『オテロ』




                              第一幕  キプロスの港

 キプロスの城外に港がある。海は荒れ狂い夜空は嵐に支配されていた。
 雨と雷鳴が嵐の友人となり共に荒れ狂っている。その中で人々は船を待っていた。
「帆だ!帆が見えるぞ!」
 彼等の中の一人が叫ぶ。
「旗印も見える。闇の中に」
「何の旗印だ?」
「見えたぞ」
 その中で一際立派な服を着た堂々たる体躯の男が告げた。キプロスの前の総督であるモンターノだ。彼もまた見に来たのである。今の総督であるオテロの帰還を待って。
「翼を持った獅子の旗が」
「私にも見えた」
 華麗な軍服と鎧を着た若い男も言う。彫の深い整った顔に黒い髪と瞳をしている。彼は今の総督であるオテロの副官である。名をカッシオという。
「稲妻の中に翼を持った獅子の旗を」
「オテロの旗か」
「そうだ」
 カッシオは人々に答えた。
「見えた。あの旗が」
「ラッパの音だ!」
 人々は今度は雷鳴ではなくラッパの高らかな音を聞いて。
「聞こえる!ヴェネツィアのラッパの音だ!」
「それだけではないぞ!」
 彼等の耳に雷鳴が響き渡る。しかし聞こえてきたのはそれだけではなかった。
「聞こえるか!」
「ああ!」  
 口々に叫ぶ。
「大砲の音だ!」
「戦いが行われている!」
 それを察してまた声をあげる。
「船が一隻沈んだ」
「オテロの船ですか!?」
「いや、違う」
 モンターノはそれは否定した。
「彼の船ではない。だが一隻の船が波間に沈みもう一隻の船が天まで持ち上げられた」
「恐ろしい状況だ」
「稲妻の中にまた見えたぞ!」
 また一人叫んだ。
「船首が波間から現われた!」
「トルコの船だ!」
 また稲妻が映し出した。
「稲妻だ!雷鳴だ!」
「旋風だ!暴風だ!」
 それ等が支配していた。海を。
「波は立ち騒ぎ風は荒れ狂い」
「海も揺れ山も動く!恐ろしい戦場だ!」
「ああ!」
 女達が大砲の音を聞いて悲鳴をあげた。
「無事なのかしら、私達の戦士は」
「煙が見える。炎も」
 今度見えたのはそれだった。
「恐ろしい暗黒が炎となりそして一層気味悪く消えていく」
「宇宙は苦悶し幻の北風が飛ぶように走り巨人の凄まじいラッパが響き渡る」
「嵐の凄まじい音が!」
 聞こえてきたのだった。
「ヴェネツィアの運命があの中にある。暗黒の海の中に!」
「神よ護り給え!」
 キリストに対して祈った。
「彼等の運命と星を!」
「ヴェネツィアの地と天を!」
「穏やかな海の底深く忠実な錨を置かせ給え!」
「見ろ!」
 嵐の中でも後ろに整えた黒髪と鎌を思わせる黒い髭を生やした男が叫んだ。黄色い服を着て靴が先に尖っている。黒いズボンは身体にぴっしりと合っている。白いカラーが目立つ。
 彼の名をイヤーゴという。オテロの旗手を務めている。歴戦の男であり根っからの武人として評価が高い。そういうことになっている。
「主帆が裂けたぞ!」
「おお!」
 彼等はイヤーゴの言葉を聞いて驚きの声をあげた。
「船首が岩礁にぶつかった!」
「オテロの船だ!」
 また稲妻の中にそれを見たのだった。
「神よ、助け給え!」
「いや」
 イヤーゴだけがその中で呟く。
「この海の中があいつの墓場になれば」
「見ろ!」
 人々がまた叫んだ。
「助かったぞ!」
「沈んでいない!」
 こう叫ぶのだった。
「助かった!トルコ人達は逃げていく!」
「ヴェネツィアが勝ったんだ!」
 それが見えた。人々の間で歓声が起こる。
「船が来たぞ」
「ああ」
 勝利を収めたヴェネツィアの艦隊が港に戻って来た。多くの船が傷を受けているがそれでも港に戻って来たのだった。
「網に掴まれ!ロープを投げろ!」
 船乗り達が船の中から叫ぶ。
「ここで力を込めろ!」
「もう少しだ!」 
 港に向かってロープが放たれる。港の者達がそれを受け取って繋ぎ止める。
「戻って来たぞ!」
「オテロが!兵士達が!」
「英雄が!」
 そして一人の軍人が彼等の前に姿を現わした。見事な黒と金の上着に黒いズボンを穿き白いマントを羽織っている。漆黒の肌に引き締まった顔。短い縮れた髪を持っている。逞しい身体をしている。その彼が今ヴェネツィアの者達に対して姿を現わしたのだった。
「喜べ!」
 彼は剣を思わせる張りのあり引き締まった声で彼等に告げた。
「高慢な回教徒達は海に沈んだ。栄光は我等の上にある。彼等は海の底に沈んだ!」
「勝利だ!」
「勝ったんだ!」 
 それを噛み締めまた叫ぶ人々だった。
「奴等はいなくなった!」
「レクイエムとして怒涛の激しい攻撃と暴風の輪舞を受けて海の底の恐ろしさを味わうのだ」
「そして我等は勝利を!」
「オテロ万歳!ヴェネツィアの獅子万歳!」
「ヴェネツィアに栄光を!オテロに栄光を!」
 皆オテロとヴェネツィアを祝う。しかしその中で一人金色の髪に青い目を持つ気品のある男が海に身を投げようとした。それをイヤーゴが止めた。
「ロデリーゴ殿、お止めを」
「しかし」
 イヤーゴに顔を向けて言う。思い詰めた顔で。
「私はもう」
「女との恋で身投げしても何にもなりません」
「しかしだ」
 彼はそれでも言う。周りでは兵士達が船の荷を下ろし武器が戻されていく。嵐は何時の間にか収まり兵士達が松明を持って照らし人々は薪に火を点けて暖を取る。やがて底に酒が運ばれ居酒屋も騒ぎだしたのだった。イヤーゴはその中にロデリーゴを誘いながら親身な顔をして彼に囁くのだった。
「デズデモーナですな」
「そうです」 
 ロデリーゴはその名に頷く。
「彼女はもう」
「あの黒い肌の男の妻」
 オテロのことである、
「美しいあの人の唇はあの男の厚い唇と重なる」
「何ということだ」
 ロデリーゴはそれを聞いて身震いする。
「恐ろしい。悪夢だ」
「私は貴方の友人です」
 親しげにまた囁く。
「ですから申し上げます。あの方は貴方のものになります」
「まさか」
「本当です」
 にこりと笑った仮面を被っていた。
「私は嘘は申しません」
「しかし」
「私もまたあのムーア人が嫌いです」
 目だけが本当のことを語っていた。口は笑っているがその目はにこりともしていない。闇の中でランランと光っていた。
「それにあの男も」
 酒盛りの中に入っているカッシオを指差し憎々しげに語る。
「憎んでいます。本来私が副官になる筈だったのにオテロが勝手に決めてしまい」
「旗手に」
「私こそ副官の地位に相応しい。あの様な書記官あがりに」
 昔から戦場を巡ってきた男としてそれが許せなかったのだ。彼はずっと軍人として生きてきているのだ。そのことに誇りも持っていたのだ。
「だからです。私は」
「はい」
 ロデリーゴに話し続ける。だが二人は街の片隅に入った。そこで誰にも気付かれずに話をするのだった。悪魔が囁く様に。
 その間も街の人々は騒ぐ。最早乱痴気騒ぎに近い。
「さあ祝おう!」
「さあ歌おう!」
 皆杯を手に歌い合う。
「この素晴らしい日を」
「勝利の日を」
「さあロデリーゴ」
 彼等のその中に話し終えたイヤーゴが親しげにロデリーゴをその中に導き入れた。
「飲みましょう」
「酒をですか」
「そう。貴方も」
 ロデリーゴに話したことを隠して丁度そこにいたカッシオにも声をかける。もう彼は顔を真っ赤にさせている。ほぼ完全に酔い潰れていた。
「私はもう」
「まあそう言わずに」
 断る彼に赤いワインを入れた杯を差し出す。彼自ら入れたものだ。
「是非。飲んで下さい」
「だからもう」
「今日は勝利の日ですぞ」
 それをあえて語るのだった。
「ですから」
「しかし本当にもう」
「これは義務です」
「義務!?」
「そう、義務なのです」
 今度言うのはそれだった。
「総督とデズデモーナ様の婚礼を祝う」
「そうだな」
 二人の名、特にデズデモーナのそれを聞くとカッシオは顔を上げた。イヤーゴはそれを見て口元を僅かに歪めさせた。
(よし)
 そのうえで心の中だけで呟いたが。これは彼以外の誰にもわからなかった。
「あの人はまさに花だ」
「花ですか」
「天使だ」
「御聞きですね」
 イヤーゴは今度はそっとロデリーゴに囁く。
「今の言葉を」
「あの輝くばかりの美しさは歌人達を惹き付ける」
「しかも非常に慎ましやかだ」
 ロデリーゴはイヤーゴの言葉のままカッシオを見ながら彼も呟く。
「イヤーゴ」
「何でしょか」
 カッシオにもにこやかに言葉を返す。
「君もあの方を讃えて歌わないのかい?」
「ほら」
 カッシオには答えずにロデリーゴに囁くのであった。またしても。
「御聞きなさい。よくね」
「ああ」
「私は遠慮させて頂きます」
 またカッシオに顔を戻して述べる。
「私はただの批評家ですので」
「そうか。ならいい」
「申し訳ありませんが」
「それならそれでいいよ。ただ」
 ここでまた彼は言うのだった。酒に誘われて。
「あの人は本当にどんなに褒めても褒め過ぎるということはない」
「また言っていますね」
「そうだな。しかし」
 ここでイヤーゴの作った顔を見るのだった。しかし彼が顔を作っているのは気付かない。
「何かを恐れているな」
「喋り過ぎです」
 カッシオを指差して囁く。
「溢れんばかりの若さと酒がそうさせています」
「若さと酒がか」
「そうです。貴方の恋路を邪魔するあいつは女たらし」
「私の恋路を」
「そうです。悪知恵の回る女たらしです」
 言葉を付け加えるタイミングも狙ったものだった。
「御気をつけを」
「それでどうするのだ?」
「彼奴は酔うと訳がわからなくなります」 
 カッシオの酒癖が悪いことももう承知しているのだった。
「ですからどんどん」
「わかった。では」
「おおい、坊主」
 店の坊主には愛想がいい。
「酒を持って来てくれ。赤ワインをな」
「はい、只今」
 すぐにワインが来た。それは三つあった。ついでに酒瓶も置かれた。
「さあ、どうぞ」
「有り難う」
 まずはロデリーゴに一杯にこやかに勧める。それと共に自分も持っている。それだけではなくカッシオのところにも杯を置いてそっと勧めるのだった。
「貴方も」
「あっ、有り難う」
「さあ、喉を潤して一気にあおって飲み干して」
 飲むように煽る。
「美酒は楽しむもの」
「それじゃあ。この葡萄の賜物を」
 結局カッシオもそれに乗った。やはり酒には勝てなかった。
「美しい霧に心は曇る」
「バッカスの誘惑にかかった者は図々しくなり狂気じみる」
 またイヤーゴを煽るようにしてきた。今度は歌だった。
「私と一緒に飲みましょう。いざ」
「誘惑にかかった者は共に飲もう」
「そして楽しもう」
「だからこそ」
 客も乗ってきた。ここでイヤーゴはさらに煽る。
「皆で飲もう。君と一緒に」
「君と一緒に」
「よしっ」
 カッシオはそれに応えて一杯飲んだ。あっという間に酒を飲み干す。それを見届けてからイヤーゴはまたしてもロデリーゴの耳元に囁くのだった。
「あともう一口です」
「もう一口か」
「そうです。さて」
 また煽りに入るのだった。歌を再開する。
「私が酔った時には世界が鼓動を打つ。皮肉な神と共に進むのだ」
「おっ、面白い歌だな」
「そうだな」
 彼等はそれを聞いてイヤーゴに注目した。
「皮肉な神か」
「バッカスは確かに」
 だがそれをバッカスと思うだけだった。その間にまたカッシオの杯にワインが入れられ彼はそれに口をつける。それからまた述べるのだった。
「美しいリュートの調べの様に心が揺らめき喜びが行く手に躍る」
「さあさあ、だからまた一杯」
「また一杯」
 止めの様にまた一杯勧めるのだった。
「どうぞ」
「済まないな」
 こうして遂に出来上がった。イヤーゴは彼の顔を見てそれを確認してからまた述べたのだった。
「これでよし」
「いいんだな」
「あとは喧嘩をさせるだけです」
 カッシオを喧嘩させるというのだ。
「そうすれば後はこちらのもの」
「たかだか喧嘩でか」
「何ごともまずは些細なことからはじまるのですぞ」
 いぶかしむロデリーゴに対しての言葉だった。
「ですから何の問題もないのです」
「そうか」
「ああ、目が回る」
 カッシオは酔い潰れる寸前の顔で呻いていた。
「周りが赤いな。火事でもないのに」
「飲め飲め」
 周りが囃し立てる。イヤーゴに乗せられたままで。
「どんどん飲んで」
「おい、カッシオ君」
「はい」
「むっ、いいタイミングだ」
 イヤーゴはモンターノの声を聞いて満足そうに笑った。
「これは尚よしだな」
「衛兵が君を待っているんだが」
「わかりました」
 それに応えて立ち上がる。しかしその足はもう完全に千鳥足だった。
「おっとと・・・・・・」
「むっ、これは」
 モンターノがやって来た。それで丁度千鳥足のカッシオを見たのであった。
「酔っているのか」
「実はですね」
 イヤーゴは彼の前に進み出た。今度は片膝を垂れて恭しく述べる。
「彼は毎晩この有様なのです」
「何っ、毎日だと」
「そうなのです」
 申し訳なさそうに述べる。
「これがまた。言いにくいのですが」
「総督はそれを御存知なのだろうか」
 実はモンターノはオテロの部下だったことがある。互いに知った仲なのだ。
「では巡回に」
「これはいい」
 千鳥足のカッシオを見てロデリーゴが笑っている。
「面白いことだ」
「?今笑ったのは誰だ」
 カッシオはロデリーゴの笑みに気付いて彼に顔を向けて問うた。
「決まっている。私だ」
「どういうつもりだ」
「どういうつもりもこういうつもりもあるか」 
 あえてカッシオを挑発するように言ってみせた。
「酔っ払いを笑っている。それだけだ」
「何っ、貴様」
 酒癖の悪さが出た。かっとなって彼に挑みかかる。
「やるつもりか」
「何っ、この酔っ払い」
 ロデリーゴもそれに乗ろうとする。だがその二人の間にモンターノが入って止めるのだった。
「馬鹿なことは止めろ。特にカッシオ」
 カッシオに顔を向けて言う。
「頭を冷やせ。いいな」
「頭を冷やせだと?」
 だがその言葉は逆効果だった。かえってカッシオを怒らせてしまった。彼は今度は止めに入ったモンターノに対してつっかかるのだった。
「邪魔立てするのか!?それなら」
「酔いどれの言い草だ」
 モンターノはそれを冷静に述べただけだった。
「とにかく水でも飲んでだ」
「誰が酔いどれだ!」
 今度は剣を抜いてきた。
「これ以上言えば貴様も」
「何処まで馬鹿なんだ」
 モンターノは剣を抜いたカッシオに呆れながらも止むを得なく対する。彼もまた剣を抜いたのだ。そしてカッシオの剣を受けはじめた。
「おい、大変だ!」
「刃傷沙汰だぞ!」
「さて、これでまた次の段階になりました」
 イヤーゴは騒動が本格化したのを見届けてからまたロデリーゴに顔を向けた。
「港に行かれて暴動だ、と繰り返し叫ばれるといいでしょう」
「それだけでいいのか」
「そう、それだけです」
 それだけだと告げる。
「それで充分なのですよ」
「ううむ。それだけでか」
「混乱と恐怖がこれで起こります」
 イヤーゴの弁ではこうであった。
「そういうことです」
「わかった。それでは」
 ロデリーゴは彼の言葉に頷いてこの場を後にする。イヤーゴはまた顔を変えて喧嘩を止めに入った。
「御二人共、もうその位にして」
「何て騒ぎ!」
「剣よ!」
 女達も騒ぎだした。
「逃げましょう!」
「巻き込まれたら大変よ!」
「おい、血が!」
「前の総督が!」
 モンターノは腕に怪我をした。それを見て男達も血相を変える。
「御二人共止めて下さい!」
「落ち着かれて下さい」
 イヤーゴもその中で演技を続ける。
「これ以上の騒ぎは」
「警鐘が鳴ったぞ!」
「衛兵達が来ている!」
「よし」
 イヤーゴは警鐘が鳴った方に顔を向けて呟いた。
「これでまた話が動くぞ」
 衛兵達がドヤドヤとやって来る。そしてその先頭にはオテロがいた。
「一体何の騒ぎだ!サラセン人が来たのかそれともトルコ人にでもなってしまったのか」
 この騒ぎに怒っての言葉だった。
「イヤーゴ」
「はい」
 オテロの前では実直な軍人になってみせる。
「これは一体どういうことだ。知っていることを述べてくれ」
「それがですね」
 誠実の仮面を被ってから話すのだった。
「私にはわからないのです」
「わからないだと」
「そうです。つい先程まで誰もが礼儀正しい友人達でありました」
「それが急に変わったのか」
「左様です」
 その誠実な仮面で語る。
「それが急に。悪魔が取り憑いたかの様に」
「変わったというのだな」
「剣を引き抜いてそれからです」
「カッシオ」
 オテロはイヤーゴの話を聞いてからカッシオに問うた。
「御前は何故剣を抜いているのだ」
「申し訳ありません」
 彼は謝罪するだけだった。
「返す言葉もありません」
「モンターノ、そなたは」
「私はこの通りです」
 傷を見せての言葉だった。見れば腕を汚している。
「傷を」
「愚かな話だ。こんなことが起こるとは」
 ここまで話を聞いておおよそのことがわかった。そのうえで顔を顰めさせる。そこに彼の妻であるデズデモーナがやって来た。黄金色の豊かな長い、波がかった髪に青く澄んだ瞳は優しく眩い光を放っている。透き通る様な白い肌の上に絹の衣をまといそれが艶やかな光沢を月の光の中に見せている。その顔は優しげでありながらも優美な気品と色気を漂わせている。そのデズデモーナがオテロのところにやって来たのだ。
「オテロ様」
「デズデモーナ、起きてしまったか」
「はい」
 夫の問いにこくりと頷く。
「この騒ぎは」
「気にするな。カッシオ」
 妻の姿を見て騒動を終わらせることにした。カッシオの顔を向けた。
「そなたの副官の任を解く」
「はっ」
 カッシオは己の心の中を見せずオテロに己の剣を差し出す。イヤーゴはそれを見てほくそ笑むのだった。
「勝ったな、まずは一勝だ」
「イヤーゴ」
 オテロは次にイヤーゴに声をかける。イヤーゴはすぐに実直な仮面を被ってオテロに対する。
「はい」
「御前は一隊を率いて街に向かえ」
「街にですね」
「それで平和を取り戻せ。いいな」
「わかりました」
 イヤーゴは一礼してから一部の兵を連れてその場を後にする。去る間際にほくそ笑む顔になったがそれは誰も見はしなかった。闇の中で。
「そしてだ」
 イヤーゴが去ったのを見てからオテロはまた言う。
「モンターノを助けよ」
「わかりました。それでは」
「モンターノ殿」
 残っていた兵達がそれに応えてモンターノを左右から助ける。彼はその兵達に助けられながら城の中に向かう。オテロは続いて他の者達にも指示を出すのだった。
「他の者はそれぞれの家に帰れ。わしは城壁に人影がなくなるまでここで見ておく」
「はい」
「それでは」
 他の者達はオテロに一礼してからその場を後にする。場に残ったのはオテロとデズデモーナだけになった。オテロはここに至りようやく落ち着いた顔になった。それで言うのだった。
「暗い夜の中にわしの怒りの心もあらゆるざわめきも消える。夜の抱擁の中に静けさを取り戻したのだ」
「静けさをですね」
「そうだ」
 デズデモーナに対して答える。
「大いなる怒りの後に待っているのは大いなる愛だ」
「オテロ様」 
 デズデモーナはいとおしげにオテロに声をかけた。
「どれ程多くの苦しみと溜息、それに望みが私達を今に導いたのでしょう」
「憶えてはいない」
 首を小さく横に振って述べる。
「もう。どれだけさえも」
「左様ですか」
「色々話したな」
「亡命中の生活や勇ましい出来事、それに長い間の苦しみを」
「そうだ」
 妻のその言葉に頷く。
「私はその話に聞き惚れました」
「幾多の戦いがあった」
 オテロは軍人だ。しかも叩き上げである。だからこそ多くの戦場を生き抜いてきているのだ。そのことを今思い出していたのだ。
「剣戟の響きに敵が死守する場所への突撃に。城壁を登る強襲に風を切って飛ぶ矢」
「そして貴方の故郷のこと」
 ムーア人である彼の故郷だ。
「惨い太陽が照らす荒地や熱の砂漠ですね」
「奴隷になったこともあった」
 彼はそれも脱しているのだ。
「わしの話でそなたは熱い涙を流しその唇から溜息を出し」
「貴方の暗いこめかみの中に貴方の光り輝く美しい心を見ました」
「わしの心に祝福すべく栄光と楽園、そして星達が舞い降りてきたのだ」
 恍惚として上を見上げての言葉だった。
「そなたはわしの不幸故にわしを愛しわしはそなたの憐れみ深い心故にそなたを愛した」
「私は貴方の不幸故に貴方を愛し貴方は私の心故に私を愛してくれた」
「そうだ」
 妻のその言葉に頷く。
「死を、来るがいい。そしてこの抱擁のさ中に、この最高の時にこそわしを捉えるのだ」
「神が苦しみを消して下さり」
「この様な心の喜びを恐れる」
 オテロのその引き締まった顔に微かに脅えが走った。嵐はもうとうの先になくなり空には星達が瞬いている。青い月が優しい光を放っている。
「この様な時はもう来ないのではないか」
「何故そのようなことを」
 デズデモーナはそのオテロの不安を察して問う。
「気のせいか」
「きっとそうです」
 清らかな笑顔と共に述べた。
「ですから。もう」
「そうだな。それでは」
「帰りましょう」 
 優しい声で夫を誘う。
「私達の愛の中へ」
「うむ。それでは」
「愛はどれ程年月が経っても変わるものではありませんから」
「そうだな」
 夫として妻の優しい言葉を受けた。
「それではな」
「はい。それでは」
 二人は静かにその場を後にした。もう夜は静まり騒ぎも消え失せていた。ただ星と月達がその紫苑の夜空にその輝きを見せていたのであった。



今回のお話、イヤーゴというのが色々と策を巡らして、という感じなのかな。
美姫 「彼は何をするつもりなのかしらね」
目的はカッシオだけじゃないみたいだし。
うーん、やっぱり自分の利を求めているのかな。
美姫 「どうなっていくのか、次回を待っています」
待ってます。



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