『蝶々夫人』




                          第二幕  ある晴れた日に

 ピンカートンとの結婚から三年が経った。蝶々さんは十八になり二人の間にできた小さな男の子もいる。しかしそこにピンカートンの姿はなく親子と鈴木だけで静かにあの丘の上の家で暮らしているのだった。
 その静かな緑の丘の上の家で。鈴木は蝶々さんに声をかけていた。
「蝶々さん」
「何かしら」
 二人はそれぞれ日本の着物を着ている。鈴木は緑の、蝶々さんは赤と桜色の。それぞれの着物を着ていた。二人は家の庭先で話をしていた。座っている蝶々さんに鈴木が声をかけてきたのだ。
「お金のことですが」
「あとどれだけなの?」
「これだけです」
 そう言って懐から出してきたのは本当に僅かなだけの金貨であった。
「もう。これ以上は」
「そうなの。それだけ」
「あの人が残していったのはもう」
 鈴木は寂しげな様子で答える。
「これだけしか残ってはいません」
「けれどあの人はまた帰って来るわ」
 蝶々さんは明るい声で言うのだった。じっと上を見上げて。
「それももうすぐね。だから」
「けれど」
 そんな蝶々さんを見て鈴木は余計不安を感じるのだった。
「本当にそんなことが」
「あの人を疑っているの?」
「いえ、それは」
 不審には思っている。しかしそれを口に出して言える筈もなかった。
「そんなことはありませんが」
「だったらいいわ。いい?」
 蝶々さんは鈴木に顔を向けてきた。少し厳しい顔になっている。
「あの人は言ったのよ。駒鳥が巣を作る晴れやかな季節になったら帰って来るって」
「駒鳥がですか」
「それは今よ」
 そんな季節になっていた。それが今なのだ。
「紅い、私に似合う花を持って戻って来るって」
「そうなのですか」
 蝶々さんのその話を聞いても鈴木は不安を拭いきれなかった。
「だといいのですけれど」
「まだあの人を疑うの?」
「いえ、それは」
 蝶々さんの強い声と視線に思わず口ごもる。
「そんなことは」
「お待ちしています、私も」
「だといいわ。ねえ聞いて」
 ここまで話したうえで。鈴木に告げるのだった。前を向き直って。
「ある晴れた日に海の遥か彼方に煙が一筋。やがて船がやって来るわ」
 蝶々さんは今丘から見えるその海を見ていた。山に囲まれた青いその海を。
「その白い船が港に入ると礼砲が放たれて。あの人が帰っていらしたことを私に教えてくれるの。それでも私が迎えに行かないわ。どうしてだかわかる?」
 そう鈴木に塔。
「向こうの丘の端で待つからよ。どんなに待っても辛くはないわ。やがて街の人々の間から一人だけ抜け出して丘の上を登って来るのはあの人。私の名を、蝶々さんと呼んでやって来るの。けれど私は隠れるの。何故かというと」
 うっとりとした言葉だ。完全にそこに自分を置いている蝶々さんだった。
「からかうのよ。ちょっとだけ。だって久し振りに会うのだから嬉しくて死にそうだから。あの人が『美女桜の様な可愛い奥さん』と呼ぶのを聞きながら。あの人が私につけてくれた仇名を」
 そこまで話してまた鈴木に顔を向ける。そのうえでまた言うのだった。
「貴女には話しておくけれどきっとそうなるから。私は信じているのよ」
「そうなのですか」
「ええ」
 またうっとりとした顔で言う。
「きっと。だから」
「ああ、こちらですね」
 そこに誰かが来た。見れば五郎とシャープレスだ。
「五郎さん、それにシャープレスさん」
「どうも」
 五郎は顔を自分に向けてきた蝶々さんと鈴木に下卑た笑みを向ける。シャープレスはその後ろで深刻な気難しい顔をしている。
「鈴木」
「はい」
 鈴木に顔を向けてお茶を出すように言う。
「御願いね。二つ」
「わかりました」
 鈴木はそれを受けて家の奥に消える。蝶々さんはそれを見届けてからまた二人に顔を戻すのであった。そのうえで二人に対して問う。
「お久し振りです。今日は何の御用でしょうか」
「はい」
 シャープレスが深刻な顔のままで蝶々さんに応えた。
「実はですね」
「何かあったのですか?」
「ピンカートンから便りがありました」
「えっ!?」
 蝶々さんはそれを聞いて思わず立ち上がった。そのうえでシャープレスに問うのだった。
「それは本当ですか!?」
「はい、そうです」
 シャープレスは一気に朗らかになった蝶々さんに答える。
「そうですか。それでは」
「何か」
「アメリカでは駒鳥は何時巣を作るのですか」
「駒鳥!?」
 シャープレスは急に駒鳥と聞いて目を丸くさせた。
「あの、それは」
「あっ、すいません」
 彼の驚いた顔を見て蝶々さんは気付いた。それで説明するのだった。
「実はですね」
「ええ」
「そちらの方は」
「御存知ありませんか」
「申し訳ありません」
 そう答えて蝶々さんに謝罪するのだった。
「鳥について専門的に学んだことはありませんので」
「そうだったのですか」
「はい、それで」
 さらに深刻な顔になるシャープレスだった。
「そのピンカートン中尉のことですが」
「主人が何か」
「あのですね」
 言いにくい顔になって話を止めるのだった。
「何ですが」
「あっ、そうです」
 シャープレスが言うに言えず困っていると蝶々さんが自分から言ってきた。
「実はですね」
「はい、何か」
「困ってことがありまして」
 顔を顰めさせて言ってきたのだった。
「ちょっと宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 蝶々さんに話すように言う。それでまた時間を稼ごうという彼の考えもあった。
「何かありましたか?」
「山鳥様です」
「ああ、公爵様ですか」
 華族でありかつては京の都で公卿であった。この時代になって事業で成功しこの長崎に邸宅を移してきている人物である。
「主人が帰ってから何かと私に贈り物をしてくれるのですが」
「左様ですか」
「いい方ですよ」
 ここで五郎がシャープレスに囁いてきた。
「親類からも見捨てられた蝶々さんを気遣ってのことなんです」
「そうなのか」
 シャープレスはそれを聞いて少し安心した顔を見せた。
「蝶々さんにもそうした人がいてくれるのか。神は見捨ててはおられぬか」
「今日もこちらへ向かっておられます」
「今日も」
 蝶々さんは五郎の今の言葉を聞いて顔を顰めさせた。
「もう沢山ですのに」
「いや、これは」
 だがここでシャープレスは言うのだった。
「蝶々さんにとっては」
「私にとっては!?」
「来られましたよ」
 シャープレスがその先を言おうとしたところで。ダークグレーのお洒落な洋服に身を包んだ品のいい男がやって来た。端整で品のある顔立ちをしていて黒い髪を奇麗に後ろに撫で付け整った口髭を生やしている。彼がその山鳥公爵である。長崎では名士でもある。
「その山鳥公爵です」
「こんにちわ、蝶々さん」
 公爵はにこりと笑いながら蝶々さんの方にやって来た。シャープレスから見ても品のある確かな男である。その彼が蝶々さんのところにやって来たのだ。
「お元気そうで何よりです」
「はい」
 だが蝶々さんはそんな彼を憮然とした顔で迎えるだけだった。
「それでですね」
「あの話は何度もお断りした筈です」
「お断り!?」
「実はですね」
 二人のやり取りを聞いて目をしばたかせたシャープレスに五郎が囁いてきた。
「公爵様は先日奥様に先立たれていまして」
「ふむ」
「それで新しい奥様を探しておられるのです」
「それで蝶々さんをか」
「悪い話ではないですよね」
「悪い話どころか」
 シャープレスは首をゆっくりと横に振って述べる。
「そんないい話は滅多にないよ」
「そうですよね。私もそう言っているのですが」
 聞き入れないのだ。蝶々さんの心はそこにはないのだ。
「蝶々さんはどうしても」
「そうなのか」
「はい。それで困っています」
 彼は言うのだった。
「どうしたものやら」
「私と共にこの丘を降りましょう」
 公爵は優しい声で蝶々さんに語り掛ける。あくまで穏やかな物腰だ。
「そして一緒に二人で」
「いえ、私は」
 しかし蝶々さんは公爵のその申し出をきっぱりと断るのだった。
「ずっとここにいます」
「まだ待たれるのですか」
「はい」
 またはっきりとした返事だった。
「私はあの人の妻ですので」
「それを私が言うべきなのだが」
 シャープレスはそんな蝶々さんを見てその顔に浮かび出ている深刻さを濃くさせた。苦悩さえその顔には強く浮かんできていた。
「どうしても。言えはしない」
「公爵様のお気持ちはわかっています」
 それは蝶々さんにもわかっている。
「ですが。それでも」
「蝶々さん」
 シャープレスがここで出て来た。
「実はですね」
「はい、何か」
「いや」
 本人に対して言おうとすると。やはり言えないのだった。ついつい顔を下に逸らしてしまう。
「それは」
「蝶々さん」
 彼が言えないでいると公爵がまた言ってきた。哀しい顔と声で。
「また来ます。私は待っていますので」
「何度来られても」
「私の心は本物です」
 それは彼だけでなく蝶々さんもわかっていた。しかし。
「だからこそ。それでも」
「公爵」
 その彼に五郎が声をかけてきた。
「今日はこれで」
「うん、済まないな五郎さん」
「いいですよ。それじゃあ」
「では蝶々さん」
 公爵は残念な顔で五郎を連れて最後の挨拶をするのだった。
「また」
「はい。ですが私は」
 どうしても彼を受け入れない蝶々さんだった。一礼した二人が帰るとそこに残っているのはシャープレスだけになってしまった。彼はそのことにえも言われぬ追い詰められた感情を抱いたがそれでもこの丘の上に残った。彼も己の責務があったからだ。
「先程のお話ですが」
「ええ」
 話はそこに戻る。シャープレスは蝶々さんに対して言うのだった。
「今日ピンカートンの船が長崎に入ります」
「えっ!?」
 それを聞いた蝶々さんは思わず顔を真っ赤にして声をあげる。鈴木も同じだった。
「あの方が。遂に」
「はい。それでですね」
「お便りですよね」
「ええ、それです」
 そちらにも話がいく。だがそれと共にシャープレスの顔に浮かび出ている憂いがさらに濃くなる。鈴木はそれに気付いたが何故そうなっているかまではわからない。蝶々さんは喜びで全く気付いてはいない。
「そのお便りは」
「こちらです」
 懐から一通の手紙を出す。それを蝶々さんに手渡すと彼女は満面の笑みでそれを抱き締めるのだった。
「あの人からの。私への」
「読めますか?」
「それは」
 実は英語は話せるようになったが読むまでには至っていない。そこまではいかなかったのだ。
「私が読みましょうか」
「御願いできますか?」
「はい、それでは」
「わかりました。それでは」
 シャープレスは読みはじめる。蝶々さんと鈴木はそれをじっと聞くのであった。
「友よ」
「領事様のことですね」
「はい。あの美しい花の様な娘を尋ねてあげて下さい」
「私のことね」
「そうです。そして」
 さらに読むのだった。
「あの幸福な日々から三年が過ぎました」
「あの方も覚えていたのね」
「もう蝶々さんは私のことなぞ忘れてしまっているでしょう」
「まさか、そんな」
 蝶々さんはそれは否定する。
「そんなことは」
「もし蝶々さんが」
 ここでシャープレスの言葉が止まった。
「終わりですか?」
「いえ」
 シャープレスは蝶々さんのその問いには首を横に振る。
「まだです」
「ではお読み下さい」
「・・・・・・はい、それでは」
 仕方なく読みだす。言葉を続ける。
「まだ好意を持って迎えてくれるのなら」
「何て優しい御言葉」
 蝶々さんはそう捉えたのだった。
「そう言って下さると」
「あなたに彼女が色々な仕度をするよう御願いします」
「お帰りになられるのね」
「そうです」
 今のシャープレスの言葉は自分の言葉であった。
「ですが」
「何か?」
「まだ手紙には先がありまして」
 何とか腹の底から出すような声であった。
「読みましょうか」
「ええ、どうぞ」
 何もわからない蝶々さんはこう言うだけであった。
「御願いします」
「はい」
 言葉が少なくなっていた。何とかそれでも出したような言葉であった。
「それはですね」
「続きがあるのですよね」
「ええ」
 それは認める。しかし。
「あの、蝶々さん」
「何か?」
 不意に話を変えてきたのであった。
「実は。お話したいことがありまして」
「何でしょうか」
 蝶々さんもそれを聞くのであった。
「あの、あの方ですが」
「あの方といいますと」
「山鳥公爵です」
 彼もまた公爵の名前を出すのだった。
「いい方だとは思いませんか?」
「私もそう思います」
 彼女もそれはわかっている。しかしなのだ。
「ですが」
「そうですか。わかりました」
「私が見ているのはあの方だけです」
 こうまで言う蝶々さんであった。
「ですからそれはありません」
「わかりました。・・・・・・くっ」
 シャープレスはあらためて歯噛みする。そうせざるを得なかったのだ。
「ピンカートン、どうして」
「それで領事様」
 歯噛みするシャープレスに気付かずまた問うてきたのであった。
「まだ何かありますか」
「もう一つ御聞きしたいことがあります」
 彼はまた言ってきたのだった。
「あのですね。若し彼がです」
「あの方ですね」
「そうです。若しもです」
 念入りにこう前置きするのだった。蝶々さんを気遣って。
「帰って来なかったら。どうされますか」
「え・・・・・・」
 これは蝶々さんに対して言ってはならない言葉だった。その顔が強張り言葉も止まる。そんな彼女を見てシャープレスも悟るしかなかった。その悟った彼に蝶々さんの言葉が届く。
「そうなれば私に出来ることは二つだけです」
「二つですか」
「そうです。芸者に戻るか」
 まずはそれであった。これが彼女にとって不本意極まるものであるのは言うまでもない。
「そして」
「そして?」
「もう一つは。死ぬだけです」
「馬鹿な」
 シャープレスは蝶々さんのその言葉を受けて色を失った。
「貴女は死んではなりません。そんなことを仰らないで下さい」
「私はもうあの方と一緒でなければ生きる意味がないのですから」
 それが蝶々さんの偽らざる心の言葉だった。
「そうでなければ。どうして」
「そこまで。貴女は」
「御覧になって下さい」
 困り果てた顔になったシャープレスに対してまた声をかけるのであった。
「鈴木」
「はい」
 次に鈴木に声をかける。すると鈴木はそれ応えるのだった。
「あの子を連れて来て」
「わかりました」
 鈴木は一旦後ろに消えてそれから三歳程度の子供を連れて来た。見れば肌と顔は日本人のものだが髪は金色で目は青だった。それだけで誰の子供かわかる。
「彼の・・・・・・」
「そうです、あの人と私の子供です」
 その金髪と青い目が何よりの証拠だった。
「御覧になられましたね」
「はい、よく」
「この子がいるから。あの方はきっとここに」
「ですが」
 シャープレスは蝶々さんの信じる気持ちに対して残酷な言葉をかけるしかなかった。かけたくはない彼の心は押し殺すしかなかった。
「彼はそのことを御存知で?」
「いえ」
 蝶々さんは首を横に振った。
「あの方が日本を去られてから生まれた子です」
「そうですか、やっぱり」
「だからこそ。教えて頂きたいのです」
 こうシャープレスに頼み込んできた。
「あの方に。子供がいるのだと。そうすれば」
「戻って来るというのですね」
「あの方の子供なんですよ」
 それこそが蝶々さんの最大の心の拠り所であった。この子こそが。
「雨の日も風の日もこの子を抱えて歌って食べ物や着物を稼いで同情する人達に悲しい歌声を聞かせて不幸な母親にお恵みをと叫ばせるのですか?」
「それは・・・・・・」
 そんなことが言えるシャープレスではない。俯いて黙ってしまう。
「悲しい運命の蝶々はこの子の為に踊りまた芸者に戻って楽しみの歌は悲しみの歌になって。そんなことをする位なら」
「駄目だ、もう」
 シャープレスは今にも泣きそうになる。それだけは必死に堪えて言うのだ。
「私には。言えない」
「ほら、坊や」
 その悲しみに耐えられないシャープレスに既に自分の言葉で泣いてしまっている蝶々さんが声をかけるのだった。
「領事さんに。お別れの挨拶を」
 子供はそれに応えてシャープレスに手を振る。シャープレスはそんな子供を見て言うのだった。
「奇麗な金髪ですね」
「有り難うございます」
「名前は?」
「今は悩みです」
 蝶々さんが子供に代わって答えてきた。泣いたままの笑顔で子供を見ながら。
「けれどあの方が帰ってきたら喜びに変わります」
「喜びにですか」
「そう、喜びに」
 またシャープレスに告げる。
「これでおわかりですね」
「わかりました。それでは」
「はい、また」
 礼儀正しくシャープレスに挨拶を返す蝶々さんだった。
「御会いしましょう。それでは」
「お元気で」
 シャープレスは丘の上から姿を消した。蝶々さんは彼を見送ってからまた子供を見る。その子に優しい言葉をかけるのだった。
「もうすぐよ」
 にこやかな、あやす顔での言葉だった。
「もうすぐお父さんが帰って来るわよ」
「あっ」 
 この時鈴木が声をあげた。海の方から砲声が届いてきたのだ。
「蝶々さん、あれは」
「大砲の音ね」
「そうです、軍艦の大砲の音です」
 そう蝶々さんに告げる。
「あれはやっぱり」
「わかっているわ、あの人よ」
 その声が弾んでいる。もう彼女にはわかっているのだ。
「あの人が来ているのよ」
「これを」
 ここで鈴木は望遠鏡を出してきた。それを蝶々さんに差し出すのだった。
 蝶々さんはそれを受け取る。そうしてそれで海の方を見ると。見る見るうちにその顔が笑顔になってきた。
「見えますか?」
「見えるわ」
 その声が弾んでいた。
「アメリカの旗が。本当に来られたのよ」
「そうですか、本当に」
「ええ、帰って来られたわ」
 望遠鏡で海の方を眺めながら言葉を続ける。
「信じていたわ。けれど」
「だからこそ嬉しいのですね」
「ええ」
 望遠鏡を下ろす。その目からは歓喜の涙が溢れ出ていた。そのうえで顔は笑っているのだった。
「本当に。やっと」
「蝶々さん」
「鈴木」
 自然と二人は向き合う。にこやかな顔を向け合って言い合うのだった。
「あの桜の小枝を揺さぶりましょう」
「桜の小枝をですね」
「そう。それで」
 蝶々さんは言う。
「花の雨を浴びたいわ。薫り高い花の雨の中で燃える様なこの想いを浸したいのよ」
「そうですね。では」
「それであの方は」
 喜びの中でピンカートンを想うのだった。
「どれ位で来られるかしら」
「さあ」
「一時間位かしら」
 蝶々さんは最初こう予想を立てた。
「もっとでは?」
「じゃあ二時間ね。その間に」
 早速動きだした。一歩前に出る。
「ハナを採って来て一杯にしましょう。ちょうど夜空が星で一杯になるみたいに」
「あんな感じですね」
「そう、お花を」
 また鈴木に告げる。もう二人共動きだしていた。
「桜だけでなくすみれも桃もジャスミンも」
「他には?」
「どのお花もよ」
 また言ったのだった。
「草むらに咲く野花も草花も木に咲くお花も何でも」
「全部ですか」
「ええ、そう」
「けれど蝶々さん」
 鈴木はうきうきした気持ちの中にいながらも少し冷静に蝶々さんに対して言うのだった。
「何かしら?」
「そんなにしたらお庭が冬みたいになってしまいますけれど」
「それでもよ」
 わかっちてもだった」
「それでも一杯にしたいのよ。あの人が帰って来るのよ」
「だからですか」
「そうでないとこんなことはしないわ」
 もう花を摘みだしている。その花をあちこちに散りばめる。
「こうしていってね。奇麗にしたいのよ」
「そうですか。それでは私も」
「三年待ったのよ」
 鈴木も花を摘み取って散りばめだした。その鈴木にまた言うのだ。
「その間流した涙が土を濡らしたけれど今度はその土がお花を返してくれているのよ」
「薔薇の花は敷居に」
「そう、そこに」
 様々な色の薔薇の花びら達が敷居に撒かれた。木の色でしかなかった敷居が忽ちのうちに華やかな色に覆われる。
「そこに撒いて。それでね」
「次は」
「昼顔よ」
 今度は庭先だった。
「そおは百合をね」
「まるで四月みたいに」
「だって。私の中では春だから」
 蝶々さんにとってはそうであった。
「飾るのよ。もっと一杯のお花達で」
「庭はこれでいいですけれど」
 もう庭もあらゆる場所も花びら達で飾られてしまった。まるで別の世界の様に。
「それでもまだ」
「何?」
「お化粧です」
 鈴木は次に化粧を言ってきたのだった。
「そうね。どうも最近」
 自分のことに目をやる。するとついつい物悲しくなる蝶々さんだった。
「悲しんだり溜息をついたりすることばかりだったから。きっと顔も崩れているわよね」
「いえ、それは」
「隠さなくていいのよ」
 鈴木にこう返す。
「だって。それは本当だから」
「私はそんなつもりでは」
「それでも。今は違うわ」
 今の幸せのことを想って笑顔に返った。
「やっとあの方が帰って来るから。だから」
「そうですか」
「何もかもが嬉しいわ。今まで待っていた介があったのね」
「そうです。これからはまた」
「笑顔になれるわ。それもずっと」
 その笑顔を讃えている。蝶々さんの偽らざる心そのものだった。
「髪の毛にお花も欲しいし」
「はい」
 鈴木が差し出したのは紅いけしの花だった。蝶々さんはそれを受け取るとすぐに自分の髪の毛にさした。銀のかんざしと共に。
「後はお化粧をして。待ちましょうね」
「は、あの方を」
「ここに来られるまで」
 そう言い合って子供と共に家の中に入る。その家の中でピンカートンを待つのだった。何時までも何時までも。蝶々さんは待つのだった。



嫌な予感がするんだが。
美姫 「うん、私も。シャープレスが何か言い難そうにしていたのが、とっても引っ掛かるのよね」
だよな。一体、何があるんだろうか。
美姫 「蝶々の一途さを考えると、何事もなく再会して欲しい所だけれど」
どうなるのか、気になるな。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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