『ローエングリン』




                          第三幕  騎士の名

 寺院の礼拝堂に彼等は集まっていた。そこには騎士と白い礼服に身を包み絹の薄いヴェールを被ったエルザがいる。婚礼であった。
 王も貴族達もそこに集まっている。右手から貴族に案内された騎士と左手から貴婦人達に導かれたエルザが舞台にやって来ていたのだ。彼等を先導した小姓達の手にはキャンドルがある。
「真心込めて導かれ」
「勝利の勇気と愛こそは」
 導く彼等が歌う。
「真の幸の契りなれ」
「徳高き姫よ、いざ前へ」
「うら若き姫、いざ前へ」
 二人が前に出ていた。
「香りも高き愛の殿に」
「灯火に導かれて入る」
「愛の幸を受けられよ」
「勝利の勇気と愛こそは」
「真の愛の契りなり」
 こう歌われ二人は礼拝堂の神の前に来た。そして十字架の主の前に出る。そこには聖なる杯もあった。騎士はそれを思い深げに見ていた。
 二人がそこに辿り着くと八人の乙女達が二人の周りを巡り。厳かに歌うのだった。
「神が祝福される貴方達を」
「私達も喜びで迎えましょう」
 清らかな声での歌であった。
「愛の幸に護られて」
「今日この時を忘れないように」
「真心込めて導かれ」
「勝利の勇気と愛こそは」
 二人を祝福する歌がまた歌われる。それが終わり二人は婚礼の式を終えて寝室に入った。中央に白い大きなベッドのある簡素な寝室だった。カーテンの白さが柔らかで窓からは夜の帳が見える。二人は今ここに入った。彼等はまだ礼服に身を包んでいる。
「我が妻よ」
「はい」
 最初に声をかけたのは騎士であった。エルザがそれに応える。
「今我々ははじめて二人になった」
「はい」
 騎士の言葉にまた応えるのだった。
「世間から離れ。心と心の交わす言葉は誰も聞きはしない」
「誰もですね」
「そう、誰もだ」
 騎士は穏やかな声でエルザに告げた。
「誰も聞きはしない。今ここにいるのは私達二人だけだから」
「私達だけ」
「だから言おう」
 騎士はまた言った。
「エルザ」
「はい」
「我が愛する妻よ。貴女は幸福なのだろうか」
「幸福という言葉では」
 エルザはこう騎士に対して言葉を返した。
「私の胸は燃え上がるものを抑えられません」
「それ程までなのですね」
「そうなのです」
 こくりと頷いて彼に述べた。
「今は。厳かに」
「貴女が自ら幸せだと言われるのなら」
 騎士も彼女の言葉を受けて言葉に笑みを入れる。
「私もまた」
「貴方もなのですね」
「そうだ」
 またエルザに対して述べた。
「私もまた」
「貴方もまた」
「神々しい気持ちになる」
 これが彼の今の心であった。
「貴女と共に」
「私と共にですか」
「私が貴女の騎士に選ばれた時」
 その不思議な時の話である。
「愛が貴女への道を開いてくれたのだ」
「そしてこのブラバントに」
「そう」
 静かな声での返事だった。
「そしてその汚れのない澄み切った瞳に誘われ私は」
「貴方は」
「ここに来たのだ。貴女の御前に」
「清らかな方・・・・・・」
「清らかな姫よ」
 二人はそれぞれの清らかな目線を交えさせていた。
「どうか今ここで」
「そう、今ここで」
 言葉も交えさせる。
「永遠の幸福を」
「私は」
 今度はエルザが言った。
「夢の中で貴方をお見かけし」
「あの時だな」
「そうです。あの時です」
 こう言うのである。
「そして今現に貴方が神に導かれてここにおられ」
「全ては神の御心故に」
 騎士もまた言う。
「私達は巡り合えたのだよ」
「ですが私は御名前を」
「エルザ」
 声が嗜めるものになった。
「それ以上は」
「わかってはいます」
 俯きつつの言葉になった。
「ですが。せめてこうして二人だけの時は」
「今そなたは私と共にいるな」
「はい」
「ではそれで充分ではないか。この甘い香りの中で」
 窓から入って来ている香りだった。これは窓の側にある花園からのものである。
「幸福の中にいる。私はそなたをその中で見ている」
「私を」
「私はそなたの心を知れればそれだけでいいのだ」
 これは彼の本心であるらしい、エルザにはそれはわかった。
「その純潔と清らかな心を知っている。だからこそ」
「それではその秘密は」
 どうしても抑えられなく騎士に対してまた言った。
「知られてはならないものなのでしょうか。私だけが知ってもそれだけで」
「それは」
「私は誰にも言うつもりはありません」
 これはその通りだった。彼女もまた騎士を誰よりも愛するようになっていたから。
「ですから。それは」
「そなたは私から信頼を受けている」
 じっとエルザの目を見て語る。
「私はそなたを誰よりも愛して護る」
「それは承知しています」
「ではそれでいいではないか」
 これが騎士の言葉であった。
「そなたは私のかけがいのない妻。清らかな妻」
 また言う。
「それだけで。その輝かしい青い澄んだ目を見せてくれるだけで」
「宜しいのですか」
「私にはそれだけで充分なのだ」
 騎士はまだエルザのその青い目を見詰めていた。
「王冠よりも名誉よりもその心が。清らかな吐息が」
「私の吐息も」
「私は輝きと喜びの為にここに来たのだから」
「けれど私は」
「苦しんではならない」
 エルザにこれ以上疑念を抱くことを止めさせた。
「思ってはならないのだ。このことは」
「では」
「私はそなたを誰よりも愛しているのだから」
「それは私もです。ですが」
 彼女は騎士本人に対しても思うのだった。
「貴方はとても不思議な方。貴方には奇蹟ばかりが起こっている」
「それは」
「貴方がこの上なく高貴な方なのはわかります」
 言わずともだった。その剣の腕だけではなく気高い、神々しいまでの美しさと気品。それは最早この世のものではなかったからである。
「そしてあの白鳥は」
「あれは」
「あれもまた奇蹟なのですね。貴方の」
「それはその通りだ」
 このことは騎士も何とか認めることができた。
「それはやがてわかる」
「でも貴方のことは」
 エルザはもう自分を止めることができなくなってしまっていた。
「貴方の出自は。貴方の御名前は」
「それを問うというのか?」
「はい」
 頷く、遂に言ってしまったのだった。この言葉を聞いたその時だった。騎士の顔を絶望が支配しそれが永遠に留まってしまったかのようだった。
「遂に。言ってしまったか」
「遂に!?」
「我々の幸せは終わった」
 騎士は絶望そのものの声を出した。
「最早。これで」
「あなた。それは」
「むっ!?」
 そしてこの時だった。不意に部屋の戸口が開き黒い男達がやって来たのだった。
「まだ起きていたのか」
「伯爵・・・・・・」
「ならばよい。どのみち起きて勝負をしてもらうつもりだった」
 テルラムントはもう剣を抜いていた。陰惨な顔で騎士を見据え言うのである。
「貴様を倒し。何者かを暴きわしは名誉を」
「くっ、無駄なことを」
「これをっ」
 エルザが素早く動き騎士に彼自身の剣を差し出す。
「お使い下さい」
「わかった」
「行くぞっ!」
「来い、誰も私に勝てはしない」
 騎士は剣を抜きテルラムントと対峙する。二人はすぐに斬り合いに入った。
 だが勝負は一瞬で決した。テルラムントは胸を貫かれ倒れた。やはり彼とても騎士の敵ではなかったのだった。
「馬鹿な、このわしが二度までも」
「私は。神の御加護を受ける騎士」
 騎士は今は沈痛な声になっていた。
「誰も勝てはしない」
「おのれ・・・・・・」
 テルラムントは最後に呪詛の言葉を漏らして事切れた。彼の仲間のあの四人の貴族達もいたがテルラムントのあまりものあっけない死に呆然としていた。騎士はその四人に対して命じた。
「この男の亡骸を国王の法廷へ」
「はっ、はい」
「わかりました」
 貴族達は雷に打たれたかのように応えテルラムントの骸を抱え姿を消した。騎士は表情がないままそれを見届けた後で部屋の鈴を鳴らした。するとすぐに二人の貴婦人が部屋にやって来た。エルザはその彼から顔を背けて項垂れてしまっていた。先程の騎士の幸福が失われたという言葉を聞いて以来そうなってしまっているのだった。
「明日ですが」
 騎士はその二人の貴婦人に対して告げていた。
「皆様にお伝えしたいことがあります」
「明日ですね」
「はい、明日です」
 こう告げて貴婦人達を見送り彼も何処かへと姿を消す。エルザは一人部屋で項垂れたままだった。顔は蒼ざめてしまいそのまま夜を過ごすのだった。
 翌朝。王はあの川辺にまたドイツの騎士や貴族達を集めていた。彼自身は騎士が来た時と同じく老木を背に玉座に座っている。そこで貴族や騎士達の彼を讃える声を聞いていた。
「ハインリヒ王万歳!」
「ドイツ王国万歳!
 ドイツを讃える声もする。それを満足した顔で聞きつつ言うのだった。
「ドイツにはどの地域にもこれだけの軍がある」
「はい、その通りです」
「我がドイツは常に我等が護っております」
「その通りだ。だからこそだ」
 彼等の言葉を受けつつまた言うのである。
「東方のあの敵の為に」
「マジャールの為に」
「そうだ。剣を取るのだ」
 やはり言うことはこれであった。
「誇り高きドイツの国土を護る為に」
「そう、ドイツの為に」
「我等が祖国の為に」
 貴族達も騎士達も王に続く。
「今剣を取ろう」
「そしてマジャール達を倒すのだ」
「そしてだ」
 王は彼等の言葉を受けつつここで述べた。
「あの騎士殿は何処か」
「あの方ですか」
「そう、あの方だ」
 王は皆の言葉に対して頷く。
「ドイツの、ブラバントの栄光と勝利の為に神に遣わされたあの方は」
「間も無く来られるかと」
 あの伝令が王に恭しく告げた。
「ですから暫しお待ちを」
「そうさせてもらうか。むっ・・・・・・」
 だがここで。突如としてこの場に不釣合いな一団がやって来た。見れば彼等は沈んだ顔で骸を運んでいる。皆がその骸を見れば。
「あれは伯爵ではないか」
「そうだ、伯爵だ」
「テルラムント伯爵だ」
 皆顔を顰めながら次々に言う。
「何故ここに!?」
「どうしてだ」
「ブラバントの保護者の御依頼です」
「だから我々は」
 四人は沈んだ顔で一同に述べた。既に王の前に設けられた広場にテルラムントの亡骸を置いている。
「ここに参りました」
「いずれあの方も」
「来られるというのか」
「おや、あれは」
 ここで一堂の中の一人が声をあげた。
「あれは公女だ」
「そうだ。公女だ」
 他の者達もその声を聞いて顔をあげて気付いた。エルザがここに来ているのだった。
「だがおかしいな」
「確かに」
 彼等は次にエルザを見て首を捻るのだった。
「何故だ。御顔が優れぬ」
「真っ青ではないか」
 見ればその通りだった。エルザは青い顔をして項垂れてここに来ているのだ。
「どうされたのだ?」
「わからぬ」
 皆首を捻るばかりだった。
「何故あの様な御顔に?」
「まさかと思うが」
「公女よ」
 王が己の前にその蒼ざめた顔でやって来たエルザに対して問う。彼女が連れていた多くの貴婦人達は貴族や騎士達の中に混ざっていく。彼女一人になっていた。
「どうしたのだ?」
「それは」
 言おうとする。だが言えなかった。
「それは・・・・・・」
「その蒼ざめた顔、只事ではない」
 王から見てもそうであった。
「やはり何かがあったのか」
「それは」
「あの騎士殿が出征されるからなのか」
「そうではないのか?」
「そうだな」
 他の者達はそこに答えを見出そうとした。
「それならばわかるな」
「うむ」
「全くだ」
 こう言い合って彼等は納得するのだった。
「むっ」
 ここでまた誰かが声をあげた。
「来られたぞ」
「騎士殿か」
「そうだ」
 こう一同に告げる。
「ここに来られた」
「だがどうだ」
 しかし騎士のその顔を見て言うのだった。
「あの御顔は」
「確かに」
「険しいぞ」
 皆彼のその顔を見て述べた。
「戦いを前にしているからか?」
「いや、待て」
 細かく見ている者がさらに言う。
「蒼ざめておられる」
「蒼ざめて!?」
「そうだ」
 見れば確かにそうだった。彼の顔は蒼白だった。そして何故か絶望さえしていた。
「何故だ、あれは」
「わからん」
「だが何かあるな」
「うむ、それはな」
「間違いない」
 これは彼等も感じ頷き合う。
「だとすれば何だ」
「何があった」
「あの方に」
 彼等の中にも不安がよぎっていく。
「それを確かめる為にも」
「今は聞こう」
「そうだな」
「そうするべきだ」
 それが賢明であると。彼等は判断した。そうして王の前まで来てまずは礼儀正しく見事な動作で片膝をついた彼を見るのだった。彼はゆっくりと立ち上がり王の言葉を受けた。
「では騎士殿」
「はい」
「今から参ろう」
 王は彼と共に出征することを望む言葉を出してみせた。
「マジャールの者達がいる東に」
「それですが陛下」
 だがここで騎士は言うのだった。
「それはできなくなりました」
「何っ!?」
「むむっ」
「まさかと思ったが」
 周りの者達はここで騎士の顔の異変を思い出し呟くのだった。
「そういうことなのか」
「だが何故だ」
 それでも疑念はあるのだった。
「何故ここでこの方は」
「その様なことを仰るのだ」
 こう言い合いさらに騎士を見る。騎士はここで一同に告げた。
「まずはです」
「まずは!?」
「騎士殿、何を」
「この男のことです」
 テルラムントの亡骸を差し示しつつ言うのだった。
「昨夜この男は私に襲い掛かり」
「またか」
「またその様なことをしたのか」
 皆それを聞いてまずは呆れた。
「打ち倒しました。このことを告げます」
「自業自得だ」
「全くだ」
 皆忌々しげにテルラムントの亡骸を見つつ言い捨てた。
「そしてです」
「そして!?」
「今度は一体」
「何が」
「我が妻は言ってしまいました」
 騎士は俯いてしまった。エルザの項垂れた顔がさらに蒼くなる。
「私に対して禁じられた問いをしてしまいました」
「禁じられた問い!?」
「ではそれは」
「そうです」
 騎士は辛そうな顔だったがそれでも言うのだった。
「私の名を問うてしまったのです」
「そうですか。やはり」
「それを」
「皆様は御聞きになられていた筈です」
 騎士はまた一同に告げた。
「私の名を問うてはならぬと。私は言いましたね」
「はい、そうです」
「その通りです」
 これは彼等も聞いていた。しかとだ。
「この耳で聞きました」
「確かにです」
「そう、確かにです」
 彼もまた言う。
「妻は偽りの者達の言葉に惑わされ聞いてきました。確かに惑わされました」
「この忌まわしい伯爵と」
「伯爵夫人によって」
「ですが私は約束を果たさねばなりません。だからこそ」
「名乗られるのですね」
「そうです」
 今はっきりと言うのだった。
「ここで。私の名を」
「貴方の御名を」
「そして私の出自を」
 それも語るというのである。
「今ここで」
「それでは騎士殿」
「今からここで」
「そうです。宜しいですね」
 また一同に対して問うてきた。
「今ここで名乗っても。陛下」
「うむ」
 王は沈痛であったが王者の威厳で以ってそれに応えた。
「わかった。では騎士殿」
「はい」
「名乗られよ」
「わかりました」
 王の言葉に対して一礼する。いよいよであった。
 場が緊張していく。そしてその中で。騎士は厳かに語りはじめるのだった。
「皆さんの近付き得ない遥かな場所」
 まずはこう言うのだった。
「遥かな場所にモンサルヴァートという城があります」
「モンサルヴァート」
「確かあの」
 何人かはこれで気付いたようだ。だがそれよりも先に彼の言葉は続くのだった。
「その只中に明るい殿堂がありますがそこはこの世では全く知られていない貴い殿堂なのです」
「神聖な場所なのか」
「それでは」
「霊験あらたかな祝福の杯が置かれています」
 さらに語っていく。
「天使達が地上にもたらしてくれたその杯はこの世で最も純潔な者達によって護られています。その杯の名こそグラール」
「グラール・・・・・・」
「それではやはり」
「間違いない」
 やはりここでも何人か気付くのだった。だが騎士は今は答えない。
「至福にして至純な信仰がそこにありその守護を得られる者は聖杯の加護により神の力を与えられどの様な邪悪な企みも効かず暗い死の影さえ逃げていきます」
「まさに神の御力だ」
「うむ」
「その通りだ」
「さて」
 騎士はここで一旦言葉を区切ってからまた述べた。
「聖杯グラールにより遠方に遣わされ徳の正しさを護る騎士に任じられた者もまたその身分を知られない限りは力を授けられています」
「それではこの方は」
「まさか」
 さらに何人かが気付いた。彼が誰なのか気付く者は多くなっていく。
「この様に聖杯の祝福は気高いものでありながら一度秘密が打ち明けられれば騎士はその力を忽ちのうちに失ってしまうのです」
 騎士はまた言うのだった。
「ですからどなたも騎士の素性を疑ってはならないのです。誰なのか知られればそれだけで去らねばならないのですから。そう」
 そして言葉を続ける。
「私は今こそ禁じられた問いに答えましょう」
 場をさらなる緊張が包み込む。
「わたしは聖杯によりこのブラバント、皆様の御前に遣わされた者、モンサルヴァートの主パルジファルの息子にして」
「!?間違いない」
「この方は」
「聖杯を守護する騎士の一人、ローエングリンです」
 遂に名乗ったのだった。それが彼の名であった。白鳥の騎士ローエングリン、彼の名であった。
「私が何故ここに来たのか」
「何故ですか」
「それは」
「遥かな遠い国、そうここで一人の乙女が苦しみ悲しんでいる姿を城の聖堂で見たのです」
「それこそまさに」
「公女・・・・・・」
「私達は聖杯にどのようにしてこの国に辿り着くべきか尋ねたその時に小舟を曳いて来る白鳥の姿も見えました。それこそが聖杯の神託だったのです」
「聖杯の」
「そう。その神託は白鳥が一年の間その務めを果たせばその時に彼を覆っている忌まわしい魔術の呪いは消えるとのことでした。そして救いの騎士に選ばれた私は白鳥に導かれモンサルヴァートを後にしました。私は白鳥の小舟に導かれここに来たのです」
「奇蹟だ、まさに」
「そう、奇蹟だ」
「私は、私は・・・・・・」
 ローエングリンの名乗りを聞き終えた人々は深い感動に包まれていた。だがその中でエルザだけは絶望に覆われ青い顔で崩れようとしていた。ローエングリンが彼女を抱き締めて支える。
「公女よ、最早もう」
「最早・・・・・・」
「そうだ。私達の幸福も愛も全てが消え去ってしまったのだ」
 責めはなかった。その代わりに悲しみのある言葉だった。
「清い心もまた。もう私は」
「行かれるのですか・・・・・・」
「私は名乗ってしまった」
 また悲しみと共の言葉だった。
「それではもう」
「何と言う悲しみ」
「姫のお側を離れられるとは」
 皆これには悲しまずにはいられなかった。その為エルザと同じ様に打ちひしがれてしまっていた。
「どうかここに」
「神よ、御心を」
「どうか、私に罪を償わせて」
 涙を流しながらローエングリンの衣を掴むエルザだった。
「ですから。このブラバントに」
「だがもう」
 しかしローエングリンの声は悲しいままだった。
「私は戻らなくてはならない」
「そんな・・・・・・私の愚かさの為に」
 打ちひしがれるしかないエルザだった。ローエングリンはその彼女を優しく抱き締めながら王に顔を向けてまたあることを告げるのだった。
「そして陛下」
「何だ」
「私が共に行くことのできなくなった戦いですが」
 そのマジャールとの戦いについてだった。
「その戦いについて神の御守護をお伝えしましょう」
「戦いにのか」
「そうです。この戦いは勝ちます」
 彼は言った。
「我がドイツの勝利です。ドイツの国土は決して蛮族達に踏み躙られません」
「わかった。その御守護しかと受けたぞ」
「有り難き御言葉」
「見ろ、白鳥だ」
 そしてここで河畔を見た者達が言った。
「あの白鳥が来た」
「あの小舟を曳いているぞ」
「それでは」
「そうか。いよいよか」
 ローエングリンは彼等の言葉を聞いて彼自身も河畔に顔を向けた。そうしてその顔をさらに沈痛なものにさせてから言うのだった。
「もうこれで。このブラバントから」
「もう貴方は」
「ここからいなくなってしまう」
 ドイツの者達はそれを心から悲しまざるを得なかった。
「何という悲しみか」
「できればどうか」
「エルザ、一年だったのだ」
 彼はまたエルザに顔を戻して告げた。
「一年でそなたは彼が戻って来たのだ」
「彼!?」
「そう、彼だ」
 エルザの言葉に応えて述べた。
「そなたが死んだと思っていたあの弟君がだ」
「ゴッドフリートが・・・・・・」
「これを」
 ローエングリンは今度は角笛と剣、そして指輪をエルザに差し出した。彼が抱くようにして持っている剣とはまた別のものであった。
「この三つを帰って来る弟君に渡してくれ。角笛は危急の時に助けを与えてくれ、剣は激しい戦いにおいて勝利を約束してくれる。そして指輪は」
「指輪は?」
「これを見て私を思い出してくれ」
 こうエルザに言うのだった。
「これで。私のことを」
「貴方のことを」
「そう、帰るのです」
 今度はあの女が出て来た。暗雲を身にまとい。
「忌まわしきあの十字架の神の僕よ」
「くっ、伯爵夫人!」
「神を否定するというのか!」
「黙りなさい、本来の神々をその心の中に幽閉した者達よ」
 こう言ってドイツの者達を制する。
「今告げましょう。その白鳥こそ公子」
「何っ!?」
「まさか」
「そう、そのまさかなのです」
 オルトルートは陰惨な笑みと共に彼等に告げる。王の玉座の後ろにある気高い場所に立ち。そこから一同に対して告げるのだ。
「この私が魔力により姿を変えたのですから」
「魔性の女め・・・・・・」
「やはり黒魔術は貴様が」
「これはヴォータンが持っている術の一つ」
 いとおしげに、それでいて寂しげでかつ悲しげな言葉だった。
「それすらも知らないとは」
「それがどうしたというのだ」
「だが公子は」
「その通りだ」
 ローエングリンは厳かな声でここでまた言った。
「見るのだ、異教の神々の僕よ」
 白鳥がその河畔に泊まった。ローエングリンはその白鳥に近付くと剣を抜いた。そしてその黄金の鎖を断ち切ると白鳥は忽ちのうちに白い光に包まれて。そこに現われたのは白銀の鎧に身を包んだ麗しい少年だった。少年が川辺に立っていた。
「公子・・・・・・!」
「またしても奇蹟が」
「ゴッドフリート・・・・・・!」
 エルザも彼の姿を見て叫ぶ。それこそ彼のただ一人の弟、姿を消していたゴッドフリート=フォン=ブラバントだったのだ。
「彼こそ貴方達の主」
 ローエングリンはブラバントの者達の方を見て告げた。
「どうか彼を慕い御護り下さい」
「如何にも」
「この奇蹟に」
「ゴッドフリート様の為に」
 皆王の前に無言で進み片膝をついたゴッドフリートを見つつ述べる。こうしてまた一つ奇蹟が起こったのであった。
 だがそれでも。オルトルートはいた。彼女は勝ち誇った顔でローエングリン達を見下ろし続けこう告げたのである。
「最早砂漠の神の僕はいない。これで私を阻む者はいないのだ」
「くっ、まだ!」
「ブラバントを乱すというのか異教の女!」
「言った筈。己の神々を幽閉した恩知らずな者達よ」
 またドイツの者達を見据えて今度は怒りの言葉を出した。
「今こそここに。それを思い出させよう!」
「おのれ!」
「そこになおれ!今我等が」
「いえ、皆さん」
 だがここでローエングリンが一同に対して告げるのだった。
「ここは私にお任せ下さい」
「貴方に」
「そうです。偉大なる我等が神よ」
 跪き祈りつつ告げた言葉だった。
「今。貴方の御力を」
「!?」
「何と!」
 雷が落ちた。それがオルトルートを撃ち彼女を倒してしまったのだ。オルトルートは叫び声をあげる間もなく倒れてしまった。こうしてかつての神々を信じる女もまた滅んでしまった。
「これで何もかもが終わった」
 ローエングリンはこう言い残すと小舟に向かう。小舟は今は一羽の鳩が舞いつつ曳いていた。
「あなた、どうか!」
「さらばだエルザ」
 項垂れたまま小舟に向かう。
「もうこれで」
「どうか・・・・・・」
「どうか神よ」
 皆神に祈らずを得なかった。
「どうかこの方をドイツに」
「姫の御側に」
 王も祈った。エルザは必死に呼び止めようとする。だがローエングリンは今まさに小舟に乗ろうとする。その時だった。
 不意に鳩が小舟の鎖から口を離した。そうしてローエングリンの上まで飛ぶとそこで。あるものに姿を変えたのだった。
「あれは・・・・・・」
「杯!?」
 皆その杯を見て言った。それは確かに杯だった。
「杯がどうして」
「どうしてここに」
「グラール・・・・・・」
 ローエングリンはその杯を見上げて言った。
「鳩は貴方だったのか」
 だが聖杯は何も答えない答えないかわりに彼の上を円を描いて飛びつつ。そこから黄金の清らかな水を流し。それでローエングリン、そしてエルザを清めたのだった。
「これは・・・・・・」
「聖水!?」
「いや、これもまた神の奇蹟だ」
 王が言った。
「これもまた」
「王の奇蹟だと」
「これもまた」
「そうだ、奇蹟だ」
 王は言うのだった。
「だがこの意味は」
「聖杯は今私に告げました」
 ローエングリンはそれに応えるようにして厳かな声で言った。
「このブラバントに留まれと」
「この国に」
「そしてドイツを護れと。エルザ=フォン=ブラバントがこの世に生きている限り」
「それでは貴方は」
「またこの国に」
「そうです」
 こう一同に述べたのだった。
「間違いありません。私はブラバントに」
「おられる」
「最後の奇蹟だ」
「そう、奇蹟です」
 ローエングリンは感動に打ち震えながら一同に告げた。
「神の慈愛による奇蹟です。これは」
「ではあなた」
「そうだ、我が妻よ」
 エルザをまた我が妻と呼んでいた。
「これで私達は永遠に」
「二人で」
 あらためて抱き合う二人だった。そして王が玉座から立ちここで告げるのだった。
「皆この奇蹟を讃えよ」
「はい」
「今ここに」
「神の奇蹟は無限だ。そしてその慈愛もまた無限だ」
「ええ。神の慈愛を讃えよう!」
「今ここに!」
「そして二人の愛もまた!」
 口々に叫ぶのだった。
「永遠に讃えられてあれ!」
「ここに!」
 ローエングリンとエルザを囲んで讃えていく。今ローエングリンとエルザは結ばれたのだった。神の無限の奇蹟により。


ローエングリン   完


                                       2008・11・13



弟も戻ってきて、オルトルートも倒れ。
美姫 「名を問われたローエングリンも留まる事が出来て大団円ね」
だな。何かあるかと思ったけれど、丸く収まって良かった。
美姫 「でも、原作は違う形との事だけれどね」
うーん、原作はどんな形の終わりを迎えるんだろう。
ちょっと気になるな。
美姫 「機会があれば調べてみるのも良いわね」
うんうん。
美姫 「投稿ありがとうございました」
ありがとうございます。



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