『薬剤師』





 十八世紀イタリアミラノ。ここに一軒の薬屋があった。
「風邪薬はこれですか」
「はい、そうです」
 イタリア人らしい明るい黒い目をしていて癖のある短く刈った茶色の髪の顔がやや四角くはっきりとした眉の形をした端整な顔立ちの若者がカウンターで客に応えていた。カウンターの後ろは様々な薬が入った箱で一杯である。
「他には頭痛の薬もありますけれど」
「頭痛のですか」
「それに歯磨き粉も」
 そういったものもあるというのである。
「そちらも如何でしょうか」
「はい、それじゃあどちらも」
 客はにこりと笑って全部買って行った。客が去ると若者はまずはふう、と溜息をついた。カウンターは全て褐色の木造りで中々頑丈そうである。若者は黒い服の上に白い上着を羽織りそのうえで溜息を出して難しい、それでいて困った顔をしてカウンターにもたれている。
「全く、この仕事はなあ」
 右で頬杖をついての言葉であった。
「何もわからないし面白くないし」
 こう言うのである。
「何をしていいのかさっぱりわからないし」
 つまり今の仕事に不平を持っているというわけである。
「これでグリエッタがいないととっくに辞めておるところだよ、薬剤師なんて」
「おおい、メンゴーネ君」
 ここで店の奥から低い男の声がしてきた。
「いるかい?」
「あっ、センブローニョ先生」
 メンゴーネと呼ばれたこの若者はその声が聞こえてきた方に顔を向けて応えた。
「今お客さんが来たところで」
「ああ、そうなのか」
「風邪薬と頭痛の薬、それに歯磨き粉が売れましたよ」
「そうか、それは何よりだ」
 ここでその声の主が出て来た。髪は白く顔は細長く皺が目立つ。垂れているというよりは垂れ下がっている目をしており身体つきは痩せている。その彼がセンブローニョだった。白い服とズボンの上にメンゴーネと同じ白い丈の長い上着を羽織っている。
「売れるに越したことはないからな、わしの薬が」
「ええ、全くです」
 メンゴーネは彼の言葉に応える。
「それで僕もですね」
「ああ、君もそろそろ風邪薬を作れるようになってきたな」
「見よう見まねですけれど」
 それでも一応は、ということだった。
「何とかできてきましたかね」
「何事も敬虔だよ」
 センブローニュはこう言いながらカウンターの前に座った。そうして手元に置かれていた新聞を手に取った。そのうえで懐から眼鏡を取り出し顔にかけるのだった。
「それじゃあ」
「新聞読まれるんですか」
「ちょっと休憩でね」
「休憩なら店の奥でもできますよ」
「その奥にいるのに飽きたんだよ」
 眼鏡をかけたその顔でメンゴーネに述べるのだった。
「それでここに出て来たんだよ」
「そうだったんですか」
「そうだよ。それでね」 
 センブローニョはさらに言うのだった。
「今日はヴォルピーノさんが来る日だったね」
「ああ、あの人ですか」
 メンゴーネはヴォルピーノという名前を聞いて一気に不機嫌な顔になった。
「あの人も来るんですか」
「この場合は来られるだよ」
 さりげなく彼の言葉を訂正させた。
「お客さんだしお得意様だし」
「それはその通りですけれど」
「まあとにかくだよ」
 センブローニョは新聞に目を通しながら彼に告げる。
「ヴォルピーノさんが来たら頼むよ」
「一応わかりました」
 これまた随分と誠意に欠ける返事だった。
「それじゃあそういうことで」
「頼んだよ」
「それで先生」
「んっ、今度はどうしたんだい?」
「グリエッタですけれど」
 ここでまた彼女の名前を出したメンゴーネだった。
「今は一体何を」
「二階で裁縫をしているよ」
 こう彼に答えるのだった。
「今丁度ね」
「そうですか」
「いい娘だよ」
 センブローニョは惚れ惚れとした声でそのグリエッタという名前の相手を褒めるのだった。どうやらこれは娘であるらしい。
「わしもだ。知人から引き受けて後見人をしているが」
「いい娘ですか
「早く相手を見つけたいものだ」
(それはわしだ)
 実は心の中でこんなことも思っていたりするのであった。
(もう長い間男やもめだ。そろそろ再婚したいものだ)
(先生も何を考えているのか油断はできないな)
 メンゴーネも内心で自身の師匠を警戒していた。
(早いうちに決めてしまいたいな)
 そんなことをそれぞれ考えているとだった。ここで店に蜂蜜色の髪に爽やかな顔の緑の目の派手な服の若者がやって来た。鼻が随分と高くて大きい。
「やあ、どうも」
「ああ、ヴォルピーノさん」
 メンゴーネはその彼の顔を見て不機嫌な声で応えた。
「いらしたんですか」
「さて、頼んでいたのはできているかな」
「ああ、いらっしゃい」
 見ればセンブローニョも彼に不機嫌な声で応えていた。表情もあまりいいものではない。
「約束のものはできていますよ」
「それは何よりだよ」 
 ヴォルピーノは彼の言葉を聞いてやや大袈裟な身振りで身体を動かしてみせた。その動作が不自然なまでに芝居がかってもいる。
「それじゃあね」
「ああ、メンゴーネ君」
「はい」
「もうそろそろ薬の調合に行くから」
「そうですか」
 メンゴーネは無愛想な声で師匠に応えた。
「今から行かれるんですか」
「だから後は頼んだよ」 
 そしてこうも彼に告げるセンブローニョだった。
「そういうことでね」
「ええ。それじゃあ」
 こうしてセンブローニョはそそくさとその場を後にしてしまった。後に残ったのはメンゴーネとヴォルピーノだけである。ヴォルピーノはまるで舞台にいるような動作でメンゴーネに問うてきたのだった。
「それでグリエッタさんは?」
「さあ」
 これまた無愛想な返答だった。
「何処ですかね」
「あれ、このお店にいるんだよね」
「そう思いますけれどね」
 これまた実に無愛想な返答だった。
「確か」
「つれないね。どうしたんだい?」
「別につれなくはないですよ」
「じゃあ無愛想か」
 ヴォルピーノも全く懲りない。
「まあそれはそれでいいけれどね」
「そうなんですか」
「君はいいんだよ」
 結局メンゴーネに興味はないということだった。実に素直な言葉である。
「僕はね、それよりもね」
「お薬ならありますけれど」
「いやいや、お薬も大事だけれど」
 そうは言ってもどうでもいいというのは明らかだった。
「さて、それでね」
「お帰りはあちらですよ」
「何で帰らないといけないんだよ」
 またしても訳のわからないまでに大袈裟な身振りを見せてきた。
「あのね、メンゴーネ君」
「はい」
「天使は何処にいるんだい?」
「天国ですよ」
 あくまでぶしつけな態度を徹底させている、
「そこに行かれることをお勧めします」
「いやいや、僕は天国に行くのはまだまだ先でね」
「今すぐに行っても誰も困りませんけれど」
「何を言うんだい、僕はね」
 まだ言う彼だった。
「グリエッタに会いに来たんだよ」
「誰か私を呼んだ?」
 ここで黒い髪を後ろで束ねた少女が出て来た。小柄で少しふっくらとしている。目が大きく顔はやや丸い。身体は太めだがそこに艶がある。特徴的なのはその目で上半分と下半分の色が違っていた。上は明るく下は暗い鳶色になっているのである。その少女が出て来たのだ。服は見事な黄色い服である。ワンピースで丈の長いスカートである。
「あら、ヴォルピーノさん」
「ああ、僕の天使よ」
 ヴォルピーノは少女の姿を見てかしづくようにしてきた。
「ようこそ、僕の前に」
「ここは私の家ですけれど」
「僕の前に出て来たことが一番嬉しいんだ」
「そうなんですか」
 少女も実に素っ気無い態度である。
「それでお薬は」
「そう、グリエッタ」
 ここで彼女の名前を呼ぶのだった。
「僕はね」
「ええ。お薬ですね」
「今度パスタでも食べに行かないかい?」
「それなら買い置きがありますから」
 やはり素っ気無いグリエッタだった。
「別に」
「ナポリ産のね。最高のパスタのお店がね」
「最近じゃミラノでも手に入りますし」
「そう、あのチーズをやっぷりとまぶしたパスタがね」
 当時スパゲティはそうやって食べていたのだ。茹でたパスタにチーズをまぶしてそれを手掴みで食べていたのである。フォークは使わなかったのだ。
「最高に美味しいよね」
「はい、私も好きです」
「だから今度ね」
「お薬ですよね」
 ヴォルピーノが何故ここに来ているのかはもう言うまでもなかった。
「それで」
「ああ、それはね」
「はい、どうぞ」
 ここでメンゴーネが木箱に入れた薬を出してそれを彼に差し出してきた。
「これを」
「ああ、うん」
 薬を突き出されてまずは受け取るしかなかった。だがそれで終わるヴォルピーノではなかった。
「それでグリエッタ」
「はい、もうお帰りですよね」
「いや、僕はまだね」
「お家の方が心配されていますよ」 
 つれない声で彼に言うだけだった。
「さあ、お帰りなさい」
「やれやれ、また来るよ」
「お薬だけ買ってもらったらいいです」
 こう返すだけのグリエッタだった。
「じゃあまた」
「僕は決して諦めないよ」
 勝手にこんなことを言うヴォルピーノだった。
「そう、何があってもね」
「お帰りはあちらです」
 そんな彼の言葉は一切聞かずに返すグリエッタだった。
「それじゃあ」
「また明日来るよ」
 どうやら懲りるということが頭の中に全く入っていないヴォルピーノは平然としてグリエッタに一礼してそれから去る。騒がしい人間が消えると残ったのは二人だけだった。
「グリエッタ」
「メンゴーネ」
 微笑を浮かべて見合う二人だった。
「やっと二人きりになれたね」
「ええ、全くヴォルピーノさんもセンブローニョさんも」
「困ったことだよ」
「もう帰ったかい?」
 名前を呼ぶとだった。そのセンブリョーニョが店に出て来た。ひょっこりと顔を出して二人に対して声をかけてきたのであった。
「ヴォルピーノさんは」
「あっ、はい」
「もう帰られました」
 二人はすぐに顔を離して彼に応える。
「お早いお帰りで」
「今しがた」
「そうか。毎日来て騒がしい人だからな」 
 実のところセンブローニョにとってもヴォルピーノは厄介な客であった。人間としてもかなりうっとうしい性格ではあるが客としてもそうなのだった。
「早く帰ってくれて何よりだよ」
「ですよね、本当に」
「お薬だけ買ってもらったらいいんですけれど」
「全くだよ。じゃあまた調合に戻るから」
「はい」
「それじゃあ」
 これでまた引っ込むセンブローニョだった。彼が消えると二人はまた見詰め合う。そして今度は互いに抱き合いそのうえで話すのだった。
「早く一緒になりたいね」
「ええ」
 抱き合ったうえで話すのだった。
「何とか一緒になって」
「そして幸せに」
「愛がまずないと」
「お互いのね」
 それぞれ言葉を出していくのだった。
「この世の中は全く面白くないから」
「それがあってこそね、本当に」
 こう言葉を交えさせているとだった。ここでまたセンブローニョがやって来たのである。
「ああ、新聞だけれど」
「あっ、新聞ですか」
「それはここに」
 またセンブローニョが出て来て慌てて離れる二人だった。咄嗟にその新聞を手に取って差し出すのだった。
「どうぞ」
「よく読んで下さいね」
「気分転換も必要だからね」
 センブローニョは二人には気付かずこう言うのであった。
「だから新聞をね」
「ええ、まともな新聞を読むとためになりますからね」
「是非共」
「それじゃあ」
 センブローニョは新聞を受け取ると姿を消した。二人はまた向かい合う。今度はより熱心に見詰め合い愛の言葉を語り合うのであった。
「何時までも一緒に」
「ええ、何時までも二人で」
 手を取り合っての言葉だった。
「このミラノで幸せに暮らそう」
「天国までも二人で」
「グリエッタ」
「メンゴーネ」
 そしてまた抱き合うのだった。
「二人で何時までも」
「何処までも」
 熱く抱き合う。この時またしてもセンブローニョが出て来た。しかし二人はこのことには気付かなかったのだった。
「眼鏡は何処だ・・・・・・待て!」
 その二人を見て思わず声をあげたセンウブローニョだった。
「一体何をしとるんだ!」
「あっ、しまった!」
「見つかった!?」
「見たぞ、はっきりと見たぞ!」
 センブローニョは二人に対して怒鳴りだした。
「許さん、減給だ!」
「減給って今でも安いのに!」
「何て無慈悲な!」
「そうでなければ鼻に唐辛子を入れてやる!」
 何気に妙にお仕置きがせこいセンブローニョである。
「それか耳にマスタードを塗るかどれがいい!」
「じゃあ唇に蜂蜜を」
「それか・・・・・・いやそれがお仕置きになるか!」
「それなら給料のアップを!」
「駄目に決まっておるわ!悪ふざけもいい加減にするのじゃ!」
「だから落ち着いて」
 騒ぐ二人の間に入って宥めるグリエッタだった。
「メンゴーネもおじ様も」
「僕は黙りたいんだけれど」
「許さん!今から単身日本へ行け!」
「日本って何処なんですか!?」
「わしが知るか!御前が勝手に探して行って来い!」
「そんな無茶な!」
 こんな話をしているうちにグリエッタが何とか二人を分ける。センブローニョはまだ騒いでいたがやがて仕事の部屋に追いやられる。カウンターではまた二人きりになれたメンゴーネとグリエッタが向かい合うが流石にもう抱き合ったり愛の言葉を交えさせる余裕はなくふう、と溜息を吐き出すばかりであった。
 その一人になったセンブローニョはまだ怒っていた。とりあえず店の裏手に出ていた。
「全く忌々しい」
 裏手はごく普通の小路で特にこれといっておかしな場所ではない。強いておかしいと言えばセンブローニョだけである。彼だけがおかしかった。
「おのれメンゴーネわしのグリエッタに唾をつけるとは」
 勝手に自分のものにしてしまっている。
「許さん。目に胡椒を入れてやるわ」
 そうしてこんなことを言う。そこにたまたまヴォルピーノが通り掛ったのであった。
「おや、センブローニョさん」
 両手を大きく広げて彼に声をかける。
「どうしたんですか?こんな場所で」
「そういうヴォルピーノさんこそどうしてここに?」
「いや、子供達と遊んでいましてね」
 こう答えるヴォルピーノだった。
「いや、子供と一緒にいると幼い日のことを思い出しますね」
「その頃から全く変わってはないのではないですかな?」
 そんなヴォルピーノに嫌味で返すセンブローニョだった。
「まあ私も子供や犬達と遊ぶのは好きですけれどね」
「おお、同志よ」
「同志じゃありませんよ」
「ではその同志に心からの願いがあります」
 相変わらず人の話は耳に入らないヴォルピーノだった。
「それでですね」
「私は話を聞いていないのですが?」
「そんなことは二の次です」
 何処までも我が道を行くヴォルピーノだった。
「それでですね」
「ええ。仕方ないから御聞きしましょう」
 ヴォルピーノのその強引さに折れてしまった形だ。
「それで何ですか?」
「グリエッタさんと私をですね」
「はい、却下です」
 そこから先はもう言わずともわかったし聞くつもりもなかった。
「それじゃあまた来て下さい」
「話はまだ終わってませんが」
「私の方では終わりました」
 こう返すのであった。
「じゃあそういうことで」
「おやおや。つれないですね」
 だからといって懲りる様子は見せないヴォルピーノであった。
「ではまた明日」
「お薬の用件以外ではお相手しませんので」
「ではグリエッタのことでまた」
 やはり人の話を聞かないヴォルピーノであった。しかし彼は今は大人しいとは言えない大袈裟な身振りだが姿を消した。一人になったセンブローニョはさらに忌々しげな顔で言うのであった。
「やはりここは一気に打って出るか」
 こう言うのである。
「グリエッタを妻にする。すぐにでも公証人を呼ぼう」
「あら、そう来るのね」
 ところがであった。彼の後ろの裏手の扉は開いていた。そこからグリエッタが覗いていたのである。
「それだったら私も」
 話を聞いていてグリエッタは扉の陰に隠れて含み笑いを浮かべていた。彼女の頭の中に何かが宿ったようであった。
 センブローニョがグリエッタと結婚する為に公証人を呼んだことはすぐに街中に知れ渡った。その次の日に呼ぶということまでわかりミラノの市民達はそれぞれ言った。
「やれやれ、もういい歳なのに」
「お元気なことで」
「若い嫁さん持つと苦労するのにな」
 あまり好意的には思われていなかった。むしろ笑いものに近い。しかしセンブローニョは本気であり一歩も退くつもりもなかった。
「さて、そろそろじゃな」
 センブローニョは店のカウンターのところにいた。壁にかけてある大きな時計を見ながら店の中をうろうろとしている。
 そこに丁度いい具合にグリエッタが来た。センブローニョは彼女の姿を認めるとすぐに声をかけたのであった。
「おお、話は聞いておるな」
「おじ様が私と結婚なさることですね」
「その通り。それでよいな」
「ええ、いいですわ」
 にこりと笑って両手は腰にやって答えてみせた。
「喜んで」
「子供は素直が一番じゃ」
 今のグリエッタの言葉に顔を崩して笑うセンブローニョだった。
「では公証人がそろそろ来るからのう」
「はい」
(さて、メンゴーネ) 
 グリエッタは彼に応えながら内心恋人のことを考えていた。
(打ち合わせはしたしその通りにやってね)
 今の彼女の心の中での言葉は当然ながらセンブローニョには聞こえない。センブローニョが今か今かと待っている間に店の扉が開いた。そうして入って来たのは。
「お待たせしました」
「おお、来たか」
(来たわね)
 センブローニョは正装した若い男を見て声をあげた。眼鏡をかけ変な髭を顔中に生やしているが少し見ればメンゴーネとわかるものだった。ここでもグリエッタの心の言葉は聞こえないセンブローニョだった。
(じゃあ上手くやってね)
「公証人さんですな」
「如何にも」
 その公証人に化けているメンゴーネが勿体ぶった動作で応える。その間しきりに目と目で話をする彼とグリエッタであった。それから彼はまたセンブローニョに言ってきた。
「そしてセンブローニョさん、お話ですが」
「はい」
 センブローニョはにこやかに彼に話そうとする。しかしここでもう一人店の中に入って来たのであった。
「御機嫌如何でしょうかセンブローニョさん」
「えっ!?」
「誰っ!?」
 ここでメンゴーネもグリエッタ思わず声をあげてしまった。何ともう一人正装した男が出て来たのである。驚かずにはいられなかった。
 見ればやけに鼻が高く不自然なことこの上ない赤い長い髪の毛である。おまけに顔はやけに黒く鼻が高い。二人はその鼻を見て誰か察した。
「ひょっとして」
「ヴォルピーノさん?」
「お待たせしました、僕が公証人です」
「何を言ってるんですか」
 メンゴーネは咄嗟にそのヴォルピーノに対して返した。
「僕が公証人ですよ」
「いいえ、僕ですよ」
 だがヴォルピーノもこう返すのだった。
「僕が公証人ですよ」
「それは間違いです、僕です」
「僕ですよ」
「ええい、どっちかはもういいから」
 これまた随分なことを言うセンブローニョだった。
「とにかく証明書ですが」
「あっ、はい」
「それですよね」
「それはありますか?」
 このことを二人に対して尋ねるのだった。
「それで」
「はい、あります」
「僕の方も」
 こう言ってそれぞれ証明書を差し出す二人だった。だがその証明書には。
「あれっ!?」
「あれって」
「どうされましたか?」
 二人の自称公証人はセンブローニョが驚いた顔になったのを見て問うた。
「何かありましたか?」
「おかしなことが」
「グリエッタの名前があるのはいいのですが」
 センブローニョはまずはそれはいいとした。
「ですが」
「ですが?」
「それはおかしくないのでは」
「それはおかしくはないです」 
 センブローニョもそれはいいとした。
「ですが。相手の方の名前が」
「ええ」
「僕はそう聞いていますけれど」
「何故こちらはメンゴーネで」
 まずは一枚を指し示して言う。
「それでもう一枚はヴォルピーノさんになっているんですか?」
「それは予定通りだけれど」
 グリエッタはそちらはいいとした。
「けれどヴォルピーノさんまで同じことをするなんて」
「まあまあ」
「それは大した問題ではありあませんよ」
「いや、大した問題ですよ」
 センブローニョはムキになった顔で二人に言い返した。
「何で私が相手に入っていないのですか?」
「ですからメンゴーネ君がですね」
「ヴォルピーノ君がですよ」
「いいや、僕・・・・・・いやメンゴーネ君がです」
「僕・・・・・・いやヴォルピーノさんがですね」
「とにかくです」
 たまりかねたセンブローニョが二人の言い争いを止めさせた。
「こんな証明書は受け取れません。お帰り下さい」
「まあまあセンブローニョさん」
 しかしここでヴォルピーノが言うのだった。
「もう一つ面白いお話がありまして」
「面白い?」
「今トルコで薬剤師を探しています」
 彼はこのことを話したのだった。
「トルコで丁度ペストが流行っていまして」
「何っ、ペストが」
「あの病気が流行るなんて」
「トルコも大変なのね」
 センブローニョだけでなくメンゴーネもグリエッタもペストと聞いて顔色を変えた。この時代欧州ではペストはまさに恐怖の象徴だったのである。これは長い間そうであったことだ。
「ですがセンブローニョさんはペストの治し方を御存知ですね」
「勿論です」
 彼は今度は真面目な顔で答えた。
「あの病気をどうにかできなくて何故薬剤師ですか」
「そうですね。それではです」
 ヴォルピーノもそれを聞いてからさらに言うのであった。
「今トルコは国を挙げて薬剤師を募集しています」
「薬剤師をですね」
「報酬がかなりものだそうですよ」
 このことも話すのであった。
「如何でしょうか」
「そうですな」
 センブローニョはその話を聞いて考える顔になった。そのうえで一人考えはじめた。
「ううむ」
「よし、今のうちだ」
 そんな彼を見てまた動くヴォルピーノだった。そっと扉から抜け出す。
 その間メンゴーネとグリエッタは二人一緒になって。そのうえであれこれと話していた。
「今度はトルコ人ね」
「そうだね」
 真面目な顔で話をしていた。
「それに化けてね」
「わかっているよ」
 メンゴーネは彼女の言葉に頷くとまた姿を消した。彼は店の奥に消える。その間センブローニョは考え続けている。そうして顔をあげるとだった。
「よし、決めたぞ」
「おお、そうなのですか」
 店の奥からトルコの服を着た男が出て来た。とはいっても髭はそのままで服はいつものメンゴーネの服で頭にターバンを巻いただけである。
「決められたのですね」
「トルコの方ですか?」
「見ておわかりですよね」
「ええ、まあ」
 センブローニョはとりあえずターバンだけで判断した。
「そう見受けますが」
「如何にも私はトルコ人です」
 ここでも言い繕うメンゴーネだった。
「いや、薬剤師を探してこのミラノまで来たかいがありました」
「そうでしたか」
「それでです」
 メンゴーネはトルコ人に化けたまま話を続ける。
「一つ条件がありまして」
「条件とは?」
「お嬢さんをです」
 グリエッタを見ての言葉である。そのグリエッタも彼を見て楽しそうに笑っている。
「私と一緒にして欲しいのですが」
「一緒にですか」
「そうです。三人で一緒にトルコまで行くことが条件です」
 そういうことにするのであった。
「それが絶対の条件です」
「ふむ。トルコに行けば報酬が貰える」
「家が幾つも買えて宝石が山の様に」
「それはいい」
 宝石とまで聞いて完全に乗り気になったセンブローニョだった。
「それでは早速トルコに」
「では三人で、ですね」
「うむ、行こう」
「では」
 メンゴーネはここでその懐から。あの証明書を出した。しかしこう言い繕うのであった。
「ここにサインを」
「はい、それでは」
 完全に報酬のことで頭が一杯になったセンブローニョはそれが証明書と気付かない。すぐにペンを持って来て素早くサインする。それで決まりだった。
「お待たせしました」
 丁度ここでヴォルピーノが戻って来た。服はターバンを巻いて適当な付け髭で変装している。インチキ臭いトルコ人である。
「それで証明書ですが」
「あれっ、今話は終わりましたけれど」
「えっ、今って」
 センブローニョの言葉を聞いてきょとんとした顔になるヴォルピーノだった。
「トルコ行きがですか?」
「そうですけれどそれが何か」
「僕が証明書を持って来たのに」
「証明書なら今サインしましたし」
 また彼に答えるセンブローニョだった。
「それでまた証明書って」
「どういうことなんだ?一体」
 訳がわからずつい腕を組んでいぶかしんだ顔になるヴォルピーノだった。
「話がわかりませんが」
「よし、これでいいな」
「そうね」
 その中でメンゴーネとグリエッタが笑顔になっていた。
「これで僕達は結ばれたんだ」
「名実共にね」
「結ばれた?」
 ヴォルピーノは今度は二人に顔を向けた。
「結ばれたって何がなんだろう」
「やったな、グリエッタ」
「ええ、メンゴーネ」
「メンゴーネ君!?」
「今そう言ったな、確かに」
 ヴォルピーノもセンブローニョもここで気付いたのだった。
「トルコ人じゃないのか?まさか」
「そういえば似ているような」
「よし、もう変装はいらないぞ」
「ええ、そうよ」
 ここでターバンと髭を取るとだった。出て来たのはまさにメンゴーネだった。
「あっ」
「本当にメンゴーネだったのか!」
「いや、騙すつもりはなかったんですがね」
 今更ながら白々しく言うメンゴーネだった。
「けれどこんなに上手くいくなんて思いませんでしたよ」
「しまった、先を越されたか」
「何とっ、今度はあんたか!」
 もう一人のトルコ人がターバンと付け髭を取るとそこに出て来たのはヴォルピーノだった。センブローニョはここでまた驚くことになった。
「じゃあトルコ人は一人もいなかったのか!」
「全く。こんなことなら最初から変装の用意をしておくんだったよ」
「いや、問題はそこじゃないですぞ」
 センブローニョは項垂れる彼に突っ込みを入れる。
「じゃあトルコでペストのお話は」
「どうなんでしょうね」
 今更極めて無責任に言うヴォルピーノだった。
「ひょっとしたら本当にそうなっているかも知れませんけれど」
「本当にって」
「僕トルコのこと知りませんし」
 これまた実に無責任な言葉だった。
「まあ気にしないで下さい」
「今更気にしないでっていうのも」
「それにしても。失敗したよ」
 あらためて困った顔で項垂れるヴォルピーノだった。
「完全に先を越されたよ」
「ああ、そうだった」
 言われてこのことにもやっと気付くセンブローニョだった。
「グリエッタ、何時の間に」
「先手必勝だからね」
 そのグリエッタが楽しげに笑って彼に返す。
「おじ様、残念でしたわね」
「ううむ、結婚してしまったからには仕方がない」
 センブローニョもこれ以上は突っ込もうとしなかった。
「まあ御前とメンゴーネの結婚を認めよう」
「有り難うございます」
 そのメンゴーネがにこやかに笑って言葉を返してきた。
「絶対に幸せになりますから」
「当たり前だ。グリエッタを不幸にしたらわしが許さんぞ」
 このことは念押しするセンブローニョだった。
「何があってもな」
「はい、それじゃあ」
「まあなってしまったものは仕方がないか」
 ヴォルピーノも諦めていた。
「女の子は一人だけじゃないしね」
「そうだな。女の子は一人だけじゃない」
 センブローニョも彼の言葉に頷く。
「別の女の子を探すとするか」
「ええ、そうしましょう」
「じゃあグリエッタ」
「ええ、メンゴーネ」
 二人は互いに顔を向き合い笑みを浮かべていた。
「これからもずっと一緒にね」
「楽しく過ごしましょう」
「色々あったけれど結婚したのはいいことだよ」
 ここでこう言ったヴォルピーノだった。
「皆今日の仕事が終わったら」
「ええ」
「今日の仕事が終わったら」
「僕が御馳走するよ。御馳走とワインで」
 それを御馳走するというのだった。
「祝おう。それでいいね」
「おお、それは結構なことだ」
 センブローニョが早速乗り気になっていた。
「では今夜は二人を祝福して」
「飲んで食べましょう」
「うん、そうするか」
「じゃあグリエッタ、二人のこれからを祝福して」
「乾杯ね」
 こう言い合って早速ヴォルピーノの招待するその宴に向かう四人だった。何はともあれ奇妙な騒ぎは祝福の宴に変わりそれで終わるのであった。


薬剤師   完


                              2009・9・7



騙し合いの末、愛し合う二人が結ばれたか。
美姫 「良かったじゃない」
だな。それにしても、今回は掛け合いが面白かったです。
美姫 「堅苦しい言い回しじゃなかったしね」
うんうん。投稿ありがとうございました。



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