『賢者と獣と剣聖と』




一夜明け、蓉子は微かな音に目を覚ました。
 時計はまだかなり早い時間を示していたが、ここまでハッキリと目が覚めてしまうと二度寝をする気にもならない。
 取り敢えず何か飲み物をと思い、身支度を整えると静かに部屋を後にする。
 そのままキッチンへと向かい、グラスに水を注ぐ。
 それを飲み干してグラスを洗っていると、微かな音が蓉子の耳に届いた。
 普段なら気付きもしない筈の大きさだが、早朝という事もあって静まり返った中では耳につく。
 不思議に思った蓉子が音を頼りに向って見ると、どうやら中庭から聞こえるらしい。
 テラスへ通じる部屋へと入り、カーテンを開く。
 ガラス戸を開けると、山間部の早朝ならではの僅かに湿り気を含んだ涼しい空気が蓉子を出迎えた。
 その空気に一瞬ここへ向った理由を忘れ、目を閉じて澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
 それだけで清々しくなりそうな空気を楽しんでいると、
「・・・蓉子か」
 と言う声が響いた。
 突然の声に驚いて視線を向けると、黒い袖抜きにジーンズ姿の荒斗が木刀片手に歩いて来る所だった。
「こ、荒斗さん・・」
 先の驚きをまだ引きずったまま蓉子が名を呼ぶと、荒斗は口端を歪めた苦笑を浮かべ、「済まんな、驚かせたか」と短く謝罪する。
 そんな荒斗に慌てて気にしない様に言うと、改めて荒斗へ視線を向ける。
 どうやらかなり動いた後らしく、腕や首元には汗が浮かんでいた。
 やがてテラスについた荒斗はテーブルに木刀を立てかけ、頬に張り付いた長髪を鬱陶しそうに掻き上げ、用意しておいたらしいタオルを手に取る。
 軽く顔や首元、腕の汗を拭い取ると、タオルを首に引っ掛け、再び蓉子へと向き直り、口を開く。
「随分と早いが・・どうかしたのか?」
 汗に濡れた髪を掻き上げた性で、普段と違い前髪で隠されていない荒斗の顔に僅かに頬を赤らめながら、蓉子は言葉を返す。
「いいえ。ただ目が覚めちゃっただけよ」
 そう言って、私も旅行ではしゃいでるのかもねと悪戯っぽく笑って見せる蓉子に、荒斗もまた口端のみの笑みを浮かべた。
 それを見咎めた蓉子はやや拗ねた様な表情を浮かべてみせる。
「あら、笑わなくても良いじゃない。まぁ、私には似合わないでしょうけど」
 そう言って視線を逸らす蓉子に荒斗は苦笑を浮かべた。
「別にそう言う心算ではなかったんだがな」
「あら、それならどう言うつもりだったのかしら?」
 返答しつつも拗ねた様子を崩さない蓉子に、荒斗は苦笑を深める。
「いや何、楽しめている様だと思っただけだ。他意はない」
 その言葉を聞いてなら良いけど、と表情を和らげる蓉子を横目に、荒斗はテーブルの上から煙草を取ると一本咥え、火を点ける。
 恐らく、今の一連のやり取りを聖辺りが目にしていたら、驚愕の余り固まっていただろう。
 普段の大人びた印象からは考えられない程、今の蓉子は年相応の少女であった。
 自分でもそれに思い至ったか、蓉子はやや頬を赤らめつつ、話を変える事にする。
 その辺りが久音曰く『初心・奥手』等と言われる所以なのだが、蓉子自身はそれに気付いてはいない様だが、それは兎も角。
「荒斗さんも随分と早いけど、鍛錬?」
 立て掛けられた木刀を見ながらの言葉に荒斗は軽く頷くと、灰皿に煙草の灰を落とす。
「恭也程ではないが・・・一応、日課でな」
 その言葉で興味を引かれたのか、蓉子は木刀に手をかけ――
「え?」
 予想以上の重さに驚きの声を上げた。
 外見からしてかなり大振りではあったが、芯に鉛か何かが仕込んであるらしく、相当に重い。
 両手であれば持ち上げる事も出来るが、蓉子にはどうやってもそれを振り回すなど出来そうになかった。
 そんな蓉子の様子に再度苦笑しつつ、荒斗は蓉子の手から木刀を取り上げる。
「余り無理はせん事だ。慣れぬ者が振れば、最悪身体を壊す」
 そう言いながらも、片手で軽々と持ち上げ、今度はテーブルの上に木刀を置く荒斗に蓉子は驚くものの、何かを言う前に小さくクシャミが出た。
 夏とは言え少し薄着過ぎたか、と思いつつ腕を摩っていると、フワリと言う感触と共に肌寒さが和らぐ。
 ふと見れば、薄い半袖の上着が肩にかけられていた。
 見覚えのある濃紺のそれは、荒斗のものだ。
 どうやら、タオルと共に用意しておいたらしい。
 驚いた様に視線を向ける蓉子に、荒斗は煙草を灰皿に押し付けつつ口を開く。
「夏とは言え、早朝は冷える。身体を冷やさん内に戻った方が良い」
 そう言うと、木刀片手にテラスを降り、玄関へと歩き出した。
 蓉子は暫くそれを呆然と見送っていたが、ふと我に返り、自分が荒斗の服を羽織っている事に顔を赤らめつつ、室内へと戻る。
 ガラス戸を閉め、室内の温度にホッと息を吐きつつ、羽織った上着の前を軽く合わせる。
 華奢な蓉子にはどうにも大きいそれは、然程身長の変わらない筈の荒斗がやはり男性なのだと感じさせてどうにも気恥ずかしい。
 赤くなった頬を冷ます様に軽く頭を振り、冷えた身体を温める為に紅茶でもいれようと再びキッチンへ。
 ケトルでお湯を沸かしていると、後ろから「蓉子様?」と言う声がかけられた。
 声音で誰かを悟ると、極力内心の驚きを出さない様にしながら振り返る。
「あら、おはよう志摩子。乃梨子ちゃんも早いわね」
 そう言う蓉子に、連れ立って現れた志摩子と乃梨子もまた口々に「お早うございます」と返した。
 それに微笑んで答え、蓉子は続ける。
「二人も紅茶、飲むかしら?」
 頷きつつも自分がやる、と申し出る二人をいいからと諭し、リビングで待っている様に告げると、蓉子は昨日久音に教わった場所から茶葉を取り出し、紅茶を入れていく。
 充分に蒸れるのを待って温めておいたカップに注ぐと、トレイに載せてリビングへ向う。
 まだ早朝である事を考えてか、静かな声で談笑していた志摩子達の前にカップを置いて向かいのソファーに腰を下ろした。
 礼を言う二人に微笑んで見せ、自分もまたカップを口に運ぶ。
 ゆっくり流れ込んでくる紅茶が身体の中から暖めてくれるのを感じて、予想以上に身体が冷えていたと内心で苦笑する。
 と、乃梨子が不思議そうな表情で見つめてくるのに気付いた。
「どうかしたの、乃梨子ちゃん?」
「いえ、あの・・その上着は・・」
 その言葉で自分がまだ荒斗の上着を羽織ったままである事を思い出し、内心で慌てながらも、極力それを表に出さない様にして先程の事を簡単に説明してみせる。
 ああ、それで・・と納得してくれる乃梨子と深く追求する事のない志摩子に内心でホッとしながら、見つかったのが聖や久音でなくて良かったとつくづく蓉子は思った。
 あの二人なら、嬉々としてからかってくるだろう。
 考えるまでもなく思い描く事の出来るそんな光景に、つい溜め息が口を吐いて出た。
 そんな蓉子を見て、どうやら同じ事に思い当たったらしい志摩子と乃梨子もまた、何とも言えない表情を浮かべている辺りは流石は妹と孫、と言った所だろうか。
 兎も角、身体も温まった事だし、と羽織っていた上着を脱ぐと丁寧に畳んで隣に置きながら、早起き等と言う気まぐれを起こさなかった聖と久音に安堵の溜め息を吐くのだった。



《後書き》
荒斗「また随分と空いたな・・」
何を言う。
ついこの前『神殺しと花嫁』を送ったばかりだぞ?
荒斗「・・この『賢者と獣と剣聖と』では何ヶ月ぶりだ?」
・・・・。
荒斗「答えられん程に空けてどうする愚か者。読んでくれる様な奇特な読者が居たにしても、既に内容を忘れられかねんぞ」
・・・う、うむ。
その点に関しては謝罪するしかない。
荒斗「誠心誠意謝罪しておけ」
だな。
皆様、申し訳ありませんでした。
荒斗「そして内容についても、だろうがな」
うむ。
どうにも『こんなの蓉子じゃない』とは言われそうだ。
志摩子や乃梨子に至っては殆ど会話すら省略した感じだし、それもまた何かありそうで怖いのは確かだ。
それも踏まえて、再度謝罪を。
原作ファンの皆様、申し訳ありません。
この辺りは作者の力不足です。
荒斗「・・自覚があるなら改善に努めろ」
え、鋭意努力する。
荒斗「・・・努力だけでなく、結果で示せよ?」
う、うむ。
・・・・。
さて、話は変わりますが、SS掲示板の方に感想スレッドを建てさせて頂きました。
御意見、ご感想などありましたら、そちらにお願い致します。
荒斗「・・・急激に変えたな。まぁ、いい。そちらは読者諸氏に頼むとして、お前はさっさと次作を書く事だ」
・・了解。
では、皆様、次作でお会いしましょう。
荒斗「それでは、失礼する」



朝の一こまだな。
美姫 「そうね。早起きは三文の得、といった所かしらね」
蓉子にしてみればそうかもな。
美姫 「早起きしなかった聖と久音は蓉子をからかうネタを見逃したものね」
もし起きてたら、早朝からドタバタしそうだけれどな。
美姫 「そうね。蓉子にとっては運良くって所ね」
そういう意味でも得なのかもな。
美姫 「次回はどんな話になるのかしら」
次回も待ってます。
美姫 「待ってますね」



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