『オテロ』




                          第三幕  ハンカチの罠

 城の大広間。奥にテラスがあるこの豪奢な部屋の執務用の机にオテロは座っている。その横にはイヤーゴが毅然として立っている。その彼に一人の将校が報告していた。
「以上です」
「そうか」
 オテロはまず彼の言葉に頷いていた。
「遂に来られたのだな」
「間も無くこちらに来られます」
 将校はこうも述べた。
「大使御一行が」
「はい」
 またオテロの言葉に応えてきた。
「その通りです」
「よし、わかった」
 オテロはオテロとしてその将校の言葉に応えた。
「では下がれ」
「わかりました」
 将校は敬礼をして応えその場を後にした。これで終わりだった。
 オテロは彼を見届けるとイヤーゴに顔を向けた。彼はそのイヤーゴに対して問うのだった。
「それでだ」
「先程のお話ですか」
「そうだ」
 イヤーゴに対して頷く。
「カッシオを呼ぶのだな」
「そうです」
 イヤーゴは誠実な顔でオテロに対して頷いてみせた。
「ここに連れて来たならば」
「どうするのだ?」
「その時はお任せ下さい」
 賢者の顔を見せる。だがこれもやはり仮面なのだ。
「私めにそれで宜しいでしょうか」
「わかった。それでは」
「それでですね」
 イヤーゴはさらにオテロに話を続ける。
「総督は」
「わしはどうすればいいのだ?」
「お隠れになって下さい」
 そうオテロに告げてみせた。
「あのテラスのカーテンの裏にでも」
「むっ、確かに」
 そのテラスの方を見て言うオテロだった。
「あの場所は。隠れるには都合がいい」
「はい。ですから」
 誠実を装ってオテロに話し続ける。
「あちらに。それで宜しいですね」
「わかった。ではな」
「はい」
 またオテロに頷いてみせてから一つスパイスを混ぜるのだった。
「彼の仕草をよく御覧になられて下さい」
「うむ」
「ハンカチもまた」
 それがスパイスだった。しかもそれは胡椒よりも効くスパイスだった。それをオテロに振りかけたうえでようやく話が終わった。イヤーゴが敬礼をして部屋を後にしたがそこでまた出て来たのはデズデモーナだった。彼女はおずおずとオテロのところに来て彼に対して声をかけるのだった。
「オテロ様」
「どうした?」
 まずは普通の顔でオテロに応えた。
「御機嫌は如何でしょうか」
「うむ。いい」
 こう答えてはみせる。
「いつも通りの美貌だな」
「有り難うございます」
 オテロのその言葉に穏やかな笑顔で微笑む。
(しかしだ)
 彼は心の中で思うのだった。
(よからぬ企みを持つ優しい悪魔が美しい象牙色の小さな爪を持っているのだ)
 デズデモーナのことである。
(祈祷や熱情に優しい物腰を装いながら)
「それで私は」
 またデズデモーナは言うのだった。
「貴方にこの心を捧げます」
「それでです」
 また話すのだった。
「カッシオ殿のことですが」
「むっ」
 その名を聞くと顔を顰めさせる。無意識のうちに汗さえ出る。
「どうされました?」
「いや、何でもない」
 だがその心の揺れは隠すのだった。
「気にするな」
「ですが」
 ここでデズデモーナはハンカチを出す。しかしオテロはそのハンカチを見てその顔にさらに不吉なものを及ばせた。そうして言うのだった。
「待て」
「?何か」
「ハンカチだ」
 顔を強張らせて妻に対して言うのだった。半ば叫びながら。
「ハンカチを出せ」
「ハンカチ!?ですから」
「違う」
 強張った声で言う。
「わしが御前に最初に与えたそのハンカチだ」
「そのハンカチですか」
「そうだ。それを出すのだ」
 妻を見据えながらそう問い詰める。
「よいな」
「それは持っていません」
「何っ!?」
 その言葉を聞いたオテロの顔がさらに強張る。半ば立ち上がっていた。
「よいか」
「は、はい」
 オテロの剣幕に怯えながらも応える。
「あれをなくしたら承知できぬ。ある強い力を持った魔女が神秘の糸で織ったものなのだ」
「神秘の糸で」
「そうだ」
 彼は言う。
「魔除けの素晴らしいまじないがかけられている。若しなくしたり人にやったりすると禍を招くのだぞ」
「そうだったのですか」
「本当だ」
 妻にはっきりと答える。
「それでどうしたのだ?」
「それは」
「答えよ」
 不吉な顔で妻を問い詰める。
「どうしたのだ、そのハンカチは」
「持っています」
「持っているのだな」
「はい」
 少なくとも彼女はそう思っている。なくしたことに気付いていないのだ。
「それは確かに」
「では探せ」
 汗を流し血走った目で迫る。
「わかったな」
「は、はい」
「話はそれからだ」
「あの、それでは」
 デズデモーナは困った顔で妻に対して言うのだ。
「カッシオ様のことは」
「言ったな。それからだ」
 言葉は突き放したものになった。
「それにだ」
「それ・・・・・・に!?」
「御前はわしの何だ」
 その血走った目でデズデモーナに問う。問い詰める。
「何なのだ。言ってみよ」
「オテロ様の忠実な妻です」
 答えはこうであった。これしかなかった。
「そうだな。では誓え」
「誓います」
「地獄でだ」
 妻を見る顔が呪わしげになる。それはデズデモーナが今まで見たものではないしオテロ自身も今まで浮かべたものではなかった。
「地獄で・・・・・・」
「そんな、私は」
「わしは御前を汚れた女だと思っている」
「そんな・・・・・・」
「では聞く」
 あらためてデズデモーナに対して問う。やはり問い詰めている。
「潔白だというのか」
「そうです」
 彼女はそのつもりだった。しかし今のオテロはそれを信じることができなくなっていた。毒のせいで目も心も見えなくなってしまっていたのだ。
「どうされたのですか、オテロ様」
 恐怖に震える顔で夫に問う。
「急に。そのような」
「悪魔の戯言だ」
「悪魔ではありません」 
 それも否定する。
「私の心は神が御存知です」
「戯言だ。地獄が待っている」
 それも否定するのだった。
「これ以上は言わぬ。下がれ」
「どうされたのですか、本当に」
 普段とはあまりにも違う夫に対して問う。
「貴方は。今の貴方は」
「わしは何でもない」
「違います。今の貴方の御心は」
 デズデモーナは感じていたのだ。
「悲しみを感じます。そして私はその苦い悲しみの理由を知らない。何が私の罪なのか」
「それをわしに問うか」
 また険しい顔を妻に見せる。
「己の百合の様な白い額に記された御前の邪悪な罪をな」
「邪悪な罪を」
「御前は自分が汚れた娼婦でないというのか」
 遂にはこうまで言うのだった。
「自分自身を」
「いいえ」
 真っ青な顔で首を横に振って答えた。
「私はそのような」
「まだシラを切るのか」
「主の信仰の心のままに」
「黙れ!」
 遂にオテロは立ち上がった。そしてその激昂を妻にぶつけた。
「それ以上言うな。もう我慢できぬ」
「ああっ!」
 デズデモーナの手を掴んだ。そしてそのまま扉の方まで行き。
 無理矢理彼女を部屋から押し出した。それから扉を力任せに閉める。それでもう妻の声も姿も彼の前から消えた。彼はその扉から離れると大きく嘆息して部屋の中央に来たそのうえで言うのだ。
「あらゆる悲惨な恥ずべき不運がわしを襲う」
 己が不運に囚われたと嘆くのだった。
「戦場で勇敢に戦い手に入れた勝利は廃墟となり苦悩と恥辱の残酷な十字架を背負うことになった。穏やかな顔で神の意志に従い見果てぬ夢は奪われた」
 ただひたすら嘆く。
「太陽も微笑みを与えてくれた光も消え去り薔薇色の慈悲深き微笑みを持つ精霊達も聖なる顔を恐ろしき地獄の不吉な仮面で覆い。何もかもが罪に包まれていく。何故ここまで苦しまねばならないのだ」
 そう嘆いていると。扉が開きイヤーゴがやって来たのであった。
「それで証拠は」
「お待ちを」
 忠実の仮面をここでは被っていた。
「間も無く来ます」
「そうか。間も無くか」
「はい、ですから」
 そうしてオテロに言うのだった。
「お隠れを」
「カーテンの裏にだな」
「そうです」
 それをまた告げる。オテロはそれに頷きテラスの方に向かいそこの柱廊を覆うカーテンの裏に隠れた。彼が隠れると同時にカッシオが入って来たのだった。
「閣下」
「おられませんよ」
 イヤーゴが彼を出迎えるのだった。
「休養ができまして」
「そうだったか」
「はい。ところでどうしてこちらに」
「奥様がここにおられると思って」
 イヤーゴに答えるが妻の名を彼の口から聞いたオテロは無言で顔を強張らせた。
「やはり」
「もう一度奥様とお話ししたいのだ。私がお許しを得られるかどうか」
「まあ待たれることですな」
「待つのか」
「はい。気分を転換させて」
 優しく親しげにカッシオに声をかけながら彼を柱廊のところに連れて行く。オテロがいるのをはっきりとわかってのことである。そこで足を止めてカッシオに対して問うのだった。
「ところでですね」
「何だ?」
「あの方のことですが」
「あの方か」
「そう、あの方です」
 親しげに笑いながら友人の仮面を被ってカッシオに声をかける。
「あの方とのことですが」
「ああ、あいつか」
「あいつだと」
 オテロはカッシオがデズデモーナをあいつと言ったと思った。思ったのだ。
「実はな」
「ええ」
 カッシオは嬉しそうににやける。そのにやけた顔もオテロは見ていた。
「悪党が勝利を誇り笑う。あの笑いには我慢できない。だが」
 それでもオテロは我慢するしかなかった。だから彼も自重するのだった。
「口付けにも泣き言にも疲れてしまったよ」
「おやおや、それは」
 カッシオは今度は泣きを入れるがイヤーゴはそれを笑ってフォローする。
「他の方に心移りしたとか?」
「違うよ」
「では」
 ここであえてオテロに聞こえないように小声で尋ねるイヤーゴであった。
「ビアンカさんのことは」
「それはだ」
「ええ」
 カッシオも自然と小声になる。オテロはそれを聞き取る為にそっと二人に近付く。カーテンに隠れながら。イヤーゴはオテロのその動きを横目で見ていた。
「それで贈り物は」
「ハンカチにしようかな」
「ハンカチですか」
 わざとオテロが聞き取れるような声を出す。それを聞いたオテロはさらにいたたまれなくなり二人に近付く。イヤーゴはそれを見届けてまた小声になるのだった。
「そうだ、ハンカチだ。そういえば」
「そういえば」
 また小声に切り返す。二人は囁き合うようになっていた。
「実はだ」
「どうされました?」
「昨日私の部屋にこんなハンカチがあった」
「むっ」
 カッシオが取り出してきたのはあのハンカチだった。それをイヤーゴに見せる。
「このハンカチだ」
「ふむ」
(よし)
 イヤーゴは心の中では違うことを思っていた。
(きているな。よし)
「これはまた幸運な」
 イヤーゴはカッシオには相変わらずの津きり笑いを浮かべてまた言うのだった。
「素晴らしい。これは」
「よかったらあげるけれど」
「頂けるのですか?」
「ビアンカの好みではないからね」
 彼がそのハンカチを受け取らない理由はそれであった。
「だから。別にいいよ」
「好みではないのですか」
「あいつは赤いハンカチが好きなんだ」
 見ればそのハンカチは白い。つまり全くのアウトゾーンなのだ。
「だから。別にいらない」
「そうですか」
「だからあげるよ」
 これはイヤーゴへの親切であった。彼もまたイヤーゴを自分を大事に思ってくれる有り難い友人だと思っていたのである。仮面に騙されていたのだ。
「わかりました。有り難うございます」
「うん。それでね」
 ハンカチを手に取るとそれを後ろにやる。わざとオテロに見せた。
「間違いない」
 オテロはそのハンカチを見て呟く。
「全ては消え去った。愛も苦悩も」
 デズデモーナが不義を働いたと確信したのだ。
「わしの心を動かすものは全て消え去った」
「蜘蛛の巣ですな」
 イヤーゴはカッシオに語るふりをして自分自身に述べていた。オテロを嘲って。
「心が底に落ちて嘆き巻き込まれ死んでしまう」
「恋のことか?」
「夢中になり過ぎ見とれていると騙されて陥ります。有頂天になるのは」
「止めた方がいいか」
「忠告ですぞ」
 穏やかな言葉で今度はカッシオに言う。
「わかってるよ。けれど恋は」 
 カッシオはのろけて言葉を続ける。
「枷と針の不思議な美しさ。それがヴぃー得るの糸を光に変えて軽やかに雲よりも白く雲よりも雪よりも白いもの」
「その通りです」
「おのれ」
 オテロはハンカチを見ながらカーテンの裏で憤怒の顔で呻いていた。
「許さんぞ。何があっても」
「くれぐれも夢中になり過ぎないように。よいですな」
「わかっているけれどね。おや」
 ここで城の外からラッパの音が聞こえてきた。それに返す形で大砲の音が鳴る。イヤーゴはその二つの音を聞いて何があったかすぐにわかった。
「ヴェネツィアの船が到着しましたね」
「どうやらそのようだな」
「さて、それではですね」
「うん」
 またイヤーゴの言葉に応えた。
「そろそろ総督も戻られますし」
「この部屋から去った方がいいな」
「そうです。ですから」
「うん、わかったよ」
 にこやかに笑ってイヤーゴの言葉を受ける。
「それじゃあこれで」
「はい」
 カッシオはイヤーゴに別れを告げて部屋を後にする。オテロは彼がいなくなってから慎重にカーテンから出て来た。その顔は憤怒で歪んでいた。
「どの様にして殺してくれよう」
「御覧になられましたな」 
 イヤーゴはその彼に憤怒の顔を向けて囁いた。
「あの男が笑っていたのを」
「うむ」
 オテロは憤怒の顔のままでイヤーゴの言葉に頷いた。
「よくな」
「ではハンカチも」
「それも見た」
 またイヤーゴの言葉に頷く。
「どれもこれもな」
「万歳!」
 遠くから人々の歓喜の声がする。
「ようこそ来られた!」
「待っておりましたぞ!」
「イヤーゴ」
 オテロはテラスの外から聞こえるその声を聞きながらイヤーゴに対して言うのだった。
「毒薬を用意しろ」
「毒薬ですか」
「そうだ」
「獅子の旗に栄光あれ!」
 また後ろから声が聞こえる。
「それであの女を」
「いえ、それよりも」
 あくまでオテロの忠実な部下を装って彼に話す。
「絞め殺す方がよいのでは」
「絞め殺すのですか」
「そうです」
 耳元に来て囁く。心に染み渡らせるように。
「あの人の寝床で」
「寝床でか」
「罪を犯したその場で」
「そうだな」
 オテロは暗い顔でイヤーゴの顔に頷いた。目は大きく出て額には汗を見せている。
「確かにその方がいいな」
「では私はカッシオを」
「あの男を殺すのだな」
「その通りです」
 ここでも忠臣の仮面を被っている。
「閣下の為に」
「よし、それではだ」
 オテロはイヤーゴの忠義に感じ入った。少なくとも彼はそう思った。
「そなたを今日からわしの副官にしよう」
「有り難き幸せ」
「うむ」
 恭しく一礼しながら心の中でほくそ笑む。まずは第一の目的を果たしたことに満足したのだった。そのうえで言葉を続ける。
「それでは閣下」
「何だ」
「もうすぐ大使の一行が来られます」
 それをオテロに告げるのだった。
「そうだな。お迎えせねば」
「そしてその場に奥様を」
「あれをか」
「そうです。奥様がおられないと何かと疑いがかかります」
「そうだな」
 オテロとデズデモーナは彼女の父の猛反対とヴェネツィア中の驚きをもって迎えられたのだ。それだけによく知られた仲である。そのデズデモーナがいないということはそれだけで疑いをかけるものだったのだ。
「ではあれも」
「はい。それでは」
 こうして話はまとまった。イヤーゴは一礼しその場を後にしオテロも己の仕事に入った。城内の大広間は華麗な装飾で飾られていた。絹の白いカーテンに黄金色の像にギリシア神話の絵画が大きくかけられその絹の豪奢な服を着た人々が集っていた。天井にはシャングリラの光がある。そこで人々は貴族の服にマントを羽織った黒い髪の美丈夫を歓待していた。この大使はヴェネツィアの貴族でロドヴィーゴといった。
「ようこそ来られました閣下」
「お待ちしておりました」
 オテロとデズデモーナが彼を出迎える。二人の後ろにはそれぞれ多くの者が並んでいる。イヤーゴやカッシオ、エミーリア達もそこにいた。
「はい、総督」
 ロドヴィーゴもまたオテロににこやかに応えて一礼する。それからその手に持っている羊皮紙を開いて厳かにこう告げるのであった。
「ヴェネツィア政府並びに元老院はキプロスの勝利の英雄に敬意を表します」
「はい」
「私は貴方に政府のメッセージを持って来ました」
「私にですか」
「そうです」
 オテロに対して述べる。
「そして奥様にも」
「有り難うございます」
 これは普通に文書にある言葉だったのだがオテロは今の言葉に眉を不吉に動かすのだった。しかしそれはロドヴィーゴには見えない。
「貴女に神の御加護がありますように」
「有り難うございます」6
 デズデモーナはそれに一礼してからまた述べた。
「神様がお聞き届け下さいますように」
「奥様」
 そのデズデモーナにエミーリアが囁いてきた。
「御気分が優れないのですか?」
「それは」
 デズデモーナは曇った顔でそれを言わない。しかしエミーリアはまだ彼女を気遣っていた。
「気にしないで」
「左様ですか」
「閣下」
 彼女達の前ではイヤーゴがロドヴィーゴに恭しく一礼していた。彼の前ではあくまで実直な武人なのだった。その素顔は決して見せはしない。
「お久し振りです」
「君も元気そうだな」
「はい」
 ここでは親しげな話が交えさせられた。
「ところでカッシオ君は?姿が見えないが」
「総督の御機嫌を損じまして」
「ううむ。それはまた珍しい」
 オテロが機嫌を損ねているということがだ。彼の中ではオテロはあくまで実直な軍人なのだ。
「閣下」
「奥様」
 デズデモーナが出て来た。
「私はお許しがあると思っています」
「何だと」
 それまでロドヴィーゴが手渡してくれた公文書を見ていたオテロの顔が不吉に震えた。
「許しだと」
「今何と」
「いや、奥様」
 事情を知らないロドヴィーゴが二人の間に入った。
「総督は文章を読まれているだけですぞ」
「そうですか」
 デズデモーナはオテロの様子に顔をさらに真っ青にさせたがそれをまずは薄くさせた。
「まあ奥様」
「イヤーゴさん」
 デズデモーナの前のイヤーゴの仮面は紳士のものだった。
「おそらくお許しが出ますので」
「そうですね。カッシオさんはいい方ですので」
「静かにしなさい」
 不吉なオテロの響きがデズデモーナの耳に入った。するとデズデモーナの顔がまた蒼白になった。その蒼白の顔がオテロの目に入ると彼の中で何かが切れた。
「黙れ!」
「えっ!?」
「黙れと言っているのだ!」
 いきなりデズデモーナに飛び掛って来たのだった。
「この悪魔が!」
「なっ、総督!」
 ロドヴィーゴは今の事態に我が目を疑った。だが咄嗟にその手を動かして二人の間に入る。
「何をされます!」
「馬鹿な、オテロ将軍が!」
「これは一体!」
 周りの者も驚きを隠せない。ロドヴィーゴはオテロの前に立って必死に止めている。
「落ち着かれよ、総督!」
「カッシオだ!」
 オテロはロドヴィーゴに止められながら周りの者に対して叫んだ。
「カッシオを呼べ!」
「総督、何を為さるので?」
「決まっている」
 問うたイヤーゴに対して言い返す。
「あいつが来た時のあれの様子を見てやる」
「左様ですか」
「しかしどうしたのだ」
 ロドヴィーゴは今のオテロを見てまだ我が目を疑っていた。それを口に出す。
「閣下は。あのヴェネツィアの獅子は」
「さて」
 イヤーゴはそれにはとぼけるだけだった。
「何が起こったのやら」
「何か知っているのか?」
「それがですね」
 普段彼に見せている実直な軍人としての仮面での言葉だった。
「何も申し上げない方が宜しいでしょう」
「一体何が」
「来たな」
 オテロは血走った目で周りを見回していた。そしてカッシオが来たところでその目を彼とデズデモーナに集中させた。そのうえでイヤーゴに対して告げた。
「あいつの心中を探ってくれ」
「わかりました」
 実直に頷くイヤーゴであった。実直なふりをして。
「諸君!」
 オテロは冷静さを何とかその身にかけながらその場にいる者達に告げてきた。
「統領は。我がヴェネツィアの元首は私を祖国に召還されます」
「まあそうだろうな」
 これは昇進である。今度は本土で要職を務めるのだ。イヤーゴはそれがわかっているからこれを聞いても特に驚くことはなかった。
「御前は嘆くふりをしていろ」
「どうしてそんな・・・・・・」
 デズデモーナは今のオテロの言葉にまたその顔を蒼白にさせる。
「その様なことを」
「黙っていろと言ったな」
「・・・・・・・・・」
 こう言われて遂に黙るデズデモーナだった。
「そして」
 デズデモーナを黙らせ酷薄な目を向けた後で顔を戻してまた周りに告げる。
「私の後任になるのは副官であったカッシオです」
「ちっ!」
 イヤーゴはそれを聞いて素顔を出して歯噛みした。しかしこれは俯いていたので誰にも見えなかった。
「地獄に落ちろ。青二才が」
「それはここにあります」
 ここでそれまで読んでいた公文書を出してみせた。
「ここにある通りです」
「わかりました」
 カッシオが最初にオテロに対して一礼した。
「その御言葉、慎んでお受け致します」
「見たな」
 オテロはそのカッシオを一瞥した後でイヤーゴに対して囁いた。
「はい」
「恥知らずが。のぼせ上がっているようには見えないが」
「確かに」
 イヤーゴもその言葉に頷く。
「見たところは」
「ここにある全てのもの」
 オテロは告げながらまたデズデモーナを見る。彼女はすすり泣き続けている。しかしその彼女にまた冷酷な言葉を浴びせるのだった。
「そのまま泣いていろ。永遠にな」
 そう言ってからまた言うのだった。
「それへの指揮権を彼に任せます」
 これで言葉は終わる。するとすぐに彼のところにロドヴィーゴがやって来た。そのうえで彼はデズデモーナを横目に見ながらオテロに対して話すのだった。
「奥様を慰めて下さい。あまりにもお気の毒です」
「明日ですな」
 彼はそれに答えずに呟くだけだった。
「私が出るのは」
「私?いや」
 思わず言葉を訂正させようとするが間に合わなかった。また感情を爆発させてデズデモーナに対して叫ぶのだった。
「跪け。そして涙を流せ!」
「本当にどうなったのだ!」
 デズデモーナの胸倉を公衆の前で掴んで床に叩きつけるオテロを見てまた呆然となった。
「これがあの・・・・・・ヴェネツィアの獅子なのか」
「奥様・・・・・・」
 エミーリアは咄嗟にデズデモーナのところに来て彼女を助け起こす。必死に彼女を助けようとしていた。
「どうして」
 デズデモーナはエミーリアに助け起こされながら呟いていた。泣きながら。
「私は。どうしてこんな」
「何ということ」
 エミーリアはそんなデズデモーナを見て悲嘆と途方で目の前を真っ暗にさせていた。
「奥様はもう苦しみと悲しみで」
「運命は決まった」
 カッシオは二人とは正反対に満面に笑みを浮かべていた。
「地獄から天国に。運命の頂点が無力な私に預けられた」
「ヴェネツィアに去るというのか」
 ロデリーゴはデズデモーナを見て歯噛みしていた。
「黄金色の天使は私の手の届かないところに」
「何があったのだ」
 ロドヴィーゴはオテロとデズデモーナを見てまだ呆然としていた。
「あのヴェネツィアの獅子が。そしてヴェネツィアの真珠が」
「オテロ様はどうされたのだ」
「何故この様なことが」
 周りの人々も唖然としていた。その中でイヤーゴがここぞとばかりオテロに囁いてきた。
「ところで」
「何だ?」
「急がれた方がよいかと」
「急ぐのだな」
「そうです」
 こうオテロに囁くのだった。実直なふりをここでもして。
「怒りは無用な悪ふざけ。力を奮い起こして立ち上がり仕事に努力を向けて下さい」
「仕事を」
「カッシオは私が」
 また言ってきた。
「彼は自分の陰謀の罪を償い地獄に恥ずべき心を飲み込まれるでしょう」
「わかった」
 オテロはその言葉を受け入れた。
「ではその様に」
「今夜お知らせ致します」
 そんな話をしていた。だがそれぞれの己の心の中の荒らしにさらされている周りのものは誰もそれに気付かない。その間にイヤーゴは今度はロデリーゴに近付いて囁くのだった。
「それでですね」
「ああ」
 彼はイヤーゴの言葉に顔を向けた。
「勇気を出されて下さい」
「勇気をか」
「そうです。船は夜明けに出港です」
 それをまずロデリーゴに言う。
「夜明けだな」
「そう、夜明けからカッシオが司令官」
 これが前提となる。しかし前提は前提なのだ。
「ですが何か不祥事が彼に降りかかればオテロはこのキプロスに残ります」
「暫く留任ということだな」
「ですから」
「ですから」
「狩りの用意を」
 心の奥底に毒を潜ませるような言葉だった。
「宜しいですね」
「わかった。それでは」 
 そして彼はイヤーゴの、悪魔の毒を今飲んだ。薬と思い。
「そうしよう」
「お手伝いしますので」
 親友の仮面だった。
「その時はどうか」
「すまないな」
「もういい」
 オテロは遂に周囲にも感情を爆発させた。暗い声だった。
「もういいのだ」
「!?何が一体」
 周囲の誰もがまたオテロの様子に顔を怯えさせる。
「どうしたんだ、本当に」
「あれ程立派な方が。何があったのか」
「行ってくれ!」
 周囲に対して叫んだ。
「何処なりとも。もう!」
「そうだな」
 ロドヴィーゴが完全にオテロに呆れてしまい周囲に告げた。
「もう。今はな」
「オテロ様」
 デズデモーナがそれでも夫を気遣って駆け寄る。しかしオテロはそんな彼女を突き飛ばす。そのうえでまたしても叫ぶのだった。もうそれは悲鳴だった。
「去れ!わしの前から!」
「よし、完全に終わった」 
 イヤーゴは取り乱すオテロの有様を見てほくそ笑む。
「毒が完全に回ったな」
「わしだけは自分から逃れることができない。血だ!」
 オテロの取り乱した言葉が続く。
「卑しい思い!それがわしを苦しませる!」
「恐ろしいことだ」
 ロドヴィーゴは首を横に振るばかりだった。オテロの有様を。
「もう去ろう。今の彼は」
「そうですね」
「少なくとも今は」
 皆ロドヴィーゴのその言葉に従うのだった。悲しい顔で。
「去りましょう」
「もう」
「抱き合った二人を見るのか」
 デズデモーナもロドヴィーゴとエミーリアに護られてその場を後にする。カッシオもロデリーゴも。残っているのはオテロとイヤーゴだけだった。オテロは取り乱し続けておりイヤーゴは悪魔の顔で彼を見ているのだった。それは嘲笑する悪魔の顔だった。邪悪な悪魔そのものだった。
「ハンカチだ」
 オテロは言う。
「ハンカチ!どうすればいいんだ!ああ!」
 遂に昏倒して仰向けに倒れこんだ。もう己の心の乱れに耐えられなくなったのだ。城の外から聞こえるヴェネツィアとオテロを讃える言葉ももう耳には入らない。イヤーゴはその仰向けに倒れ込んでしまったオテロを見下ろして笑う。やはり嘲笑する邪悪な悪魔の素顔で。
「誰が妨げることができよう。俺がこいつの額をこの踵で踏み潰すことを」
 先の尖った靴を見ながら哂う。悪魔の笑いで倒れ伏すオテロを見下ろし続けていた。



イヤーゴの思うように事が進んでいるようだな。
美姫 「みたいよね」
今回の話は本当に陰謀と言うか、策略だよな。
美姫 「にしても、敵を嵌める罠じゃないってのがね」
どんな風になるのか、ちょっと楽しみだけれど。
美姫 「このままイヤーゴの思い描く通りに進んでしまうのかしらね」
次回も待っています。
美姫 「待ってます」



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