『メフィストーフェレ』




                               第三幕  死と救済

 牢獄であった。褐色の冷たい壁にはあちこちにひび割れがあり今にも崩れそうでありながらそれと共に絶対の堅固さも見せていた。その壁のランプが朧な光を放っている。その牢獄の中の鉄格子の中の一つにだ。彼女がいた。
 マルゲリータである。彼女はその牢獄の中に白いぼろぼろになった服で蹲っている。髪は乱れ目も視点が定まっていない。異様なまでに憔悴しきった顔で言っていた。
「あの夜、海の底に私の赤ちゃんを皆が投げ込んで」
 こう錯乱した様に呟いていた。
「なのに私がしたと。誰もが言って」
 最早現実がわからなくなっていた。
「寒く暗いこの場所で私の心は森の雀の様に飛んでそれで。けれど」
 ここで言葉が変わった。
「お母様は長い眠りについているだけなのに私がお母様に毒を飲ませたと皆が言って。赤ちゃんもお母様も私が殺したと責める。何故だというの」
「こちらです」
「そうか」
 その彼女の部屋の前にメフィストとファウストが出て来た。メフィストはその前で彼に顔を向けて告げてきたのである。
「こんな、何故なんだ」
「気が狂ったようですね」
「救えるか?」
「まずはです」
 ここでメフィストはファウストにクールに告げてきた。
「御聞きしたいことがありますが」
「何だ?」
「この娘をこうしたのはです」
 寒い牢獄の中がさらに冷たくなる言葉であった。
「誰なのですか?」
「誰かだと?」
「そうです。誰かです」
 このことを彼自身に問うのである。
「誰かです」
「それは」
「まあ私はです」
 ここでこの責めを中断してだ。今度はこう言ってきたのであった。
「私にできることはしますが」
「そうしてくれるか」
「既に看守は眠らせてあります」
 この辺りは実に抜かりがなかった。
「それに鍵も」
「もう用意してあるのか」
「これ位は造作もないことです」
 ファウストに対して鍵を出してきた。それを握らせる。
「それに魔力でここからすぐに去ることもできます」
「では私は彼女を」
「それは貴方の思われるままです」
 そのことについてはファウストに対して判断を委ねるのだった。
「では私は一先これで」
「何処に行くんだい?」
「姿を消します。では」
 こう言ってファウストに鍵を完全に手渡して姿を消した。白い煙となって消えたのである。
 ファウストはそれを見てだ。すぐに鉄格子を開けてそのうえで牢の中に入ってである。マルゲリータのところに来て声をかけるのであった。
「マルゲリータ」
「ひっ!?」
 だが。マルゲリータは彼のその言葉を見て驚きの声をあげたのであった。
「あの人達が。どうかお許し下さい」
「お許し下さいって」
「死にやくありません、まだ」
 こう言って身体を屈めて怯えるのだった。
「ですからどうか。お許し下さい」
「いや、違う」
 その変わり果てた彼女に戸惑いながらも言うファウストだった。
「私は君を助けに来たんだ」
「貴方は」
「マルゲリータ」
「どうか静かに」
「私にお慈悲を?」
「そうだ」
 またマルゲリータに告げた。
「だからここは」
「もう一度」
 ファウストの顔を見上げての言葉である。
「もう一度仰って下さい」
「もう一度?」
「はい、御願いします」
 こう彼に言っていく。
「どうかもう一度。私を救って下さるのですね」
「そうだ」
 彼女に言われるまま答えた。
「だから急いで」
「もっと近くに」
 しかし彼女は今はこう言うだけだった。
「もっと近くに。このまま」
「急がないとここは」
「どうか私に口付けよ」
 その焦点の定まらない声での言葉だ。
「どうかここで」
「早く」
「貴方は私を」
 その目でさらに言ってきた。
「私をどう思っておられるのですか?」
「どうかって?」
「この私を。どうだと」
「マリゲリータではないのか」
 ファウストは今の彼女の言葉の意味がわからなかった。眉を顰めさせて問い返すことしかできなかった。
「違うというのか?」
「私は母を毒で殺しました」
「まさか本当に!?」
 彼がやった毒で、であった。間違いなかった。
「あの毒を」
「そして私の幼な子を」
「私の子だ」
 それも聞いて愕然となった。このことも間違いなかった。
「それでだ」
「海に沈めました。それで御願いがあるのですが」
「御願い。何だというのだ?」
「私のお墓の用意を」
 虚ろな顔での言葉だった。
「それを用意して下さい」
「何故そんなことを言うのだ」
「深い緑の土の中に。墓場で最も美しい場所に」
 マルゲリータの言葉が続く。
「そこにお母様と赤ちゃんと。そして私が」
「いや、それよりもだ」
 もう聞いてはいられなかった。それでその言葉を遮って告げるのだった。
「今はここに」
「いえ、扉は」
「扉は?」
「地獄に向かう場所だから」
 こう言って首を横に振るのだった。
「それで行くというのは」
「駄目だというのか?」
「私は貴方と一緒には行けません」
 そうだというのである。
「生きることは私にとっては悲しみだから」
「生きることが。何故なんだ」
「誰かに乞うてそのうえで犯した罪を感じながら生きていくのは」
「それはない」
 ファウストは彼女の言葉も考えも遮ろうとした。
「だからここで」
「それでは私は」
「さあ、今すぐに」
「二人で」
「さあ、行こう」
 そうしてだった。二人で話すのだった。
「大海原の向こうの潤いを含んだ海の香気の中に」
「海草と花と空の間に」
「人知れぬ安らぎの港が見えるね」
「はい」
 ファウストは誘っているだけだがマルゲリータは実際に見ていた。
「見えます。青い小鳥達も」
「それは晴れた空の向こうで虹に囲まれて太陽の笑みを映している」
 こうマルゲリータに話す。
「そこでわたし達は希望に満ち新たな場所を求めかが椰子く」
「その島に向かうのですね」
「そうだ、遠くに」
「博士」
 ここでまたメフィストが出て来た。そうして自分に顔を向けてきたファウストに対して静かに告げるのだった。
「もう夜明けです」
「悪魔・・・・・・」
 マルゲリータは彼の姿を見て顔を青くさせた。
「どうしてここに」
「早く」
 ファウストはまたマルゲリータを急かす。
「急ごう、すぐに」
「私を見捨てないで下さい」
「だから早く」
「これはもう駄目だ」
 メフィストは最早錯乱し何もかもができなくなっているマルゲリータを見てすぐに見切った。そうしてファウストに対して言うのであった。
「ほら、もうラッパの音が」
「ではすぐに」
「はい、すぐに」
 確かにラッパの音が聞こえてきた。一刻の猶予もなかった。
「行きましょう」
「マルゲリータは」
「悪魔、来ないで」
 メフィストを見て怯えるばかりであった。
「私のところから。どうか去って」
「太陽が姿を出します」
 また言うメフィストだった。
「ですから早く」
「落ち着くんだ」
 ファウストは何としてもマルゲリータを救おうと声をかける。
「どうか。本当に」
「神よ、お救い下さい」
 マルゲリータは今度は祈りはじめた。
「どうかこの私を」
「祈るよりも早く」
 また急かすファウストだった。
「そしてこの牢獄から」
「斧が」
 だが。マルゲリータはまた見たのだった。
 処刑の斧が自分の首に落ちて来るのをだ。それを見たのである。
 それでまた怯えてだ。錯乱した声で喚く。
「私への処刑が。ここで」
「とにかく早く」
「去りましょう」
 ファウストはマルゲリータの手を掴むが彼女は暴れて逃れようとする。そしてメフィストはしきりにファウストをせっついて言ってくるのだった。
「早く、急がないと」
「悪魔が出て何をするというの?」
 マルゲリータはまた怯えて叫びはじめた。
「この神聖な場所で」
「馬鹿な、牢獄が神聖だと!?」
「何もかもわからなくなているのです」
 メフィストがファウストに告げてきた。
「ですから」
「ではどうしたら」
「もうこれはどうしようもありません」
 首を横に振っての言葉である。
「ですから二人で」
「夜明けが」
 牢獄の中も少しずつ明るくなってきた。それが何よりの証であった。
「薄明かりが。これが最後の一日なのね」
「違う、これからなんだ」
「私達の輝かしいはじまりの日になる筈だったのに。この世では」
「何故こうなるのだ」
「私を愛してくれて」
 苦しむ顔のファウストに対しての言葉だ。
「どうかそれを」
「それを?」
「覚えておいて。私が貴方に心を捧げたことを」
「わかった、じゃあ」
「そして神よ」
 今度は上を見上げての言葉であった。
「私をお許し下さい。どうかこの私を」
「もう終わりだ」
 メフィストはその彼女を見て呟いた。
「間も無く命が消える」
「何故だ、何故こうなるのだ」
「御覧下さい」
 メフィストがマルゲリータを指し示すとだった。彼女はゆっくりと崩れ落ちた。そうしてそのうえで弱々しい声で一人呟いたのであった。
「これで私は」
「そう、救われた」
「彼女は救われたのだ」
 天上から声がした。天使達の声である。
「神は許された」
「この気の毒な娘を」
「そうなのか」
 ファウストは崩れ落ちたマルゲリータを見ながら呟いていた。
「それがせめてもの救いか」
「では博士」
 メフィストは呆然となっている彼に告げてきた。
「これで」
「去るというのか」
「はい、では」
 二人はすぐに姿を消した。後に残ったのはマルゲリータだけである。崩れ落ちた彼女の亡骸を何処からか出て来た白い光が照らしていた。その天使達の光が。



マルゲリータを救い出す事は出来なかったか。
美姫 「最後に救いはあったみたいだけれどね」
うーん、難しい話だ。でも、お話はまだ終わりじゃないみたいだけれど。
美姫 「これからファウストはどんな事をするのかしらね」
次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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