『ニュルンベルグのマイスタージンガー』




                               第三幕  讃えられるべきもの

 狭い部屋であった。木造であり周りにはさまざまな道具や河が置かれ吊るされている。少し見ればそれが靴のものだとわかる。右手には別の部屋への戸があり左手には通りに面した窓がある。質素だが頑丈な造りの机と椅子がありザックスはそこに座っていた。彼は窓から差し込める朝の日差しを見つつ物思いに耽っていた。
「親方」
 その彼に右手から出て来たダーヴィットが声をかけてきた。
「宜しいでしょうか。ベックメッサーさんのお家にですね」
 こう声をかけるのだった。
「靴を届けに来ました」
 しかしザックスは窓の方を見ているだけである。ダーヴィットの方を見ようとさえしない。ダーヴィットはそれを見て困惑した顔になった。
「昨日のことかな、怒ってるんだな」
 師匠が怒っている時はどういう状況なのかわかっているのだった。
「まずいな。これは」
 それでここは事情を説明することにするのだった。
「よしっ、じゃあ」
 そうして意を決して言うのだった。
「親方、徒弟というものは落ち度があるものでして」
 まずはここから説明するのだった。
「親方も私のようにレーネを御存知ならきっと許して下さいます」
「・・・・・・・・・」
 やはりザックスは答えない。
「彼女は気立てがよくてそのうえ優しくて」
 マグダレーネのことも話すのだった。
「だからこそ私をよく知っています。そのレーネのように私を御存知でしたら」
 その背の高い姿をあえて二つに折るようにして屈んで話を続ける。
「きっと許して下さいます。しかしです」
 殆ど言い訳だった。
「昨日は騎士殿が失敗され」
 ヴァルターのことだった。
「彼女から籠を貰うことができず大変悲しく」
 やはり言い訳だった。
「昨日何者かが窓辺に立ち」
 彼の言い訳は続く。
「彼女に向かって金切り声で歌ったのです」
「・・・・・・・・・」
 ここでも返事はない。
「たったそれだけのことであの騒ぎとは関係がなくてレーネもさっき私に話してくれてわかってくれました」
 そしてさらに言うのだった。
「お祭の為に花やリボンを作ってくれましたし。ですから」
 いい加減何も言わないザックスに途方に暮れだした。
「一言」
 やはり返事はなかった。
「まずいな。ソーセージとお菓子まで食べたのがわかったかな。やっぱり贅沢過ぎたかな、朝から」
 そんなことを言いながら困っているとだった。ザックスは不意に口を開いたのだった。
「何だこれは」
 ここでダーヴィットをちらりと見てそのうえで彼が持っているその花とリボンを見るのだった。
「若々しい。何故家にあるんだ?」
「今日はお祭の日ですから」
 やっとザックスが口を開いてくれてそのことに内心大喜びで応えるのだった。
「それで皆着飾って奇麗にして」
「そうだったな」
 ザックスはここでまた思い出したように述べた。
「今日は婚礼の日だったな」
「ダーヴィットがレーネに求婚する」
 大喜びだったのでまた調子に乗ってきたのだった。
「そうなればいいのですが」
「というとだ」
 ザックスは静かに考える顔でまた言いはじめた。
「昨夜はそれの前夜祭ということか」
「まずいぞ、これは」 
 今のザックスの言葉を聞いてまた困惑した顔になる。
「まだ怒っておられるぞ」
 こう判断するとすぐに謝るのだった。
「許して下さい、お願いです」
 平謝りに謝りだした。
「今日はお祭ですから。どうか」
「お祭か」
 しかしザックスには怒ったものがなかった。
「そういえばそうだったか」
「あれっ!?」
 ここでダーヴィットはやっと気付いたのだった。
「親方何かおかしいぞ。今日は」
「ダーヴィット」
 首を傾げる彼にまた言うザックスだった。
「それでだ」
「あっ、はい」
「言えるか?」
 今度はこんなことをダーヴィットに尋ねてきたのだった。
「御前の宣言の句を。どうだ」
「宣言の句ですか」
「そうだ」
 こう彼に言うのである。
「それだ。どうだ?」
「はい、それでしたら」
 だーヴィットは気持を切り替えてすぐに歌いはじめた。
「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネは立たれ」
「むっ!?」
 ここでダーヴィットはついついベックメッサーの昨夜の歌を思い出しその旋律で歌ってきたのだった。ザックスはそれを聞いてすぐに目を顰めさせたのだ。
「何だ今のは」
「あっ、すいません」
 歌ったダーヴィットもここで気付いた。
「混乱していました。昨夜の騒ぎがまだ頭に残っていまして」
「ではすぐにそんなものは落とすのだ」
「はい、それでは」
 姿勢を正してそのうえで最初から歌いはじめた。
「ヨルダンの岸辺に聖ヨハネは立たれ世の全ての人に洗礼を行う」
「そうだ」
 ザックスも今の彼の歌に頷く。
「遠き国より一人の女がニュルンベルグより歩み寄り」
 だーヴィットはとうとうと歌を続ける。
「男の子を抱いて岸辺に至り彼の洗礼と命名を受ける」
 こう歌うのだ。
「そして彼女が子と共に故郷に戻りやがてドイツの国にありてはヨルダンの岸辺でヨハネと名付けし者をペグニッツの丘でこう呼んだ」
 そしてその名前がだった。
「ハンス?そう、ハンスです」
 歌いながら気付いたのだった。
「親方、そうなんですよ」
「何だ?」
「今日は貴方の命名の日ですよ」
 このことに気付いて彼に声をかけるのだった。
「今日なんですよ、今気付きました」
「そういえばそうだったかな」
 ザックス自身も今気付いたのだった。口に手を当てて考える顔になっていた。
「今日か」
「それじゃあです」
 早速まだ手に持っていたその花とリボンを差し出すのだった。どちらも同じ籠に入っているので手渡すのは実に楽に済むのだった。
「これを。どうぞ」
「花とリボンをか」
「それだけじゃありません。レーネから貰った」
「うん」
「お菓子とソーセージも」
 自分がかなり食べてしまったのは内緒だった。
「ありますよ」
「有り難う」
 まず弟子に対して礼を述べた。
「しかしだ」
「何ですか?」
「全部御前が取っておくことだ」
「全部ですか」
「そう、全部だ」
 こう彼に言うのである。
「そしてだ。今日のことだが」
「はい」 
 話がここで動いた。
「私と共に牧場に行くぞ」
「そのお祭が行われる牧場ですよね」
「そうだ。そこでその花やリボンで飾って」
 ダーヴィットが飾れということだった。
「そして私の先触れを務めるのだ。いいな」
「有り難うございます。そして」
「何だ?」
「御願いがあるのですが」
 ザックスが機嫌がよくなったと見てまた調子に乗ってきたダーヴィットだった。
「花嫁介添人ですが」
「花嫁介添人だと」
「是非私をそれにして頂けますか?」
 調子に乗っているが礼節は守っていた。
「是非共」
「どうしてだ、それは」
「親方、親方はです」
 真面目な顔になって彼に告げてきた。
「もう一度結婚されてるべきです」
「結婚か」
「そうです」
 また師匠に対して言うのである。
「如何でしょうか、それは」
「再婚をしろというのか」
 その真面目な顔のダーヴィットを見つつ言うのだった。
「私に」
「駄目ですか?」
「おかみさんが家にいた方がいいのかい?」
「その方がずっといいと思いますよ」
 さらにザックスに対して告げるのだった。
「是非共」
「そうだな」
 しかしザックスの返答ははっきりしたものではなかった。
「その時が来ればいい知恵も浮かぶだろう」
「今がその時ではないんですか?」
「だったらいい知恵が浮かぶだろう?」
 やはり返事は要領を得ないものだった。
「その時だったらな」
「あのですね。もう町の噂で」
 だーヴィットは師匠のそうしたぼやけているような返事を聞いているうちにたまりかねて言い出した。
「言われているんですけれど」
「何がだい?」
「親方ならベックメッサーさんにも勝てる」
 こう言うのである。
「そう。言われていますよ」
「書記さんにか」
「そうです」
 また答えるのだった。
「ですから。今日は」
「そうかもな」
 やはり何か要領を得ないザックスの返答だった。
「それはな」
「でしたら」
「それよりもだ」
 ザックスの方で話を変えてきた。
「騎士殿のことだが」
「騎士殿ですか」
「そうだ。呼んできてくれ」
 こう弟子に言うのだった。
「すぐにな。いいな」
「わかりました。それでは」
「そして今日の仕度をしておくことだ」
 このことも弟子に告げた。
「いいな。それでな」
「はい、それじゃあ」
 ダーヴィットは一礼してからそのうえでその場を後にした。ザックスは一人になると呟くのだった。また窓に顔を向けてそのうえで思案しながら。
「迷いだ。何処にも迷いがある」
 まずはこう言うのだった。
「町の記録や世界の年代記。そういうものに目を通し」
 博学なザックスはそうしたものも読んでいるのだった。
「それなのに何故人は訳もなく激しい怒りに襲われて」
 そのことを悲しくさえも思うのだった。
「血を流すまでに戦い、苦しむのか」
 さらに言うのだった、
「その原因を考えると結局全ては迷妄からだ」
 答えはわかっていた。
「何人も報われず、感謝もされず」
 悲しみと共に話す。
「逃げ回りつつ追いかけている気で我が身の肉をえぐりながら」
 言葉を続けていく。
「己が悲鳴も耳に入らない。悲しんでいるのだと思い違えさえして」
 さらに考えていく。
「この有様を何と呼ぶべきか。昔から考えているが」
 しかしなのだった。
「これがなければ何もはじまらない。ことが上手くいくかいかないかは」
 考えを及ばせていく。
「それはまた別のことだ。ことが上手く運んでいると迷いは眠り力は蓄えていく」
 迷いが消えたわけではないのだった。
「一旦目覚めると生贄を求める。愛するニュルンベルグはこのドイツの中央にあり」
 当時はそうなのだった。
「純朴の風習の中に平和にその仕事にいそしんでいる。だが」
 前を見詰めながらの言葉だった。
「ある夜遅く若きにはやる人々の不幸な事件を防ごうとし」
 ヴァルターとエヴァのことだ。
「その術を知らざる男がいる」
 今度は自分のことだった。
「一人の靴屋が店の中で迷いの糸を塗っている」
 やはり彼自身のことだった。
「じきに彼は横町や通りで怒りはじめ」
 あの夜のことだ。
「誰も彼もが気が狂ったように競い合い迷いは人々を祝福し」
 あの夜のことを話し続ける。
「拳の雨が降り注ぎ殴り打ち押して揉んで」
 騒動を具体的に思い出していく。
「そして怒りの炎を消しとめようとする。魔物が手助けをしたのか、どうしてそうなったのか」
 あの夜の騒ぎもまた思い出す。
「誰にもわからない。蛍の雄が雌を見つけ損なってそれが大損害をもたらした」
 次に言う言葉は。
「にわとこの香りのせいか。祭の前夜の。しかし」
 ここでまた言う。
「この日は来た。そこでハンス=ザックスが迷いを巧みに操って気高い仕事をするのだ」
 また己のことだったが今度は決意だった。
「この迷いはニュルンベルグに於いてさえ人の心を騒がせるものだが気高い仕事もまた」
 言葉はまだ続く。
「卑しいことから遠ざかるが幾らかの迷いを以って成功するのだ」
「どうも」
 ここでヴァルターの声がしてきた。
「おはようございます」
「これはまた」
 ザックスは彼の方を振り返って立ち挨拶を返すのだった。
「おはようございます」
「はい」
 それぞれ穏やかな笑顔で言葉を交えさせるのだった。
「よく眠られましたか?」
「はい、おかげさまで」
 ヴァルターはにこりと笑って彼に応える。
「何とか」
「それは何よりです」
 ザックスも彼の言葉を聞いて微笑む。
「では御気分は」
「ええ。それでです」
 ここでヴァルターは言うのだった。
「私は素晴らしい夢を見ました」
「おお、それはいいことです」
 ザックスは彼の今の言葉を聞いて思わず声をあげた。
「それはいい前兆です」
「いいのですね」
「そうです。ですからどうか」
 そしてまたヴァルターに話すのだった。
「その夢についてお話下さい」
「ですが」
 しかしここでヴァルターはその首を少し捻るのだった。
「それを考えて見て」
「ええ」
「それさえも躊躇います」
「何故ですか?それは」
「考え、見ることで消えてなくなることが恐ろしいのです」
「いえ、それは違います」
 しかしそれは違うと彼に話すザックスだった。
「詩人の創作というものは彼が見た夢を解釈し、記すことなのです」
「そうなのですか」
「そう。人間のもっとも真実の迷妄は夢の中に現われるのです」
 こう語るのだった。
「詩の芸術というものは真の夢の解釈なのです」
「真のですか」
「そうです。貴方が今日夢を得たということは」
「はい」
「マイスタージンガー、すなわち」
 言葉をさらに続けていく。
「勝利者になれということかも知れません」
「いえ、ですが」
 しかしここでヴァルターは首を捻りまた言うのだった。
「私の夢はです」
「どうだったのですか?」
「組合やマイスタージンガー達についていささかの感激も持たないものなのです」
「ですがです」 
 それでもまだ言うザックスだった。
「勝利を得るのに必要な呪文を教えてくれませんでしたか?」
「夢がですか」
「そうです」
 そこを問うのだった。
「夢がです」
「あの様な破綻の後で」
 ヴァルターは今のザックスの言葉にいぶかしみながらまた言ってきた。
「まだ希望があると?」
「希望はあります」
 しかしザックスはまた彼に告げた。
「希望を捨てる原因は何処にもありません」
「何処にもですか」
「そう、何処にもです」
 また言うのだった。
「貴方達の駆落を妨げる理由がなければ」
「ええ」
「私も共に逃げたでしょう」
「共にですか」
「ですが私はそうはしませんでした」
 だからだというのである。
「ですから御怒りを鎮めて下さい」
「この怒りをですね」
「そうです。そのうえでまたお話しましょう」
 そのうえでまた話すのだった。
「貴方のその怒りの源の方々ですが」
「あの人達のことですか」
「そうです」
 ヴァルターがその顔を顰めさせるのを見ながらの言葉だった。
「あの方々は敵ではありません」
「敵ではないというのですか」
「そうです」
 こうヴァルターに教えるのだった。
「むしろ尊敬すべき方々です」
「あの人達がですか」
「ただ」
 ここでザックスの言葉が少し変わった。
「彼等は他人も自分達と同じだと考えているのです」
「そう、それです」
 ヴァルターもまたそれを言うのだった。
「ですからそれは」
「勘違いをして意見を変えないのです」
 そしてザックスもまた言う。
「また賞を定めてそれを与えるものも」
「ええ」
「自分の気に入る者を選びたがるのです」
「それもなのですね」
「貴方の歌は彼等を不安にしました」
 それも話す。
「それも当然のことです」
「当然ですか」
「そうです、当然なのです」
 また話すのだった。
「考えてみればあのような詩や愛への情熱はです」
「それですね」
「若い娘を冒険に誘惑するのはいいのですが」
「それにはいいとしても?」
「愛に満たされた二人の為にはもっと別な言葉や旋律を選ぶものです」
「そうした言葉ですが」
「ええ」
 ここで微笑んだヴァルターに応えた。
「それに旋律は昨晩知りました」
「そうでしたか」
「横町では随分騒ぎになりましたから」
「ははは、確かに」
 ザックスもそれは知っていた。知っていたからこそ笑うのだった。
「それでもです」
「それでも?あの騒ぎでも何かあったのですか?」
「それに対する拍子もおわかりになられたと思います」
 言うのはこのことなのだった。
「ですがその話は止めておいて」
「はい」
「私の言葉を聞き入れてマイスターの歌曲を作って下さい」
「マイスターのですか」
「そうです」
 こうヴァルターにアドバイスするのだった。
「それをです」
「美しい歌曲とマイスターの歌曲」
 ヴァルターは彼の言葉を受けて考える顔になって述べた。
「この二つをどう区別するのですか?」
「楽しき青春の日にこよなく幸福な初恋の力強い衝動が胸を豊かに膨らませる時にです」
「その時にですか」
「そうです、美しい歌曲を歌うことは多くの人にもできることでしょう」
 このこと自体はというのだった。
「春が我々の為に歌ってくれるのですから」
「春がですか」
「そうです。そしてです」
 ザックスはさらに話してきた。
「夏が来て秋が来て冬が来て」
「季節が移ろいで」
「多くの心労や苦しみと共に結婚生活の幸福も訪れ」
 話をあえてそこにまで及ぼさせた。
「子供の洗礼、商売、喧嘩や争い」
「そういったものもですか」
「そうです。この中から美しい歌を作ることはです」
 話はさらに続く。
「マイスタージンガーにしてはじめてできるのです」
「私はです」
 ヴァルターは彼の言葉を受けまた語りだした。
「一人の女性を愛し結ばれ」
「そして?」
「よき夫となりたいと考えています」
「それではです」
 多少思い詰めた顔で語りだしたヴァルターに対して語るザックスだった。
「マイスターの規則を習って下さい」
「マイスタージンガーのですか」
「規則は貴方を導き貴方が若い時に青春や歌の優しい衝動が
 また話が続く。
「知らぬうちに心の中に植えつけたものを失わぬように守っておいてくれるのです」
「それではです」
 ヴァルターはザックスの言葉を聞いているうちにふと気になることを言葉に出すのだった。
「そのように名誉ある規則を誰が作ったのですか?」
「貧しい生活を送るマイスタージンガー達です」
「マイスタージンガー達がですか」
「そうです、人生の苦しみに疲れた精神が」
 言葉は少し深刻なものになってきた。
「その荒々しい暮らしの苦しみの中に青春の日と愛の思い出がはっきりと変わらずに残り」
「そうして」
「それがいつも春を認めるような一つの図を作り出したのです」
「それはわかりましたが」
 ヴァルターは今のザックスの言葉を聞きながらまたザックスに問うた。
「青春がずっと前に逃げ去ったような人はです」
「そうした人はですか」
「そうです、そうした人はどうしてその図を手に入れることができるのですか?」
「そのような人はです」 
 ザックスはこのことに関しても説明するのだった。
「その図を出来るだけしばしば新鮮にするのです」
「新鮮にですか」
「そうです、若し貴方が貴方の歌を説明して下されば」
 またヴァルターに対して話すのだった。
「貧しい生活を送るこの私がです」
「貴方がですか」
「そう、規則を教えさせて頂きましょう」
 ヴァルターへの話はこれであった。
「ここにペンとインクがあります」
 机の引き出しを開けて取り出してきた。
「貴方が仰って下さったことをここに書き取りましょう」
「それはいいのですが」 
 こう言われても難しい顔を見せるヴァルターだった。
「私にはわからないのです」
「どのようにしてはじめたらですか」
「そうです。マイスタージンガーのことは」
 その難しい顔でまた語るのだった。
「何しろ昨日も失敗していますし」
「何、難しいことを考えられることはありません」
 しかしザックスはこう彼に話す。
「貴方が御覧になられた朝の夢を物語って下されば」
「貴方達の規則の立派な御言葉を伺い」
 またヴァルターは難しい顔で言うのだった。
「私の夢は消えてしまったようです」
「そういう今こそです」
 そんなヴァルターを励ますのだった。
「詩を作るべきなのです」
「その時にですか」
「そう、その時にです」
 ザックスの言葉が強くなる。
「それによって失われた多くのものも見出されてくるでしょう」
「それは夢ではなく詩の為の作りごとになるのではないですか?」
「そうです」
 そのヴァルターの言葉に頷くのだった。
「この二つの仲のいい友達は互いに助け合うのです」
「それでは」
 話を聞いたうえでまた話すヴァルターだった。
「規則に従うとすればどうやってはじめるのですか?」
「貴方が御自身で規則を作られ」
 このことも説明するザックスだった。
「それに従うのです」
「私が作った規則にですか」
「そうです」
 語るザックスだった。
「朝に御覧になられた楽しい夢を思い出して下さい」
「その夢をですか」
「そうです、他のことはこのハンス=ザックスが心配しましょう」
「それではです」
 ヴァルターもそれを受けてはじめようとする。
「はじめさせて頂いて宜しいですか?」
「どうぞ」
「はい、それでは」
 ザックスの言葉を受けてはじめようとする。ザックスはまた椅子に座りペンを手に取りそのうえで書き止めようとする。そのうえでヴァルターは歌いはじめるのだった。
「大気は花の香りに膨れえも知らぬ快さに満たされて庭は私を誘い引き寄せる」
「それは一つのシュトルレンでした」
「これがですか」
「そうです」
 ザックスの教え方は丁寧で親切であった。
「それではその次にです」
「次には」
「これと同じ形の節が来るようにです」
「同じ形の節がですか」
「はい、そのように」
「何故ですか?」
 ヴァルターはその理由を問うのだった。
「同じでなければならないのは」
「貴方が貴方と同じ様なことをです」
「私が?」
「そうです。人々に花嫁を得ようとしていることをわかってもらう為にです」
「では」
 ザックスのその言葉を受けてまた歌うのだった。
「幸ある園に生生とそびえ黄金為す実を豊かに実らせ」
「そう、そうしてです」
「風に快き枝を生やし人を誘う大樹あり」
「同じ音で終わっていませんでした」
 ザックスの指摘は少し厳しい。
「マイスタージンガー達はそれを嫌うのです」
「そのようですね」
 これは昨日のことで少しわかってはいた。
「ですがハンス=ザックスは教えられます」
「音のことをですね」
「春にはそうあってよいのでしょう」
 こう語るのだ。
「さあ、次にはアップゲザングです」
「それはどういうものですか?」
「成功したかどうかは一組の夫婦が子供達に現われるのです」
「子供達とは!?」
「シュトルレンと似ていますがそれと全く同じではなく」
 こういう意味であった。
「固有の韻や旋律に豊かです」
「だから子供なのですか」
「その通りです」
 ザックスはわざと家族に例えて教えてみせたのである。
「そして自立しすくすくと育てばです」
「そうです」
「それが両親の喜びなのです」
 こうも説明するのだった。
「これで貴方のシュトルレンも結末がついて何も欠けることがないようになります」
「はい。それではそれを活かして」
「またどうぞ」
「それでは」
 ザックスの言葉を受けてまた歌いはじめる。それは。
「我が妙なる奇蹟を語ろう。見も得ざりし美しき乙女」
「美しき乙女」
 今書き留めている。
「我が傍らに立てり。彼女は花嫁の如く我が身体を抱き眼差しも語り掛け」
「そう、その調子です」
「白き腕もて示すはかの生命の大樹に実った我がひたすら望みし尊き美味の果物にてありき」
「これなのです」
 ザックスはここまで聴いて会心の言葉を出した。
「これが本当のアップゲザングです」
「これがですか」
「そうです。完全なパールが出来上がりました」
 こうまでヴァルターを褒め称えるのだった。
「旋律は少し自由に過ぎますが」
「はい」
「私はそれが誤りだとは思いません」
「誤りではないのですね」
「ただしです」
 しかし言葉を付け加えはしてきた。
「覚えるのが難しい歌ですので私達のうちの幾人かはそれを怒るのです」
「そこをですか」
「そこは御注意を」
「わかりました」
 またザックスの言葉に対して頷いて答えた。
「それではここは」
「はい。そしてです」
 ザックスはさらに彼に促してきた。
「第二のパールをです」
「第二のですね」
「そうです。そうして第一番がどうであったかを」
 このことについて話すのも忘れてはいなかった。
「皆に判るようにさせるのです」
「皆に」
「マイスタージンガーだけではなく」
 このポイントを強調するのだった。
「判るようにです」
「わかりました」
「今までの所は上手く韻がついていましたが」
「はい」
「全体に何を夢見、何を詩作したのか」 
 言う部分は細かかった。
「私にもまだわかりませんから」
「だからなのですね」
「はい、お願いします」 
 また歌うように促す。
「是非」
「では」
 こうしてまた歌いはじめるヴァルターだった。構えて歌いはじめる。
「夕となれば空は火と消え日は私を残して去りゆく」
「そうです」
「彼女の瞳より歓喜を吸わんとひたすら願い抑え難く」
 歌は続く。
「夜の闇に囲まれ見る事を得ず。されど二つの明るき星が遠く彼方より煌きて」
「その調子です」
「細き枝の間より遠くて近きが如く我が顔を照らす」
 さらに歌っていくヴァルターだった。
「静かなる丘に美しい泉があり優しき音が高まっていく」
「そして」
「かく高らかに美しき音聴きしことなし。輝かしく星は煌き明るく照らす」
 そして歌は最後に入る。
「木の葉にも枝の間にも黄金が集まりて踊り狂うその群れは黄金の果実には非ず。月桂樹に煌く星の群れなり」
「これでわかりました」
 ザックスは最後まで聴き終えてから深い感動を以ってヴァルターに告げた。
「貴方の夢見たものはです」
「はい」
「貴方に真実を示してくれました」
「真実をですか」
「真実を歌う歌こそが最も美しい」 
 ザックスはここでヴァルターの目を見て語った。その澄んだ青い瞳を。
「そうして歌に出るのですから」
「だからですか」
「はい。ですから」
 さらにヴァルターに言ってきた。
「今度は第三のパートを作りませんか?」
「第三のですか」
「そうです」
 こうヴァルターに勧めるのだった。
「それは夢の解釈をつなげるものです」
「ですが」
 しかしここで彼は困った顔になるのだった。
「今は」
「休まれたいですか」
「はい、いささか疲れてしまいました」
 こうザックスに告げるのであった。
「ですから今は」
「わかりました」
 ザックスもまた笑顔で彼の言葉を受け入れそのうえで言うのだった。
「それではお休み下さい」
「はい、わかりました」
「しかしです」
 だがここでまた彼に言い加えるのだった。
「節はよく覚えておいて下さい」
「節をですね」
「そうです。その節なら」
 彼はさらにヴァルターに話す。
「詩句もよくできますから」
「詩句もなのですね」
「そうです。そして民衆の前で歌う時は」
「その時は」
「夢の図をしっかりと捉えておいて下さい」
「夢の図を」
 話を聴くヴァルターの顔がさらに真剣なものになる。
「心の中にですか」
「それがそのまま歌に生きます」
 またヴァルターに話す。
「だからなのです」
「わかりました。それでは」
「では私は」
 ヴァルターにここまで告げると部屋を後にしようとする。ザックスはその彼に対して声をかけて尋ねるのだった。
「お待ち下さい。どちらへ」
「貴方の忠実な友人がです」
「友人というと」
 この言葉でそれが誰かすぐにわかった。
「彼ですね。あの」
「そうです。ダーヴィットです」
「やはり。彼でしたか」
 ザックスの今の言葉を聞いてあらためて頷くのだった。
「彼が持って来てくれたのですか」
「お宅で結婚式の時に着られるという晴れ着をです」
「あの服をですか」
「ポーグナーさんのところに持って来ておられましたね」
「はい」
 ザックスの今の言葉に素直に頷いた。
「その通りです故郷を引き払う時に持って来ることができるものは全て持って来ました」
「ですからそれをです」
「そうですか。それを持って来てくれたのですか」
「その通りです。ですからそれを」
「有り難うございます」
「ですから」
 ザックスはここでヴァルターも誘うのだった。
「是非こちらの部屋に」
「服の衣装合わせにですね」
「その通りです。その為にです」
 また語るザックスだった。
「ですからこちらに」
「はい。それでは」
 ヴァルターも静かに彼の言葉に頷くのだった。
「私も。そちらへ」
「私もまた着替えましょう」
 ザックスは穏やかな声で述べた。
「この晴れやかな日の為に普段着慣れているこの服を脱ぎ」
「晴れ着にですね」
「それはその時にこそあるものです」
 こう語るのだった。
「ですから。是非」
「はい、では」
 こうして彼等は隣の部屋にと向かった。そうしてそこで着替えるのだった。二人が部屋から消えるろ暫くしてもう立派な服を着て背中にリュートを背負っているベックメッサーがやって来た。確かに黒く立派な絹の服と腰までのマントで着飾っているがその足取りはふらふらとしている。そしてやたらと部屋の中をせわしなく見回していた。そうして部屋の中央の机の上に先程までザックスが書いていたヴァルターの詩を見るのだった。
 その詩を見た彼は。顔を顰めさせて言った。
「これはザックスさんの字ではないか。ではやはり」
 顔を顰めさせたところで隣の部屋の扉が開いた。彼はそれを見てギョットした顔になったがここでザックスだったのでとりあえずは落ち着きを取り戻した。
「おや、ベックメッサーさん」
「はい、私です」
「今朝もこちらにですか」
「おはようございます」
 とりあえずザックスに対して挨拶はした。
「今朝もお元気なようで」
「はい、おはようございます」
 ザックスもまたすぐに彼に返事を返した。
「それで靴のことですが」
「底が薄いですぞ」
 またここで顔を顰めさせてザックスに告げるのだった。
「砂利まで感じてしまいます。どうにかなりませんか?」
「私の審判員としての格言がそうさせたのでしょう」
 しかしザックスは平然として彼に言葉を返すのだった。
「審判の採点が靴底をそうさせたのです」
「それはもういいです」
 昨夜のことなぞ思い出したくもないのだった。
「全く。ザックスさん」
「今度は何ですか?」
「今度ばかりは貴方に対して悪い感情を抱いてしまいましたよ」
「今度ばかりはですか」
「今までは確かに対立することもありましたが尊敬していました」
 苦い顔でザックスに告げる。
「しかし昨晩のあれは」
「あの大騒ぎですか」
「あれは貴方が仕組まれたことではないのですか?」
 彼にしても事情が全くわからないので勝手にこんなふうに思っているのである。
「だとすれば少し悪質に過ぎませんか?あれだけの騒ぎを起こされて平然とされておられるのは」
「いや、それは誤解です」
 ザックスは彼の言葉に右手を制止する仕草で前に出してそれは否定した。
「何故私がそんなことをする必要があるのです?」
「では違うと仰るのですか?」
「はい」
 はっきりと述べるのだった。ここでも。
「それはありません」
「本当ですか?」
「ですから意味のないことです」
 また答えるザックスだった。
「そんなことをしても。違いますか?」
「ううむ」
「それに昨夜は今日の前夜祭ですよ」
「それも関係あるのですか?」
「あります。お祭のことが皆の頭の中にあったのでしょう」
 こう語るのだった。
「騒ぎが酷ければ酷いだけ」
「酷いだけ?」
「今日が楽しいものになります」
「だといいのですけれどね」
 口をへの字にさせて述べるベックメッサーだった。
「そうであれば」
「まだ何か思われるところが?」
「勿論あります。貴方はそもそもです」
「はい、私は」
「私に何か思うところがあるのではないですか?」
 右の人差し指を振りながら問うのだった。
「はじめから私の敵で邪魔をする為に」
「ですからそれは誤解ですよ」
「誤解ではありません」
 またそれは否定するザックスだった。
「何を根拠にして」
「貴方は今お一人だ」
 今度はこのことを言うのである。
「私と同じ」
「ははは、同志ですな」
「いい意味ではないのが残念です」
 今彼が言える精一杯の皮肉であり嫌味だった。
「男やもめ同士なのに私に嫉妬されて」
「私が書記さんをですか」
「ですからとぼけないで下さい」
 彼もいい加減頭にきていた。
「乙女を手に入れようとされていますね」
「まあ相手がいれば」
「そう、相手がいます」
 彼はここぞとばかりに指摘した。
「相手が。つまりはです」
「何を仰りたいので?」
「私のかわりに花嫁を手に入れようと」
 じろりとザックスを見据えての言葉であった。
「そう考えておられてです」
「そして?」
「昨晩のことを仕組まれたのです」
「ふむ。推理ですな」
「はい、私は推理にも自信がありますぞ」
 痛む身体だが何とか気取ってみせてきた。
「その推理によればです」
「昨夜の黒幕は私だと」
「全ては私を陥れる為に」
 ずばりといった調子でその右の人差し指でザックスを指差してみせるがその動作だけで身体が痛んだ。
「企んでおられ実行に移された。その結果私は」
「随分痛いようで」
「痛いだけではありません」
 ここで口を尖らせる。
「もう皆今の私の歩き方や姿を見て何があったのか噂し」
「災難ですな、実は」
「そう。しかし私は災難には負けません」
 ひいてはザックスにというのだった。
「今日の歌合戦に出られたら」
「私がですか」
「そう、私が勝ちます」
 あえてまだ痛んで仕方のない胸を張ってみせる。
「貴方の不正に打ち勝つ為に」
「それは誤解です」
 ザックスは穏やかな声でベックメッサーに返した。
「何度も申し上げますが」
「誤解だというのですね」
「私がそんなことをするとでも?」
「少なくとも今はそう思っています」
 疑念を隠すことは最早してはいない。
「完全に」
「私は今日の歌合戦には出ません」 
 彼は言うのだった。
「絶対に」
「絶対にですか」
「そうです」
 確かな声で語ってみせていた。
「何があろうともです」
「どうでしょうか」
 こう言われてもまだ信じようとしないベックメッサーだった。
「何しろ貴方はです」
「おや、まだ気にしておられるのですか?」
「信じられませんな」
 その読みをまた言葉に出してみせる。
「何しろ。昨日のことがありますから」
「ですから誤解ですよ。ましてや求婚などと」
「では今日は歌われないのですか?」
「はい」
 はっきりと答えてみせる。実際にその気がないから当然だった。
「そうですよ。何があっても」
「本当ですか?」
「おや、まだ信じて頂けないのですか?」
「そうそう迂闊には」
 ベックメッサーの警戒の念は強いものであった。
「いきませんな」
「競争の為には歌いませんよ」
「求婚の歌もですか」
「その通りです」
 またはっきりと答える。
「全く」
「ではこれは?」
 ここでテーブルの上の歌詞を指差してみせるのだった。
「これは何ですかな」
「おや、それは」
「ザックスさんの字ですね」
 まるで証拠を突きつけるように問い詰めてきた。
「これは間違いなく」
「それはその通りです」
「まだ書いたばかりのようですな」
 今度はインクの乾き具合を見て問い詰める。
「これは」
「そうですな。今書いたばかりですからその通りです」
「これは聖書の歌ではありませんな」
「何処からどう見ても」
 また答えるザックスであった。
「そう思う人がいたらおかしいでしょう」
「それならです」
「どうしてでしょうか」
「私に聞かれても困ります」
 ザックスの目を見据えてきた。
「つまりこれこそ証拠です。貴方は嘘をついておられます」
「言っておきますが」
 ザックスもベックメッサーの目を見返して言い返してきた。
「私は今だかって」
「今だかって?」
「嘘をついてことはありません」
「今ついていませんか?」
「若しそこまで仰るならです」
 ここでふと思いついて策を仕掛けることにしたのであった。
「その歌は差し上げましょう」
「この歌をですか」
「はい、そうです」
 こう答えるのだった。
「どうぞ」
「宜しいのですか?」
「私の潔白の証として」
 こうまで述べてみせる。
「どうぞ」
「本気ですか?」
「私がこうした時には決して冗談を言うことはない」
 ザックスははっきりと言い切ってきた。
「それは御存知の筈ですが」
「それは確かに」
 ザックスのそうした性格もまた知っている。ベックメッサーも彼との付き合いはかなりの長さになっているからである。知らないわけではないのだ。
「ではこの歌を頂けるのですね」
「はい」
 わざわざその歌を書いた紙を手に取りベックメッサーに対して差し出してきた。
「どうぞ」
「この歌を私にですか」
「そうです。どうぞ」
 またこう言って差し出すのだった。
「差し上げますよ」
「ハンス=ザックスの作った歌詞をですか」
 ここでベックメッサーは歌詞を見つつ驚いたような声をあげた。
「ううむ。まさか本当に」
「何を驚かれているのですか?」
「これが驚かずにいられるでしょうか」
 彼はこうまで言うのだった。
「貴方の作られた歌詞ですぞ」
「ええ。それが何か?」
「それがどれだけ価値のあるものか」
「私の歌詞にですか」
「御存知ないのですか?」
 ザックスがわからないふりをしていることに気付かず少し引いて目を顰めさせたうえで問うのだった。
「そのことを」
「ですから何をですか?」
「貴方の歌詞はマイスタージンガー達の中で最も素晴らしいものです」
 こうザックスに対して告げるのだった。
「貴方が一番なのですよ」
「私がそうだったのですか」
「そうですよ。その貴方の歌を頂ける」
 彼はまた言った。
「そうなれば今日は勝ったようなものですが」
「ですからどうぞ」
「しかしです」
 流石に先程までのことがあり彼も用心深くなっていた。それでまた問い詰めてきた。
「貴方はです。昨日は私の敵でしたし」
「ですからそれは誤解です」
 彼はまたベックメッサーに告げた。
「貴方の」
「そんなことはありません」
 とにかくまだ疑い続けているベックメッサーだった。
「私はです。ただ好意で」
「昨日あれだけのことを私にされてもですか?」
「誤解なのですがね。その証拠に」
「今度の証拠は一体?」
「貴方の為に夜遅くまで靴を作っていたではありませんか」
「靴を」
「そうですよ。御覧になられていましたね」
 今度はこのことをベックメッサーに対して話す。
「それは御傍で」
「まあそうですけれど」
「ではおわかりの筈です」
 またここぞとばかりに話してきた。
「私の好意を」
「では貴方は私の為に」
「はい。ですからどうぞ」
 再度その歌詞を書いた紙を彼に差し出してきた。
「この歌を」
「そこまで仰るのなら」
 ここで遂に信じだしたベックメッサーだった。
「受け取らせてもらいます」
「はい、是非」
「ただ。一つ申し上げておきますが」
 ようやく歌詞を受け取っての言葉であった。
「これは貴方の歌とは誰にも言いませんので」
「ええ、そうして下さると何よりです」
「あくまで。私の歌詞ということで」
 完全に自分のものに、ということだった。
「それで宜しいですね」
「はい、そうして頂けると私も何よりです」
 自分でも微笑んでみせてベックメッサーに話す。
「こうしたことは内密にしておくに限りますから」
「ええ。ではそういうことで」
「ただしです」
 ここでザックスは咎めるような顔になって述べてきた。
「御注意を」
「注意とは?」
「この歌は難しい曲ですぞ」
「ほう、そうなのですか」
 だがベックメッサーはそれを聞いても平気な顔であった。
「この歌が」
「ですからよく稽古をされてよい旋律を身に着けて下さい」
「ああ、それなら大丈夫です」
 しかしベックメッサーはこう言われても涼しい顔をしていた。
「貴方は確かに素晴らしい歌詞を作られます」
「それは有り難うございます」
「ですが旋律にかけては」
 彼は言うのだった。
「私以上の者はいません」
「それは確かにそうですが」
「それは貴方も御存知の筈です」
 胸を張って告げるのだった。
「私はマイスタージンガー随一の旋律の作り手ですぞ。ですからこれに関してはです」
「問題ないと」
「その通り。私はマイスタージンガーの歌のあらゆる旋律を知っております」
 この辺りの知識と教養には絶対の自信があるのだった。
「これについては誰にも負けませんよ」
「つまりこれまでの旋律ならばということですね」
「その通り。あの無鉄砲な騎士殿」
 ヴァルターのことであるのは言うまでもない。
「あのような歌ではいけないのです。ですからまあ見ていて下さい」
「見事歌いきられるというのですね」
「その通り」
 また胸を張って宣言さえした。
「綴りも韻も言葉や節も」
「全て問題ないのですね」
「その通り」
 気取りは続く。
「私はです。旋律には絶対の自信がありますから」
「まあそこまで仰るのなら」
 ザックスも内心ではわかっていたがここではあえて頷くのだった。
「私から言うことは」
「はい。ではこれは有り難く受け取っておきます。そして」
「そして?」
「この御礼は忘れません」
 彼はまたザックスに言う。
「決して。今度の記録係の試験には貴方に一票入れますので」
「それはどうも」
「ではそういうことで。それではまた」
 恭しく一礼してそのうえで上機嫌でザックスの家を後にする。ザックスはそんな彼を見送ってそのうえで首を傾げつつ言うのだった。
「正直その歌は今までの旋律では歌えないのだが。まあいい」
 彼はまた言う。
「これで話はやりやすくなった。おや」
「親方、おはようございます」
 ベックメッサーと入れ替わりにエヴァが来た。そうしてザックスに対して頭を垂れてそのうえで一礼するのであった。
「いい朝ですね」
「そうだね。何といい朝なんだろうか」
 これまでの考える顔を消してにこやかに笑ってエヴァに挨拶をかえした。
「朝からそんな美人を見るとはね」
「お世辞は止めて」
 こうは言っても顔は微笑んでいた。
「私はそんな」
「いやいや、その服も靴も」
 普段のとは違っていた。輝くばかりの白衣であり金や銀の装飾や模様がその服のあちこちにある。そして靴もザックスが特別に作った白い可愛らしい靴である。
「見事なものだよ」
「そうなの。そんなに」
「うん。あらためておはよう」
 この言葉は忘れてはいなかった。
「そんなに奇麗だと若い者も年寄りも皆目を奪われてしまうよ」
「それはいいけれど」
 しかしそれを聞いてもエヴァの顔は今一つ明るくはなかった。
「けれど靴が当たって痛みを感じるのは誰もわかってはくれないわ」
「しまった、それは私の失態だ」
 エヴァの今の言葉を聞いて慌てて言うザックスだった。
「その靴は。これはすまない」
「立っていると歩きたくなるけれど歩くと立ち止まりたくなるの」
「どういうことだい、それは」
 それを聞いてもわからないふりをしながらまた言うザックスだった。
「まあこの腰掛けに座って」
「ええ」
 実際に椅子に座ってみせる。
「それで見せてくれるかな」
「ええ、どうぞ」
 エヴァはザックスの差し出した椅子に座った。そうして足を差し出す。ザックスはその前に跪いてからそのうえでまた彼女に問うのだった。
「それでどんな具合かな」
「靴が緩過ぎるでしょう?」
「いいや」
 靴だけを見るふりをしての言葉である。
「ぴったりだけれどな」
「私も最初はそう思ったわ」
 今度はこう答えるエヴァだった。
「けれどね。指のところがきついのよ」
「指がかい」
「そうなのよ。指が」
「左の方がかい?」
 靴を履いたその足を触りながら尋ねてきた。
「この辺りかい?」
「いいえ。右よ」
「甲の方じゃないんだね?」
「踵の辺りもよ」
「こっちの踵の方もかい」
「そうよ。それにこういうことは」
 エヴァは少し怒った声でまたザックスに告げる。
「私よりずっとわかっている筈だわ」
「エヴァちゃんのことなのに私がかい?」
「靴のことだからよ」
 こう怒った声で話すのだった。
「緩過ぎて、けれどきつ過ぎるなんて」
「ふむ、矛盾しているな」
「ええ、不思議だわ。こんなことって」
 そんな話をしているとここで部屋にヴァルターが入って来た。金と銀の輝かしい礼服を着ておりマントは絹のものだった。見事な黒い羽根帽子まである。普段以上にさらに立派なその姿を見てエヴァはオも割る息を飲んでしまった。
「ああ、ここだ。ここだったよ」
 ザックスはそんなエヴァに気付かないふりをしてヴァルターに背を向けたまま答えるのだった。
「この縫い目のところだな。すぐになおすよ」
「ええ・・・・・・」
「これでもう問題はないよ」
 言いながらその靴をなおそうと靴を脱がす。そうしてそのうえで仕事机に向かい靴をなおす。あくまで気付かないふりを続けるのだった。
「さて」18
 仕事をしながら言うのだった。
「靴を作ることが私の仕事だが」
「親方?」
 エヴァはここでちらりと彼を見るのだった。
「一体何を」
「昼も夜も仕事からは逃げられない。エヴァよ」
「また私に」
「あれは聖書のエヴァでは?」
 エヴァとヴァルターはエヴァの話を聞いて話すのだった。
「そうでしょうか」
「そうなのでは?」
「聞いてくれ。私は考えてみたんだが」
 仕事をしながら呟くザックスだった。やはりここでは二人に気付いていないふりをしていて仕事をしているふりもし続けていた。
「どうやったら靴屋を終わりにできるのか」
「何が言いたいのかしら」
 エヴァもいぶかしまざずにはいられなくなってきた。
「親方は一体」
「一番いいのは結婚すること」
 ザックスはまた呟いた。
「そうそれば詩人となって色々いいこともあるさ」
「私とかしら」
「さあ、エヴァよ」
 気付いていないふりの話は続く。
「聞いていたら話して欲しい。こんな考えはあんたが言ってくれたことだから」
「それは」
「まあいいか」
 エヴァが悩ましい顔になったのをわかったかのような言葉であった。
「御前は靴を作っていろというんなら。誰か歌でも歌ってくれれば」
「歌か」
 今度はヴァルターが目を動かした。
「今日は美しい歌を聴いたが第三節を作るのは誰か」
「それは」
 ヴァルターはそれが誰なのかすぐにわかった。そうしてそれを受けて歌いはじめたのだった。
「星が美しく踊る姿か。髪の毛に止まり輝く如く」
「その歌は」
「全ての乙女の中にもこよなく気高き姿」
「まさかその歌が」
 エヴァは聴いているうちにわかってきた。
「優しく光に輝く星の冠をいただきて」
「エヴァよ」
 ここでまたザックスが仕事を続けながら呟いた。
「聴くのだ、これこそがマイスタージンガーの歌」
「これが」
「奇蹟の上の奇蹟のように」
 ヴァルターの歌は続く。
「二つの昼を迎えるように二つの太陽のいときよき歓びのように」
「二つ・・・・・・目なのね」
 エヴァはこの歌が誰に向けてかもわかってきた。
「この歌は」
「美しき二つの瞳の輝きは私を喜ばせてくれる」
「私の家では」
 ここでもザックスが呟く。
「こういう歌が聴こえてくる」
「気高く優しきその姿、私は胸とどろかせ近付く」 
 ヴァルターはさらに歌う。
「二つの太陽の光の前に花の冠は光を失い」
「光を」
「またその光を受けて輝く。彼女は手もて編みし冠を夫の頭に捧げ」
「それが私」
「楽園の喜びをその詩人の胸に注ぐ。愛の胸のうちに」
「よし、できたぞ」
 このタイミングでザックスは仕事を終えた。ふりをした。
「エヴァちゃん」
「はい」
「できたぞ、履いてくれ」
 エヴァの方に歩み寄って言うのだった。
「この靴を。もう痛まないぞ」
「ええ。それじゃあ」
 エヴァはザックスの言葉に頷く早速その靴を受け取った。そうして実際に履いてみる。そしてそのうえでザックスを抱き締めようとするがザックスは無言で微笑んで退きそのうえで父親の如き優しき声で彼女に対して話すのだった。
「靴というものは本当に厄介なものだ」
「靴が?」
「そう、私は詩人でもなかったら靴なぞとっくに作っていなかった」
「とっくになの」
「そうだな」
 エヴァの言葉に応えまた言うのだった。
「一人は緩過ぎる、別の一人はきつ過ぎる」
「その二つが同じである場合も?」
「あちらからもこちらからもやって来て」
 エヴァに応えずにさらに話していく。
「ここががたがたしぱくぱくしてきついだの痛いだの」
「それは」
「靴屋は何でもできないといけない」
 こうも言うのだった。
「破れたところはつくろってそのうえ詩人だから」
「詩人だから」
「休ませてもらう暇もない。軍にいるようだ」
「軍か」
 ヴァルターはその軍という言葉に反応を見せた。
「それは例えに過ぎないな」
「そのうえ男やもめだから人は色々とからかう」
「何が言いたいのかしら」
 エヴァは次第にザックスの考えがわからなくなってきた。
「親方は何を」
「若い娘までが相手が見つからないと言って声をかけてくれる」
「私のこと?」
「娘達の気持がわかろうとわかるまいと」
 エヴァの詮索を妨害するかのように言い続ける。
「終わりには結局酷い目に遭ってののしられるのがおちだ。だが」
「だが」
「あいつは可哀想だな」
 ここでふと上を見て呟いた。
「徒弟のあいつはな」
「ダーヴィット君のことか」
「あの人のことね」
 ヴァルターにもエヴァにもすぐにわかった。
「そうだな」
「その通りね」
「皆から馬鹿にされるのだからな。レーネまでもが食べ物の残りを夜に食べさせる始末だ。それにしてもあいつはまだ帰っては来ないのか?」
「親方」
 エヴァはいたたまれなくなって遂にザックスに声をかけてきた。
「私は貴方の御心にどう報いたらいいのですか?」
「私のかい」
「そう。どのようにしたら」
 こう彼に問うのだった。
「若し貴方の愛がなく貴方がいなかったら私はどうなっていたか」
「わからないというのかい?」
「はい」
 返事が切実なものになっていた。
「子供だった私の心を目覚めさせてくれて人が褒め称えてくれることを教えてもくれたし本当の心というものも貴方のおかげで思うようになり」
「極端なことを言う」
「極端ではなく」
 そうではないとさえ答えた。
「気高く大胆に考えることも教えてくれて」
「それもなのかい?」
「そう。それだけでなく」
 エヴァの言葉は続く。
「私を花咲かせてくれて。正しい道に導いてくれて」
「選んだのはエヴァちゃんだよ」
「私だけではとても」
 こう答えて首を横に振る。
「若し私に選択の余地があれば」
「あれば?」
「貴方が」
 じっと彼を見上げる。
「私の冠は今日は」
「エヴァちゃん・・・・・・」
「私は選んでいたわ」
「こんな話を知ってるかな」
 ザックスはそのエヴァの熱い視線に対してまた言ってきた。
「トリスタンとイゾルデの話を」
「確かそれは」
「あの二人は」
 エヴァだけでなくヴァルターもその話を耳にして呟いた。二人も又知っているのだった。
「私はマルケ王じゃないんだ。ハンス=ザックスなんだ」
「ハンス=ザックス・・・・・・」
「私はトリスタンではないけれどいい騎士殿を見つけた」
 ヴァルターを見ての言葉であった。
「私はマルケ王ではないのだよ」
「では親方は」
「貴方は」
「さあ、あいつが戻ってきた」
 二人はザックスに対して何か言おうとするが彼はここでもまたそれを先んじて制するようにして声をあげた。そうして盛装したダーヴィットとマグダレーネも部屋に入って来たのだった。
「遅れました、すいません」
「私が無理を言いまして」
「いや、いいんだ」
 微笑んで二人の謝罪をよしとするのだった。
「それよりだ」
「それより?」
「皆来たところで言おう」
 彼の話が変わってきた。
「洗礼を行う」
「洗礼!?」
「ここでですか」
「そう、ここでだ」
 こう一同に告げるのだった。
「皆が集まり」
「皆が」
「そして一人の子供がここに生まれるのだから」
「子供!?」
 ダーヴィットは子供と聞いて首を捻った。
「今度は何に例えておられるんだろう」
「マイスタージンガーの歌が作られた時は」
 首を傾げるダーヴィットをよそに話を続けるザックスだった。
「こうするのが師匠の慣わしです」
「師匠の?」
「そうです」
 今はヴァルターに顔を向けて微笑んで説明していた。
「師匠として。よい名をつけてやるのです」
「名前をですか」
「その通り。その名前ですが」
「はい」
「できるだけ覚えやすい名前をです」
 こうヴァルターに説明するのだった。
「今騎士殿は詩を作り歌を作りました」
「今のこの歌ですね」
「そうだよ」
 エヴァに対しても優しく語る。
「この新曲の生みの親は私とエヴァを名付け親として招きました」
「はい」
 エヴァも頷いてこのことを認める。
「その通りです。今」
「我々は今その歌を充分に聴いた」
 ザックスはまた言った。
「ですから今洗礼の為にここでいるのです」
「洗礼というと」
 ヴァルターはここでようやくわかったのだった。誰の為の洗礼か。
「そうか。それでは」
「この儀式には証人が必要なのでレーネとダーヴィットにも来てもらいました」
「ああ、それでか」
「それで私も」
 二人もまたここでわかったのだった。
「僕達もここに」
「呼んでもらったのね」
「しかし」
 ザックスはここでまた言うのだった。
「徒弟では証人になれません」
「そうなのか?」
「はい、そうなんですよ」
 ダーヴィットはヴァルターの問いに答えるのだった。
「実はそうなんですよ。責任ある立場じゃないですから」
「そうか。それでか」
「ですから」
 ザックスの言葉は続く。
「彼は先程宣言の歌を見事に歌ったので」
「ああ、さっきの歌ですよね」
「そうだ。だからこそ御前は職人になる」
 このことを彼に告げた。
「今ここでな。職人になる」
「はい、有り難うございます」
 ザックスの前に片膝をつく。ザックスは右手で彼のその頬を叩く。これで決まりであった。
「これで御前は職人になった」
「はい」
 またザックスの言葉に頷く。
「では今は」
「そうだ。証人になってくれ」
 このことをあらためて彼に告げた。
「いいな」
「わかりました。それでは」
「私の幸福は太陽みたいに笑っているわ」
 エヴァがうっとりとして話してきた。
「喜びに満ちた朝が私の為に目覚めるのね」
「そう、今ここで」
 ザックスもそれに頷いてみせる。
「至高の恵みの夢が天上の如き朝の輝きが」
「優しく美しき乙女の前で」
 ザックスも言う。
「私も歌いたいとは思う」
「それを解き明かすことは何と幸福にして甘美なのでしょう」
「心の甘き苦しみは抑えるべきであった」
「優しく気高き歌ならば」
 二人はそれぞれ言い合う。
「我が心の甘い苦しみを解き明かすこともできるでしょう」
「あのような美しい朝の歌を私はあえて解き明かさない」
「朝の夢に過ぎなかったのか」
 エヴァは恍惚として言う。
「私には解き明かすことはできませんが微かに聴いたあの歌を」
「静かなる部屋で私が聴いた」
「どうかマイスタージンガー達の前で声高らかに明るく歌い勝利を」
「我が心の甘い苦しみをわかり歌うことができたのは」
 ヴァルターも言う。
「貴女の愛の為」
「青春の永遠の技さえも」
 ザックスはまだ言っていた。
「ただ詩人の賛美により戻すと」
「朝の夢に過ぎなかったのか。私には解き明かすことは難しいが静かな部屋で」
 ザックスの言葉はヴァルターの言葉と重なり合っていた。ヴァルターはその中で言う。
「私に生まれたこの歌はマイスタージンガー達の集いの前で明るく、高らかに響き至高をその手に」
「こんなに早いうちから僕は起きているのか寝ているのか」
 今度はダーヴィットが言う。
「それをはっきりさせるのは大変だ。朝の夢に過ぎないのか」
「そう、大変だわ」
 そしてマグダレーネも。
「僕は今見ていることが殆どわからない」
「ダーヴィットが職人なんて」
「もう職人なんて」
「若しかしてもうすぐ私も」
 マグダレーネはうっとりとしてきていた。
「花嫁に。そして教会でダーヴィットと」
「レーネと」
「一緒になって遂に」
「さて、後は」
 またザックスが言ってきた。
「皆行こう」
「皆が」
「そう、皆行くんだ」
 彼は言うのだった。
「じゃあエヴァちゃん」
「はい」
「お父さんに宜しくね」
「わかりました。それじゃあ」
「ではダーヴィット」
「はい」
 今度はダーヴィットに声をかける。ダーヴィットもすぐに応える。
「戸締りは頼むよ」
「ええ、わかってますよ」
 いつもの明るい顔で応えるダーヴィットだった。
「それじゃあいつも通り」
「レーネと一緒にな」
「有り難うございます」
 マグダレーネも笑顔でザックスに応える。そうして最後はヴァルターに声をかけるのだった。
「騎士殿、それでは」
「ええ。では」
「御一緒に」
 二人は笑顔で言い合う。こうして誰もが祭りに向かうのだった。
 ニュルンベルグの街を遠くに見る牧場。そこには河も通り青く澄んだ姿を見せている。そこにベンチが多く置かれ街の誰もが着飾って笑顔で遊んでいる。そしてそれぞれの職人の組合の旗が立ち並び職人達によっても垂れている。誰もがそこで御馳走や美酒を飲みそのうえで楽しく話をして踊っているのだった。
「さあ皆さん」
「聖クリスパンを讃えましょう」
 靴の旗を掲げた面々がまずその旗を高々と掲げて花やリボンで飾った娘達の黄色い声を受けつつ歌う。
「彼は聖者でしたが靴屋の仕事の手本でもありました」
「何故なら」
 彼等で話すのだった。
「貧しい人が凍えている時に暖かい靴を作りました」
「革をくれる人のない時にでも工夫して」
「万事にこだわらぬこの靴屋」
 旗がさらに高々と掲げられる、
「万難を排しても靴を作る。毛皮から皮を作り」
「シュトレック、シュトレック、シュトレック!」
 掛け声であった。
「それを叩いて引き伸ばしそれぞれ役に立たせるのだ」
「ニュルンベルグの町が敵に囲まれ」
 今度は仕立て屋の旗だった。
「町が餓えていた時に市民達は死に掛けていました」
「しかし仕立て屋は一人もいなくなっていました」
「何故か」
 彼等も声と旗を高々と掲げて言う。
「仕立て屋はその知恵と勇気を見せれ」
「山羊の皮を縫い合わせ」
「それを見て町の城壁を歩き回り跳び回り」
 こう歌っていく。
「それを見た敵は悪魔が来たと驚いて逃げさって」
「それで町を救ったのです」
「メック、メック!」
 その山羊の鳴き声であった。
「山羊の中に人がいるとは」
「誰も気付きませんでした!」
「お腹が空いて死にそうだ!」
 今度はパンが描かれている旗がたなびく。
「こんな苦しみは他にはない!」
「パン屋が毎日パンを作らないとどうなるか」
「この世が全て死に絶える!」
「ベック、ベック、ベック!」
 これが彼等の掛け声であった。
「毎日きちんとパンを作れ!」
「わし等のお腹を満たしておくれ!」
「パンを焼いて!」
「シュトレック、シュトレック、シュトレック!」
 ここでまた靴屋達も歌いだす。
「革を伸ばして靴を!」
「メック、メック、メック!」
 仕立て屋達もまたしても。
「山羊の中に仕立て屋がいるとは!」
「おいおい、見ろよ!」
「女の子達が!」
 やがて皆町や周りの村の娘達を見るのだった。
「おいおい、今日は何時にも増して奇麗だな」
「全くだ」
「何時にも増しては余計でしょ」
「そうそう」
 そんな彼等に農家の娘の晴れ着の服を着た娘達が言い返す。
「いつもよ」
「わかってるの?」
「おっと、これは失礼」
「そうだったそうだった」
 彼等も笑顔で応える。
「まあとにかくだよ。今日はめでたい日だし」
「明るくやろうよ」
「おっ、今度は笛吹きが来た」
「いいね」
「踊りもあるぞ」
 彼等はまた話すのだった。今度は河から舟に乗って笛吹き達が朗らかにやって来た。道化師達もいて明るく踊ってさえいる。
「じゃあ僕達もな」
「ああ、踊るか」
「おいおい、皆」
 ここでダーヴィットもやって来た。
「もう楽しんでいるのかい?」
「ああ、そうさ」
「ここでね」
 皆笑顔で彼の言葉に応える。
「ダーヴィットも楽しんだらどうだい?」
「ほらほら」
 娘達と踊りながらダーヴィットに声をかける。
「こうやってさ、楽しく」
「明るく騒ごう」
「いやいや、僕にはもう相手がいるから」
 しかしダーヴィットはここでは皆に対して言うのだった。
「そんなのはね。全然ね」
「全然っていってもね」
「ダーヴィットは浮気性だからなあ」
「そうそう」
「僕の何処が浮気性なんだ」
 これには少しむっとした顔で言い返すダーヴィットだった。
「僕みたいな誠実な人間を捕まえてそんなことを言うなんて」
「ほらほら、そんなこと言っても」
「女の子達が来ると」
 そしてここで娘達が笑顔で来る。するとダーヴィットもまんざらではない顔になる。
「どうなんだい?」
「心が動かないか?」
「それはだね」96
 言い返そうとする。しかしついつい目が娘達にいってしまう。娘達はそんな彼をからかうようにして輪になって彼の周りで踊りはじめる。そんな彼が何か言おうとすると。
「あっ、レーネ」
「いらっしゃい」
「えっ、レーネ!?」
 仲間達の言葉にギクリとした顔になるダーヴィットだった。
「ダーヴィットはここだよ」
「いらっしゃい」
「いや、レーネこれは」
 まだ彼女の姿を見ていないのにしどろもどろだった。
「あれなんだよ。僕はね」
「おいおい、いないって」
「何だよその反応」
 ここで彼等はまた笑顔で言うのだった。
「動じないんじゃないのかい?」
「誠実じゃないのかい?」
「僕をからかっているのか」
「その通り」
 返事はこれであった。
「見てわからないかい?」
「わかるだろ」
「全く。冗談が過ぎるよ」
「冗談でも引っ掛かる方が悪いのさ」
「まあ本当に誠実であり続けたのは認めるけれどね」
「最後の方は少し怪しかったけれど」
 こんなふうに彼をからかっているとであった。ここで。
「あっ、来られたぞ」
「おお、遂にか」
「あの人達がか」
「そうだ、来られた」
 一人の言葉に皆が続くのだった。
「マイスタージンガーが!」
「マイスタージンガーの方々が!」
 岸の方へ顔を向けると船着場にそのマイスタージンガー達がいた。先頭にいるのは橋を高々と掲げるコートナーであった。そのすぐ後ろにはポーグナーがいて他の面々もいる、当然その中にはザックスもいてすぐ後ろではベックメッサーが難しい顔で紙を見ている。その彼等が今到着したのである。
「来られたぞ!」
「今ここに!」
「ザックスさんもおられる」
「ハンス=ザックスさんも」
 マイスタージンガーの中で民衆に最も人気があるのは彼である。なおポーグナーの横には着飾ったエヴァがいる。マグダレーネも一緒である。
「今日もザックスさんはお元気だ」
「それが何よりだよ」
「では皆」
「ああ」
 自発的にそれぞれ顔を見合わせて言い合うのだった。
「そうだな。ザックスさんをだな」
「ここで讃えよう」
「ザックスさんを」
 皆それぞれザックスを見て言っていく。
「目覚めよ、朝は近付いた」
「鶯は楽しげに歌いその鳴き声は山や谷に木霊していく」
「夜は西に沈みいく」
 自然と歌が出て来た。ザックスの作った歌である。
「昼は東に登りいく」
「激しく燃える朝焼けが暗き雲間を破り来る」
 こう歌っているうちに今ザックスをはじめとしたマイスタージンガー達が民衆の前に出て来た。皆彼等の中でザックスを讃えるのだった。
「ザックスさん万歳!」
「ニュルンベルグの忠実なるザックスさん万歳!」
 ザックスはただその声を聞いていたがやがて。静かに口を開いて言うのだった。
「貴方達はです」
「はい」
「私達が?」
「そうです。ふつつかな私に対して」
 彼は言うのだった。
「多過ぎる栄誉を与え朗らかな歓声を以って」
「歓声を以って?」
「そうです。私の心を苦しくさせます」
 こう言うのである。
「皆さんの愛顧を得た上に今日は宣言句の語り手という大きな栄誉を授かりました」
「ザックスさんなら相応しいよな」
「なあ」
 民衆の意見はこうであった。
「それもな」
「ザックスさんならな」
「貴方達が芸術を尊重するうえはこの道に身を委ねる者は」
「委ねる者は?」
「全てに増してこれを讃えることを示すことが大切なのです」
 彼は言うのだった。
「家も富み心高き一人の師匠が今無二の宝というべき娘さんを」
「エヴァちゃんのことね」
「そうね」
 今度は町の娘達が言い合う。
「豊かなる財産と共に民衆の前で芸術の歌により最高の賞を得た歌手にそれを与えようというのです」
「それこそがエヴァちゃん」
「何という素晴らしい宝」
「それ故です」
 ザックスはまた民衆に対して語る。
「私の言葉をよく聴いて賛成して下さい。詩人たるものはです」
「詩人は?」
「自由に求婚していいものです。自信のある師匠達に民衆の前で声も大きく申します」
「声もですか」
「如何にも」
 彼の言葉は続く。
「この求婚の珍しい賞のことをよく考えて欲しいのです」
「よく考えてって」
「何かあるのかしら」
「さあ」
 その民衆はここではザックスの本意をわかりかねていた。
「ザックスさんの言葉はいつもはわかり易いのにな」
「今日はちょっとね」
「わからないわよね」
「ああ」
「求婚にも歌にも」
 それでもザックスの言葉は続く。
「自らの清く尊いことを知る者はこの栄冠を得ようとするでしょう」
「それはわかるけれどな」
「それはな」
 これは民衆にもわかった。
「けれど何ていうかな」
「やっぱり。今のザックスさんの言葉は」
「何が言いたいんだ?」
「それがさっぱり」
「昔も今も今だかってこの美しい乙女により捧げられた冠程素晴らしいものがあったでしょうか」 
 民衆達への問いだった。
「このことにより乙女はニュルンベルグが最高の価値を以って芸術とその師匠達を敬うことを疑いなく示すことになるのです」
 ここで一旦彼の言葉は終わった。そして今度はポーグナーがそのザックスの横に来て言うのだった。
「ザックスさん」
「はい」
「我が友人よ。深く感謝します」
 こう深々とした声でザックスに告げるのだった。
「貴方は私の心の苦しみが何かを御存知です」
「大きな冒険でした」
 彼もまた言うのだった。
「ですが今は勇気を持つ時です」
「はい、そうです」
 ポーグナーもまた頷く。そうしてその間にもベックメッサーはまだ紙を見続けている。ザックスはその彼に対して声をかけるのであった。
「ベックメッサーさん」
「あっ、はい」
 ベックメッサーは彼の言葉に応えて顔をあげた。
「何でしょうか」
「準備はいいですか?」
「何ですかな、この歌は」
 顔を顰めさせてザックスに対して言うのでした。
「私はそれこそ生まれてから歌を作って歌い続けていますが」
「ええ」
「こんな歌ははじめてです」
 たまりかねた顔で言うのだった。
「何といいますかこれは」
「別にそれでやらなくていいのでは?」
「いや、昨夜の歌は」
 それでもだというのだった。
「今思えば出来がよくありませんので」
「だからですか」
「はい、この歌でいかせてもらいますよ」
「御自身の歌でもどうかと思うのですが」
「いや、これでいきます」
 彼も意固地になっていた。
「ここは何があってもです」
「それではです。歌われるのですね」
「はい」
 ここでは返事は毅然としていた。
「歌って勝利を手に入れますよ」
「そうなればいいのですが」
 しかしザックスの言葉はここでは冷たいものであった。
「ですが歌われるなら」
「全く難解な歌だ」
 彼にとっては極めてであった。
「本当にはじめえですよ。ですが」
「ですが?」
「貴方の歌に期待しましょう」
 彼はとにかくこの歌で行くと決めていた。
「ここはね」
「それでは宜しいのですね」
「はい」
 ザックスの言葉に対して頷く。
「それではそのように」
「はい、では」
「皆さん」 
 ザックスはベックメッサーとの話を終え民衆に顔を戻した。そうしてそのうえでまた彼等に対して高らかに言葉を出すのであった。
「マイスタージンガーも民衆も宜しければ」
「おっ、いよいよだな」
「はじまるな」
「歌合戦をはじめると致しましょう」
「では独身のマイスタージンガー達よ」
 コートナーも進み出て告げてきた。
「御支度を。歌う順番はです」
「どういった順番ですか?」
「年齢順でどうでしょうか」
 こうザックスに述べるのだった。
「これで。如何ですか?」
「そうですな。それでは」
 ザックスもこれで納得するのだった。これで決まりであった。
「ベックメッサーさん」
「ええ」
 早速ベックメッサーが応えてきた。
「はじめて下さい」
「わかりました。それでは」
 昨日の騒ぎのせいでまだ身体のあちこちが痛くて歩くのが辛い。中央に作られた芝生の小山のところに向かう。小山は花で飾られているが今の彼には目に入っていなかった。それどころかその小山の上に登って不機嫌な顔で周りに言うのであった。
「この小山は何だ?」
「何だって?」
「何かありますか?」
「もっと固めてくれないか」
 苦い顔で周りにいる徒弟達に言うのだった。
「こんなのではゆらゆらするよ」
「大丈夫だと思いますけれどね」
「なあ」
「いや、駄目だ」
 それでもベックメッサーは言うのだった。
「これではだ。とても駄目だ」
「ではちょっと固めます」
「それでいいですか?」
「早くしてくれ」
 こう言って急かすのだった。
「早くだ。いいな」
「わかりました。それじゃあ」
「すぐに」
 こうして徒弟達がすぐに仕事をする。民衆達はその間ベックメッサーを見ながらあれこれと話をするのだった。
「あれ、町の書記さんじゃないか」
「そうだよな」
「ああ、何か普段と違うぞ」
 こう言い合うのだった。
「何ていうかな。姿勢が悪いし」
「それに何か神経質そうだな」
「神経質なのはいつものことだろ?」
 確かにそれもいつも通りであった。彼が神経質なことは町ではかなり有名である。融通が利かなくて口煩い書記として知られているのだ。
「それはな」
「まあそうだけれどな」
「けれど普段以上に」
 彼等の話は続いていく。
「何か今にも倒れそうだしな」
「昨日何かあったのかね?」
「さあ」
「静粛に、静粛に」
 ここで徒弟達があれこれ話をする民衆達に告げた。
「マイスタージンガーが歌われますので」
「お静かに」
 皆この言葉を受けて静かになる。そうしてそのうえでベックメッサーは土手の上に移りそこから歌いはじめる。ところがいきなり。
「私は薔薇色に輝いて」
「薔薇色!?」
「何それ」
 皆それを聴いてまず目を顰めさせた。
「大気は血と匂いに溢れえも知らぬ快さに溶け去っても庭は私をむかつかせ私は誘えり」
「何の歌なんだ、これって」
「しかも旋律もおかしいし」
「ああ、合っていない」
 また顔を見合わせることになった民衆達であった。
「この歌は」
「どうなっているんだ?」
「それにだ」
 マイスタージンガー達も奇妙に思いだした。
「あの書記さんの歌じゃないな」
「恥ある園に私はすまいし、黄金為す実と鉛の汁を」
「やっぱり妙だな」
「何か歌じゃないんじゃないのか?」
「恥さらしなる」
 ベックメッサーはさらに話していく。
「枝につるし私を首つる大樹があり」
「首吊り!?」
「ないだろ、それは」
「なあ」
 皆さらに顔色を変えていく。
「それが告白の歌か!?」
「何か歌詞間違えてるだろ」
「おまけに旋律は相変わらず滅茶苦茶だし」
「しかもこれあの人の歌か!?」
 こんな言葉も出されるのだった。
「もっとやたらと格式ばった歌だったよな」
「そうそう」
「もうあんまり堅苦しいんでどうにもならない程にな」
「そうだよな」
 また皆言い合う。
「だとしたら何であんな歌を?」
「飲み過ぎか?」
「私が恐ろしい奇蹟を語ろう。梯子の上に美しい女性が立っていたが」
 皆がいぶかしむ中でベックメッサーも次第に気付いてきた。
「恥ずかしがって私を見ない。キャベツの様に麻が」
「朝じゃないよな」
「ああ」
 皆このことにも気付いた。
「絶対にな」
「麻だと言ったぞ、あれは」
「私の身体を抱き眼差しをぴくぴくとさせ白い犬もて吹きつけるのは」
「犬って」
「ぴくぴくとなんて!?」
 これまた誰にとっても全く意味のわからない言葉であった。どうしてもであった。
「どういうこと!?」
「それって」
「かの肝臓の大樹に実った私の食べていた果物の如き木と馬であった」
「意味がわからない」
「歌になってないな」
「そうだな」
 皆最早何が何なのか理解不能だった。
「歌じゃないな」
「有り得ないな」
「ええ、それもこれもだ」
 ここでやっと歌い終わったベックメッサーは忌々しげに顔を歪ませて言うのだった。
「全部靴屋のせいだ」
「靴屋!?」
「ザックスさんか?」
「その通り。この歌はそもそも私の歌ではない」
 彼はここで言うのだった。
「ここで皆から崇められている靴屋が私にくれたものだ」
「嘘だろ?」
「なあ」
「ザックスさんがそんなことをな」
「だが事実です」
 彼はあくまで主張する。
「この恥知らずが私に押し付け」
「この人が」
 ベックメッサーがザックスを指差すと自然に皆彼を見た。視線が集中する。
「そうだ。おかげで酷い目に遭った、全く」
 最後にこう言うと姿を消した。憤然としてその場を去るのだった。
 だが残された民衆達は違った。怪訝な顔になりそのうえで言い合うのだった。
「ザックスさんが今の歌を作った!?」
「おかしいよな」
「ああ」
 こう口々に言い合うのだった。
「話が通じないっていうかな」
「有り得ないよな」
「どうなっているんだ?」
「ザックスさん」
 民衆達の言葉を受けてマイスタージンガー達も話を交える。
「どういうわけでしょうか」
「そうです」
「あの歌は貴方が?」
 コートナーだけでなくナハティガルやフォーゲルゲザングも話すのだった。
「だとしたら奇怪な」
「どういうことでしょうか」
 オルテルとフォルツも首を傾げる。
「これは一体」
「何事なのか」
「はい」
 ザックスはこれまで一言も話さずただ話を見ているだけであった。しかしここでようやく一同の前に出てそのうえで話をはじめるのだった。
「この歌は私のものではありません」
「ザックスさんのものではない?」
「そうです」
 こう話すのだった。
「この歌は」
「では一体誰が?」
「この歌を」
「書記さんは誤解されているのです」
 ザックスはいぶかしむ彼等に対してまた話す。
「どうしてこういうことになったかは御本人から御聞き下さい」
「歌を貰って覚え間違えたかな」
「まあそういうところじゃないのか?」
「だよな」
 おおむね合っている話であった。
「そしてです」
「そして?」
 そんな予測をしながらまたザックスの話を聞くのだった。
「これ程美しく作られた歌を私のものだと言うことはとてもできません」
「おいおい、冗談だろ」
「あの歌が美しいって?」
「有り得ないよな」
「なあ」
 皆また口々に言い合っていく。
「そんなことがな」
「あんな歌がな」
「絶対にない」
 また言い合う彼等であった。しかしザックスはまた言うのだった。
「皆さんに言います」
「わし等に?」
「何て?」
「この歌は美しいのです」
 またこう話すのだった。
「本来とても」
「とても?」
「一見してすぐにわかるようにです」
 このことも話すザックスだった。
「書記さんが歪めたのです。ですが」
「ですが?」
「言葉と曲とがここで皆様の前で正しく歌われれば貴方達の御気に召されることはうけ合いです」
 ザックスはまた話す。
「それが出来る方こそこの歌の作者であり」
「この歌の?」
「その通り。その方こそ」
 彼はさらに話す。
「マイスタージンガーと言われて然るべき人であることを証明することになるでしょう」
「というとだ」
「まさかエヴァちゃんの?」
「だよね」
 民衆達もおおよそ話がわかってきたのだった。
「私は訴えられた故にことを明らかにしなければなりません」
「まあそうだよな」
「そういう形なんだしな」
「その証人たる人を選ばせて下さい」
 高らかな宣言だった。
「私の言葉の正しいことを知っていて証人になれる方」
「その方は!?」
「一体」
「ヴァルター=フォン=シュトルツィング殿」
 皆この名前が出るとはっとした。ザックスの今の言葉と共にヴァルターが民衆の前から進み出てきた。そうしてザックスに挨拶したうえで民衆達にも礼儀正しく精悍な騎士らしい仕草で挨拶をするのだった。
 ザックスはその彼の挨拶を受け。そのうえで静まり返った民衆達に対して話すのだった。
「ではこの方が証明して頂けます」
「その騎士殿がですか」
「その通りです」
 ザックスは今度はマイスター達に対して答えた。
「ですから。今ここで」
「ううむ。そういうことだったか」
「成程な」
 今のザックスの行動には民衆達だけでなくマイスタージンガー達も唸るしかなかった。ベックメッサーは民衆達の中に隠れながら彼を見るだけであった。忌々しげに。
「規則もまた時としてよきことが行われる場合には例外を許します」
「杓子定規じゃないってことだよな」
「それはかえってよくないよな」
「全くだ」
「規則は規則ではないのか?」
 しかしベックメッサーはその中で呟くのだった。
「規則は守られなければならない」
「それはまさに規則の有難みを考えることになるのです」
「そうか、そういう考えもあるな」
「そうだよな」
 民衆達は今のザックスの言葉に笑顔になる。
「それにザックスさんが仰るなら」
「間違いじゃないだろうな」
「そうだな」
 彼等は彼等で納得していく。ザックスはその中でまた話す。
「それでです。騎士殿」
「はい」
 ヴァルターは穏やかな笑みと共にザックスの言葉に応えた。
「それでは今から」
「御願いします」
「さあ、どうなる?」
「どうなるんだ?」
 皆ヴァルターを見て話をしていく。どうなるか彼等にもわからなかった。
 ヴァルターはその中で遂に歌いはじめた。その歌は。
「朝は薔薇色に輝きて大気は花の香りにふくれ」
「んっ!?」
「これは」
 皆ヴァルターの歌がはじまるとすぐに顔色を変えた。
「どうだ?」
「今までにない歌だぞ」
「えも知らぬ快さに満たされて庭は私を誘う」
「いいな」
「ああ」
 皆その歌を聴きはじめた。ヴァルターはその中でさらに歌っていく。
「実の豊かに下がれるかの不思議なる樹の下に幸なる愛の夢の中にこよなき喜びを満たすことも」
「いいですな」
「そうですな」
 マイスタージンガー達も頷き合うようになっていた。何時しかベックメッサーも黙って聴いていた。
「喜びもて約束したまえるはいと麗しき乙女」
「その名は?」
「楽園のエヴァ」
 彼は歌った。
「やっぱりいいな」
「そうだ、別物だ」
 民衆達はまた口々にヴァルターの歌を評する。
「こんないい歌だったのか」
「まさかと思ったが」
「では証人よ」
 ザックスはさらに彼に告げる。
「歌を続けて下さい」
「はい」
 ザックスの言葉に頷きまた歌うのだった。
「夕べとわかれば夜が我を囲み私は険しき道を辿り」
「どうするんだ?」
「次には」
「清き泉に近付けり。泉は私に微笑んで誘い」
「誘い」
 誰もがヴァルターの次の歌を待つ。
「そこに月桂樹があり星は明るく枝達を通し」
「枝達を」
「そうして」
「目覚めたる詩人の夢の中に私が見たものは優しき身振りを以って泉が水をもて私を潤す」
「泉がか」
「この騎士殿を」
「いと気高き乙女パルナスのミューズ」
「ううむ」
 ベックメッサーは彼の歌を聞いてまた述べた。
「そうだな。聴くべきものはあるか」
「変わった歌ではあるが」
「韻がいいな」
 マイスタージンガー達もこの歌を認めるのだった。
「歌いやすいし」
「難しいようでな」
「遠くに浮かぶように優しく馴染み深く」
 民衆達も言う。ヴァルターの歌を聴いて。
「しかも共に体験するようだ」
「不思議な歌だ」
「さあ、騎士殿」
 またザックスが彼に告げる。
「終わりまで」
「いと恵み深い日々よ」
 ザックスの言葉に応え最後の歌に入った。
「私は詩人の夢より覚めてその恵み深い日を迎える」
「それが何時かは」
「そうだな」
「私が夢に見た楽園は新しい栄光を以って我が前に現われた」
 さらに歌を続けていく。
「泉は微笑みつつその楽園への道を示せり」
「その楽園はまた」
「この世にあるものか」
「そこから生まれた我が心の選びたるこの地上で最も美しい姿」
 歌はいよいよ最後に向かっていた。
「その姿ミューズとなって現われ優しくかつ気高くありしが」
「詩句も見事だ」
「確かに」
「私は大胆にも妻に求め明るい光の輝くひるに歌の勝利にて勝ち得る」
 そして最後に。
「パルナスのミューズと楽園を」
「美しき夢の中に引き込まれるようだ」
 最後まで聴いた民衆の言葉だ。
「捉え難い歌だが響くものは快い」
「全くだ」
「こんな歌ははじめてだ」
 口々に言いながらエヴァに顔を向けて。彼女に口々に言うのだった。
「エヴァさん、決まりだ」
「そう、決まりだ」
「その通りだ」
 ベックメッサーも憮然としながらも頷いていた。
「これだけの歌ならばな」
「あの方に冠を」
「あの方以外にはいない」
 こうエヴァに口々に語っていく。
「ですから今その冠を」
「あの方に」
「これで全ては決まった」
 マイスター達も認めていた。
「騎士殿、貴方が」
「その冠を」
 こうヴァルターに告げるのだった。
「貴方の歌は勝利を得ました」
「マイスタージンガーに相応しい勝利を」
「ザックスさん」
 そしてポーグナーがザックスにまた声をかけてきた。
「私の幸福と名誉は貴方の賜物だ」
「いえ、私は」
「謙遜されずに」
 それはいいとまで言うのだった。
「私の悩みと苦しみは全て過ぎ去ったのですから」
 こう言いながら自分の娘とヴァルターを見る。今ヴァルターはエヴァの前に跪きその手から冠を授けられていた。その月桂樹ともう一つ、その絹の冠だった。その二つの冠を被せられそのうえで立ち上がり二人でポーグナーの前に行きそこで二人並んで跪く。ポーグナーは微笑み彼等の頭上にその祝福の手を差し伸べるのだった。
 二人はそれを受けたうえであらためて立ち上がった。エヴァは恍惚とした顔でヴァルターに対して言うのだった。その至福に満ちた声で。
「貴方こそは私の永遠の伴侶です」」
「立派な証人が答えてくれました」
 ヴァルターはまた民衆の前に来て民衆達に述べた。
「私のやり方は如何だったでしょうか」
「素晴らしい」
「やっぱりザックスさんだ」
 皆彼の言葉にこう言うのだった。
「いつも通りお見事です」
「流石です」
「ではポーグナーさん」
「はい」
 マイスタージンガー達はポーグナーに声をかけるのだった。
「この騎士殿をマイスタージンガーに」
「そうですな。すぐに」
 彼は仲間達の言葉を受け三個の大きな記念貨を付けた全てが黄金の鎖を持ってヴァルターに歩み寄る。そうして彼に対して告げるのだった。
「これをお受け取り下さい」
「それは」
「ダヴィデ王の首飾りです」
 こう彼に説明した。
「マイスタージンガーである証の」
「いえ、それは」 
 しかしヴァルターは左手を前に出してそれを拒む姿勢を見せたのだった。
「受け取りたくはありません」
「えっ!?」
「それは何故」
 マイスタージンガー達だけでなく民衆も彼の今の言葉には大いに驚いた。
「どうしてですか?」
「マイスタージンガーになられないなどと」
「私は愛だけで充分です」
 じっと自分の側にいるエヴァを見詰めて言うのだった。
「愛だけで」
「いえ」
 しかしその彼に対してザックスは優しい声で告げるのだった。
「それはなりません」
「ならないとは」
「マイスタージンガーの芸術は讃えられるべきものなのです」
 このことをヴァルターに話すのだった。
「高く讃えられる彼等のいさおしは貴方にも豊かに恵みとなるのです」
「私の」
「そうです」
 こう彼に語るのだった。
「貴方の御先祖がどの様な方であっても」
「はい」
「貴方の紋章や剣や槍が詩人にしたのではありません」
 そういったものではないと話す。
「一人のマイスタージンガーが貴方を高めそれにより今日最高の栄誉を得られたのです」
「それによりですか」
「そう、感謝の心もてそれを考えて下さい」
 ザックスは穏やかな言葉でヴァルターに教えていた。
「これ程の勝利をもたらす芸術がどうして価値なきものであるのか」
「価値ですか」
「そうです。私達の師匠はこの芸術を彼等の特性に従って育て感性によって保護し純正に保ってきたものです」
 そうだというのである。
「宮廷や諸侯にもてはやされた昔の様に貴族的ではないですが」
「民衆のものだというのだな」
 ベックメッサーにはわかった。
「マイスタージンガーの芸術は。そう言いたいのか」
「この芸術は幾多の年月の苦しみにも耐えドイツ的にまた真実に生き続けた」
「それをしてきたのがわし等か」
 またベックメッサーは呟いた。
「それを護ってきたのが」
「全てが現代に於いては逼迫してこれ以上上手くはありませんでしたが」
 こうは言ってもだった。
「御覧の通り高き誉れを維持したのです。何をこれ以上マイスタージンガー達に望むのか」
「これ以上をですか」
「そうです。見るのです」
 今度は見よと言う。
「様々な禍が私達を脅かしています。ドイツ国民も国が瓦解し外国の力に屈する時」
「その時は」
「諸侯は何れも民意を解せず外国の詰まらぬがらくたをドイツの国土に植え付けます」
「そんなことは駄目だ」
「そうだ」
 皆それを聞いて口々に言う。
「そんなことになったら我々は終りだ」
「何にもならない」
「まことにドイツ的なものがドイツのマイスタージンガー達の名誉の中に生きなければ誰もそれを知らなくなってしまうのです」
「だからなのですね」
「そうです」
 またヴァルターに対して答える。
「ですから私は申し上げます」
「それは一体?」
「何ですか?」
「貴方達のドイツのマイスタージンガーを讃えるべきなのです」
 これがザックスの主張であった。それは当然ながらベックメッサーも聞いている。
「そうすれば気高い精神を維持できます。貴方達がマイスタージンガー達の働きに敬意を捧げて下さればこの神聖ローマ帝国が靄の如く消え去っても」
「そうなろうとも」
「聖なるドイツの芸術が我々の手に残るでしょう」
「では私は」
「御願いします」
 ヴァルターのその両手に自分の両手を置いてのザックスの言葉であった。
「どうか。ここは」
「わかりました。それでは」
「ザックスさん」
 エヴァはここでまた冠を出してきていた。ポーグナーから手渡されたその冠はヴァルターと同じ絹で作られた花の冠であった。それを出して来たのだ。
「どうかこれを」
「有り難う。それでは」
「では騎士殿」
「はい」
 ヴァルターもまたポーグナーに応える。そうしてその首に黄金の首飾りをかけるのだった。そのうえで二人はザックスに確かめられた。
「貴方達のドイツのマイスタージンガー達を敬愛し。そうして気高い精神を保つべき」
「そう。マイスタージンガーの働きに敬意を捧げてくれれば」
 民衆達も言うのだった。マイスタージンガー達も。何時しかマイスタージンガー達はザックスを自分達の中心に置いていた。
「神聖ローマ帝国が消え去っても聖なるドイツの芸術が我等の手に残る」
「書記さん」
 彼等の声の中でポーグナーに案内されて彼等のところに戻ってきたベックメッサーがザックスの前に来た。
「貴方もまた」
「ええ。そうですね」
 ベックメッサーも今は穏やかな笑顔だった。そうしてお互い同時に手を差し出し合い。
 そのうえで手を握り合うのだった。彼もまたマイスタージンガーであった。
「万歳!ハンス=ザックス万歳!」
「ニュルンベルグのマイスタージンガー万歳!」
 皆がそのザックスを讃える。祭は歓喜の声の中で栄光に包まれるのだった。


ニュルンベルグのマイスタージンガー   完


                                2009・4・27



見事に良い結末に。
美姫 「ザックスの手並みが凄いわね」
だな。何となくこうなるかなと思いつつも、ついつい読み耽ってしまいました。
美姫 「投稿ありがとうございます」
ありがとうございました。



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