そうでなくてというのです。
「内容だよ、だから漫画やライトノベルもね」
「先生は読むんだね」
「そして理解しているんだね」
「そうだね」
「しっかりと」
「そうだよ、だからね」 
 それでというのです。
「これからも読むよ、それも学問だよ」
「漫画やライトノベルを読むことも」
「だから読んでいくね」
「そうしていくね」
「そうだね」
「哲学者でも酷い人は酷いよ、思想家もね」
 先生はこのことは残念そうに言いました。
「特に戦後の日本ではね」
「そうなんだね」
「酷い本が多いんだね」
「何かと」
「そうなのね」
「そうだよ、酷い人が多くて」
 そしてというのです。
「酷い本もね」
「多いのね」
「酷い人が書くと酷い本になる」
「本つまり文章はその人そのものだからね」
「酷い人が書くとそうなるわね」
「どうしても」
「そうだよ、戦後の日本は何を書いているかわからない本が何故か持て囃されて」 
 そうなってというのです。
「それを書いた人が戦後最大の思想家になったんだ」
「吉本隆明だったね」
「あのテロをして沢山の人を殺したカルト教団の教祖を絶賛した人」
「最も浄土に近いとか言ってね」
「そんな人が戦後最大の思想家だったんだね」
「何を書いてるかわからない文章を書いて」
「そんな文章はね」 
 それこそというのです。
「錯覚なんだ」
「あれだよね、難しいけれど読んで理解出来てね」
「それで凄いってね」
「読んだ人に錯覚させるんだね」
「それでこんな文章書いた人凄いって」
「尚更錯覚させるのよね」
「けれど違うんだ、吉本隆明の本質は凄くなったんだ」
 先生は全く、と言い切りました。
「絶望的な時代の中でよくも悪くもとんでもないカリスマと政治力と指導力を見せたヒトラーに惹かれたハイデッガーとはね」
「あの教壇の教祖って胡散臭いだけだよね」
「ヒトラーみたいな能力はとてもない」
「そんな人だったね」
「言ってることはあらゆる宗教の自分に都合のいい部分の切り取りだったよ」
 その教祖の主張はというのです。
「そしてそんな人が物欲塗れで私利私欲だけで平気で大勢の人を殺す」
「そんな人がどうして偉大か」
「最も浄土に近いか」
「そんな筈ないわよね」
「どう考えても」
「そんなことは子供でもわかるよ」
 それこそという言葉でした。
「もうね、けれどね」
「吉本隆明にはわからなかった」
「そんなことも」
「それじゃあね」
「どうしようもないね」
「しかも学生運動で研究室を荒らされた教授さんがこれまで必死に集めて読んだりして大事に保管していた沢山の本がぼろぼろにされたのを見て悲しんでいて自分は図書館で仕事の合間に並んで本を借りているんだ、そんなの何だとも言ったことがあるよ」
 先生は吉本隆明のこのお話も皆に紹介しました。
「図書館で借りるだけの本と必死に集めて愛読して大事に保管していた本の違いもわからなかったんだよ」
「色々酷いね」
「そうした本が荒らされたらどんなに悲しいか」
「自分の子供みたいなものよね」
「そんなこともわからないなんて」
「人として思想家としてどうなのかしら」
「そうした人が言うことなんてね」
 先生は難しいお顔で前を見て言いました。
「もうね」
「たかが知れてるね」
「もう一切聞く価値がない」
「そんなものだね」
「人の痛みもわからない」
「そして本物と偽物がわからないんじゃね」
「だから僕は吉本隆明の本は一切読まないよ」
 一言で言い切りました。
「読む価値が一切ない、学ぶに値しない」
「そんなものだから」
「それで先生も読まないのね」
「そして学ばない」
「相手にしていないんだ」
「あんな人の本を読むより手塚治虫や藤子不二雄の本を読むといいよ」 
 その方がずっと、というのです。
「わかりやすいししかも内容が素晴らしい」
「わかりにくくて中身のない吉本隆明と違って」
「どんどん読むべきだね」
「そうなのね」
「そうだよ、終戦直後は哲学書が偉大で小説は低俗とされたらしいけれど」
 それでもというのです。
「それは違うよ」
「ジャンルに関係ない」
「書かれている内容次第だね」
「それがどうかで」
「哲学書イコール凄いじゃないね」
「そうなんだ、本当に吉本隆明なんかが戦後最大の思想家だなんてね」 
 先生はこのことに深い憂いを感じて言いました。
「戦後日本の治世そして知識人がどれだけ酷いか」
「そうも言っていいね」
「そう考えると深刻だね」
「それもかなりね」
「全く以てね」
 本屋さんを見てからこうしたお話をしました、そうしてです。
 先生はお鼻にカレーの匂いが入ったことを感じました、すると左側に洋食屋さんがありました。ですが。
 先生は皆に笑ってです、こう言いました。
「お昼を食べたからね」
「そうよね」
「ちょっとカレーを食べるのはね」
「残念だけれどね」
「出来ないね」
「お腹一杯食べて食欲もないしね」
 だからだというのです。
「今回は入らないよ」
「そうだね」
「あそこのカレーも美味しいけれど」
「それでもね」
「入らないね」
「そうだよ、また今度だよ」
 次の機会だというのです。
「その時に入ってね」
「食べようね」
「そうしようね」
「それじゃあね」
「今はね」
「匂いだけを楽しもう」
 カレーのそれをというのです。
「そうしよう」
「そうしようね」
「じゃあ行きましょう」
「そうしよう」
「先に進みましょう」
「そうしようね」
 こうお話してでした。
 先生は皆と一緒に洋食屋さんの前を通って先に進んでいきました、そしてその先にあるお店がありました。
 先生から見て右手に骨董品屋さんがありました、その店頭ショーウィンドウのケースの中にでした。
 見事な置時計がありました、先生はその置時計を見て言いました。
「これはまた」
「あっ、これよくない?」
「この置時計は」
「ご夫婦のプレゼントにするにはね」
「いいんじゃない?」
「しかもお値段もね」
「うん、これはいいね」
 先生はその時計を見て皆に応えました。
「本当にね」
「このお店の前で出会うなんてね」
「こんな見事な置時計に」
「これまでも探していたけれど」
「ここで会うなんてね」
「これは運命かも知れないわ」
「そうだね、運命だね」 
 先生は皆のその言葉に頷きました。
「これは」
「そうだよね」
「それじゃあ買う?」
「この置時計を」
「それでご夫婦のプレゼントにする?」
「そうする?」
「そうしよう、じゃあお店の中に入ろう」
 こう言ってでした。
 先生は皆と一緒にお店の中に入りました、そうするとです。
 色々な古いものが並んでいる黒を基調としたシックな雰囲気のお店の奥のカウンターの席に座っている丸眼鏡をかけた髪の毛のないお年寄りに声をかけました。
「こんにちは」
「ドリトル先生じゃないですか」
「暫くです」
「今日は何のご用件ですか?」
「店頭の置時計のことですが」
「ああ、あれですね」
「あの置時計を買いたいのですが」
 先生はお年寄りこのお店の店長さんである鈴木さんに言いました。
「いいでしょうか」
「はい、どうぞ」
 店長さんは先生に微笑んで答えました。
「実はずっとお店の倉庫にありまして」
「そうだったんですか」
「いい加減売りに出そうと思いまして」
 それでというのです。
「出しました」
「そうだったんですね」
「実は平成の頃に腕のいい職人が造ったもので」
「平成ですか」
「平成元年に」
 その時にというのです。
「造られたものでして」
「それで、ですか」
「多くの人に使われていって」
「このお店に来たんですか」
「それが五年前で」
 それでというのです。
「五年の間倉庫に置いていまして」
「先程お話した通りですね」
「ですが倉庫も一杯で」
「だからですか」
「売りに出しました」
「そうしたものですか」
「しっかり手入れされていますので」
 店長さんは先生に笑顔でお話しました。
「電池を入れたらちゃんと動きますよ」
「そうですか」
「しかもタイマーを設定しましたら」 
 そうしたらというのです。
「その時間になりますと」
「鳴るんですね」
「はい」
 そうだというのです。
「しっかりと」
「そうなんですね、ではです」
「置時計買われますか」
「そうさせてもらいます」 
 先生は一も二もなく答えました、こうしてです。
 置時計を買いました、そうしてお家に帰ってです。
 晩ご飯の時にトミーそしてお呼ばれした王子とお静さんににそのことをお話しました、すると王子がここで言いました。
「意外なところで決まったね」
「うん、探していたけれどね」 
 先生も応えます。
「商店街を歩いていたらね」
「それで見付けたよ」
「そうなったね」
「正直まだ探すと思っていたよ」
「結構時間かかるともだね」
「覚悟していたけれど」
 それがというのです。
「まさかね」
「今日見付かるなんてね」
「予想していなかったよ」
 こう言うのでした。
「僕もね、ただね」
「これで買えたね」
「中華街で買った扇子と」
 それにというのです。
「そのね」
「置時計をだね」
「ご夫婦のプレゼントにするよ」
「そうするね」
「もうそれが決まったよ」
 完全にというのです。
「よかったよ」
「何よりだね」
「いや、探しものは身近にあるものね」 
 お静さんも言いました。
「案外ね」
「そうだね、青い鳥と同じだね」
「幸せはすぐ傍にあってね」
「そして探しものもね」 
 こちらもというのです。
「身近にあるよ、それでね」
「それで?」
「運命の出会いというものはね」
 先生が笑顔でこうも言いました。
「偶然ではなくてね」
「必然ね」
「神様がそうさせてくれるんだよ」
「人には偶然に思えても」
「それが実はね」
「神様の配剤ね」
「思わぬ人と思わぬ場で出会って」 
 先生はさらに言いました。
「そこから人生が変わったりなんてあるね」
「そうよね」
「それもまたね」
「神様の配剤ね」
「ただしそれにあたっては悪い人と出会うこともあるから」
「そうした人はよね」
「避けることだよ」 
 例え出会ってもというのです。
「まあ初対面の人をいきなり信じたりついていくことはしない」
「そういうことね」
「よく見極めることだよ、いい人だったら自然によくなるから」 
 その運命がというのです。
「だからね」
「それでよね」
「人を見極めることも大事だよ、けれどね」
「運命はよね」
「必然だよ、だから僕はね」
 実際にというのです。
「今日この置時計に出会えたんだ」
「そういうことね」
「うん、だから今僕は神様に感謝しているよ」
 心から、そうした言葉でした。
「本当にね」
「そうしているのね」
「そうだよ、よかったよ」
 先生はこうも言いました。
「明日学園に行く時に教会に行くよ」
「プロテスタントの教会ね」
「あちらには国教会の人もおられるから」
 イギリス国教会です、先生はイギリスの多くの人が入信しているこの宗派の信者さんなのです。それでというのです。
「その人にお願いして」
「そうしてよね」
「神様に感謝するよ」
「そうするわね」
「うん、ただどうもね」
 ここで先生は笑ってこうも言いました。
「神仏と言うけれど」
「仏様にもなの?」
「そして日本の神々にもね」
「感謝したいのね」
「そうも思っているよ、日本に入ってね」
 そうしてというのです。
「日本で暮らす様になって」
「国籍も日本になったわね」
「そうなってね」 
 それでというのです。
「あちこちの神社仏閣を巡っていたら」
「キリスト教以外にもなのね」
「他の宗教の神仏の存在も感じる様になったよ」
「そうなったのね」
「先生神社やお寺でも手を合わせますよね」
 トミーも言ってきました。
「そうですよね」
「うん、自然とね」
 先生はトミーにも答えました。
「そうなったよ」
「日本で暮らす様になって」
「もう自然とね」
「来日してすぐに」
「そうなったよ、それでね」 
 そのうえでというのです。
「お賽銭も出してね」
「それで、ですよね」
「絵馬にお願いをして破魔矢やお守りも買ってるよ」
「そうですね」
「そう思うと変わったよ」
 先生の今のお言葉はしみじみとしたものでした。
「僕もね」
「先生のいい部分が思いきり延びたね」
 王子が言ってきました。
「そうなったね」
「そうした意味で変わったんだ」
「そうだと思うよ」
「そうなんだね」
「それで今ではだね」
「日本の神仏にもだよ」
 是非にと言うのでした。
「感謝したいよ」
「そうした考えだね」
「今はね」
「じゃあ明日は学園の神社やお寺でも感謝するのかな」
「そこまでするかどうかはわからないけれど」
 それでもと言うのでした。
「けれどね」
「それでもだね」
「感謝はしたいね」
「そうなんだね」
「勿論天理教の神様にもね」
 この宗教の神様にもというのです。
「そうしたいよ」
「じゃあ僕もね」
「王子もなんだ」
「僕も日本に来てそうした考えになったから」
 だからだというのです。
「このことについて」
「日本の神仏にもだね」
「感謝したいよ、僕もプレゼントは用意出来たし」
「王子もだね」
「感謝したいよ」
 こう言うのでした。
「本当にね」
「感謝の気持ちは忘れない」
 先生はにこりと笑って言いました。
「このことはね」
「大事なことだね」
「そうだよ、とてもね」
「有り難うと思うことだね」
「そうだよ、何かしてもらったら感謝して」
 そうしてというのです。
「いいことがあったらね」
「喜ぶことだね」
「そのことがね」 
 まさにというのです。
「幸せの原点だよ」
「先生はいつも感謝して有り難うって思えるからね」
「幸せなのよね」
 チープサイドの家族もお話します。
「何についてもね」
「それが出来るからね」
「それで不満も感じないからね」
 チーチーも言います。
「幸せなんだよね」
「それがお顔にも出てるよ」
 ポリネシアは先生のお顔を見ています。
「いつもにこにことしているから」
「穏やかで優しい笑顔だよ」
 ジップは先生の笑顔をこう言いました。
「とてもね」
「笑顔と言っても色々あるけれどね」
 こう言ったのはホワイティでした。
「悪いものが出ている笑顔ね」
「尊大な人の笑顔って物凄く偉そうだよね、上から見下ろして」
 老馬はそうした人をここで思い出しました。
「もう馬鹿にしきった」
「勿論先生の笑顔は違うわよ」 
 ガブガブは断言しました。
「とても謙虚よ、それも感謝と幸せを感じているからよね」
「感謝と幸せを感じていると謙虚になって」
 そうしてとです、トートーは言いました。
「先生みたいな笑顔になるんだね」
「先生の人生と人柄が出てだね」
 ダブダブは言いました。
「いつもその笑顔なんだね」
「そうかな、僕は家事もスポーツも全く出来ないから」
 先生は自分ではこう言います。
「偉くもないしね、皆に助けてもらってばかりでね」
「そう思うのがいいんだよ」
「まさに先生ならではよ」
「謙虚になってるんだよ」
「世の中先生より遥かに何も出来ないでお世話になってるのに尊大な人いるよ」
「勝手に自分が一番偉いと思ってね」
「感謝もしないで不満ばかり言って」
 そうしてというのです。
「偉そうに振舞っていつも人を上から見下ろして」
「それで馬鹿にしきった笑顔でね」
「それなのに何も出来ない」
「そんな人もいるじゃない」
「先生はそんな人と全く違うから」
「だからいいのよ」
 皆で先生に言います。
「本当にね」
「そんな先生だからね」
「謙虚なことも美徳だよ」
「今だって素直に神様に感謝してるし」
「そこもいいんだよ」
「神様の存在はいつも意識しているよ」
 先生としてはです。
「人や生きものよりずっと偉大な存在だってね」
「それも先生よね、実はね」
 ここでお静さんはある人のことをお話しました。
「神様も仏様も信じないで自分の力のみを頼って生きている」
「無神論だね」
「こう言ってる人知ってるけれど」
「そうした人もいるね、世の中は」
 先生も否定しません。
「そうした考えもあるよ」
「けれどこの人日本の皇室は反対で」 
 お静さんはその人のことをさらにお話しました。
「北朝鮮の世襲の共産主義は国民が認めているからいいって言ってるのよ」
「あの国に国民の支持なんてないよ」 
 先生はきっぱりと言い切りました。
「究極と言っていい独裁と弾圧の国だからね」
「一目瞭然よね」
「ある筈がないよ」
 先生はまた言い切りました。
「そんなものはね」
「尚皇室はどうも自分が反対しているからね」
「なくせって言っているんだ」
「そんな人よ」
「そうなんだね、ちなみに共産主義に世襲は有り得ないよ」
「そうよね」
「何もかもがわかっていないね、そんな人だとね」
 先生は首を傾げさせつつ言いました。
「自分の力だけで生きていこうとしたら」
「大変なことになるわね」
「絶対に道を間違えるよ」
「頭が悪過ぎるわね」 
 お静さんも言いました。
「あまりにも」
「お静さんの言葉はきついけれど」
 それでもというのです。
「僕もちょっとね、その人は勉強した方がいいよ」
「北朝鮮のことを?」
「あらゆることをね、絶対にまともな人生を歩めないから」
「私もそう思うわ」
「運動家になるしかないから」
 そうした人はです。
「沖縄の基地の前にいるか組合でおかしなことしてるか」
「そんな風ね」
「平日のお昼から毎日デモしたりね」
「そんな人生しかないわね」
「学校でおかしなことばかり言う先生かね」
「どれも碌なものじゃないわね」
「そうした人にしかならないよ」 
 こう言うのでした。
「もうね」
「まあそんなところよね」
「というかね」
 先生は首を傾げさせ続けつつ言いました。
「日本にはそうした考えの人もいるね」
「そうなのよね、これが」
「北朝鮮はとんでもない国だってね」
「一目瞭然よね」
「けれど何故かその国が好きで」
 それでというのです。
「その国の独裁者もね」
「将軍様ね」
「好きな人がいるんだよ」
「それがわからないんだけれど」
 お静さんも首を傾げさせました。
「私も長生きして色々見てきたわよ」
「その中で言えるね」
「共産主義自体がどうかだけれど」
 お静さんとしてはです。
「けれど北朝鮮はね」
「共産主義じゃないね」
「それでお殿様としてもよ」
「暴政の極みだね」
「姫路のお姫様は平安時代から見てもね」
 その頃からというのです。
「あんな酷い状況はないって言っていたわ」
「国民は皆餓えていて将軍様だけ丸々としてね」
「それも世襲だからね」
 共産主義と言っていてです。
「酷いわ、日本の皇室の方が余程ね」
「いいね」
「断言出来るわ、それ聞いてこの人は絶対に道を踏み外すってね」
「思ったね」
「確信したわ」
 ただ思うだけでなくというのです。
「本当にね」
「それでその人はどうなったのかな」
「今大学の職員さんらしいけれど」
「運動家でもあるね」
「碌なことしてないわよ」 
 そうなっているというのです。
「そうしたことをしてるわ」
「やっぱりそうだね」
「自分の力だけで生きていくにしても」
「まともでないとね」
「道を踏み外すわ」
「そうなるね」
「ええ、そのことがわかったわ」
 実にというのでした。
「その人を見てもね」
「それなら神様を見ていつも自分を見つめ直した方がずっといいね」
 王子のそのお話を聞いて思いました。
「本当にね」
「そうだよね」
「自分の力だけが頼りとするとね」
「自分だけでね」
「勘違いもして」
「自分が偉いととなってね」
「一番ね、そしてね」
 そうしてというのです。
「そうした間違いにも気付かないよ」
「自分が一番偉いとなると自分が一番正しい」
「そうもなってね」
「間違いにも気付かなくて」
 そうなってというのです。
「その人みたいになるね」
「そうだよね」
「そうなるから」
 だからだというのです。
「無神論でもそうした間違いを犯す位なら」
「信仰心を持った方がいいね」
「信仰を持っていても間違える人もいるけれど」 
「十字軍や異端審問だね」
「けれど無神論でもね」
 こちらの考えでもというのです。
「間違えるからね」
「自分を一番偉いとか思わないでね」
「謙虚さを忘れない」
「感謝もね」
 この気持ちもというのです。
「忘れないことだよ」
「それが大事だね」
「そう思うよ、その人みたいになったら」
「よくないね」
「その人は多分ずっとね」
「間違えて生きていくね」
「周りから馬鹿にされてね」
 そうなってというのです。
「生きていくよ」
「いい人生じゃないね」
「その人にとってもね、間違えていて多くの人に否定されてね」
「馬鹿にされて」
「そしてね」
 そのうえでというのです。
「生きていくんだよ」
「間違いにも気付いていなくて」
「これはどう見てもだよね」
「いい人生じゃないね」
 王子も思うことでした。
「本当に」
「だからね」
「人間は謙虚さを忘れない」
「それも大事だね」
「そうだね、しかしその人はね」
 王子はお静さんが話してくれたその人についてさらに思いました。
「自分の力だけを頼りにって言っても実力がね」
「伴っていないっていうんだね」
「どう見てもね、お静さんが言う通りに頭が悪過ぎるよ」
 こう思うのでした。
「日本の皇室と北朝鮮の世襲がわからないとかね」
「前者が駄目で後者はいいと思うとだね」
「幾ら何でもね」
 それこそというのです。
「頭が悪過ぎるよ」
「そう言うんだね」
「それじゃあ道を踏み外すのも当然だよ」
「ヤクザ屋さんにならなくてもね」 
 アウトローにはならなくてもというのです。
「それも充分過ぎる程だね」
「道を踏み外しているよ」 
「運動家になったらね」
「日本の運動家は酷いからね」
「学生運動のあれだよね」
「リベラリズムじゃないんだ」
 先生はここでこの言葉を出しました。
「これがね」
「過激派だよね」
「うん、自分以外を認めないね」
「そんな人達だね」
「だから問題なんだ」
 日本の運動家と言われる人達はというのです。
「沖縄の基地の前でも酷いね」
「暴れてるね」
「だからヤクザ屋さんと同じだけだよ」
「先生も酷いって言うんだね」
「オリンピック反対でもそうだったね」
「日本のね」
「もう自分達の意見ばかりでね」 
 それでというのです。
「出場する選手の人達のことは考えていなかったね」
「感染症を口実に日本での開催を潰そうとしているのは明らかだったね」
「そう、ああした風だとね」
「自分達以外から嫌われるね」
「僕は開催されてよかったと思ってるよ」
 先生としてはです。
「本当にね」
「いい大会だったね」
「そうだったしね」
「選手の人達も頑張ったし」
「彼等は自分しかないんだ」
「自分達の意見しかないね」
「それでそれ以外は認めなくてね」 
 そうしてというのです。
「その為には暴力も辞さないんだ」
「だから道を踏み外しているね」
「沖縄の基地の前の人達とか平日にデモをしている人達はずっとそうしていてね」
 それでというのです。
「その生活も気になるしね」
「お仕事は何かって」
「そのことも気になるし」
「本当に道を踏み外してるね」
「ああなったらね」
「そうよね」
「僕も気を付けているよ」
 先生はこうも言いました。
「そんな人にならない様にね」
「反面教師ね」
「無神論者が皆そうではないけれど」
「そうした人を知ってるからよね」
「実は今お静さんが話したみたいな人もね」
「知ってるわね」
「だから今も言うんだ」 
 そうしているというのです。
「絶対にああはなるまい」
「そう思うわよね」
「うん、そうした人達を見ていると」
「尚更よね」
「ここまで道を踏み外したらね」
「終わりだって思うのね」
「心からね」
 まさにというのです。
「思うからだよ」
「それでよね」
「気を付けているしこれからもね」
「気を付けているわね」
「そうしていくわ」
 こう言ってでした、そうしてです。
 先生は皆と晩ご飯を食べました、そうしながらさらにお話するのでした。








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