1月21日 (土)  PM 12:23

 

「ん……、いい天気」

 

 天気は快晴。風は微風。

 空気は肌寒いものの、その分日差しが気持ちいい。

 

 志乃は今日もまた、高台へと来ていた。

 午前中はさざなみ寮で寝て過ごし、午後から陽の高いうちはこの高台で街をスケッチ。陽が傾いてきたら街を散策し、そして夕食はさざなみ寮で皆と一緒にし、夜は遅くまで神雷を探す。

 

 そんな生活がもう十日も続いている。

 そして、その十日の間に神雷の姿を見つけたのはただ一度。

 どういう経緯か知らないが、狗族の娘と戦っていた(とはいっても、一方的にあしらっていたが)。相変わらず敵を作り易い男だ。

 その後もまた、どうすればあんな展開になるのか、後からやってきた空を飛ぶ少女が仲裁して争いは収まり、少女の家に泊まるとかなんとか。なんだそれ。

 そのときにでも狙うことはできたが、そこで仕留めるのは無理だったろう。あの男の意識はリラックスしているようで戦闘状態にあった。あのとき狙っても、どんな手を使っても、避けるか叩き落すかしていたはずだ。回避不可の『星の光』では近くにいた少女たちも巻き添えになる。

 そうしてそのときの機会を逃して以来、またあの男を見失ったままだ。

 

 まぁいい。ここが『開かれた霊穴』なら否応なく何度でも会える。次の機会を逃さずに殺せばいい。

 だから、とりあえず今は、それはおいておこう。

 

 さざなみ寮から(椅子にちょうどいいので)借りてきた木組みの踏み台を置き、その横にわざわざ遠回りして寄ったコンビニの袋を置く。それから椅子に座り、数少ない旅の荷物の一つ、スケッチブックと鉛筆を荷袋から取り出す。

 セッティングOK。

 

「さ、やろうか」

 

 呟いて、いつものように眼帯に手をかけた。

 

 

 

 

 

 

      第3話  「困惑」

 

 

 

 

 

 

  1月21日 (土)  PM 3:14

 

 今日もいた。

 白いジャケットを羽織った後ろ姿を認めて、耕介は近づく。

 さざなみ寮からそう遠くない場所にある、海鳴市を一望できる高台。

 そこで志乃は、以前自分が日曜大工で作った木組みの椅子(というか本来は踏み台)に腰掛け、足元にはコンビニの袋とすでに封の開いた紅茶の缶が三本。

 

 ……いらなかったかな?

 

 途中、コンビニで買ってきた飲み物に一度目をやり、それでも気を取り直して近づく。

 

「やあ。はかどってるかい?」

 

 スケッチブックを覗き込むように問いかける。

 それに気づいているはずなのに、志乃は目線を前に向けたまま、

 

「ん……、まあまあかな」

 

 気のない返事を返してきた。

 その返事の間にも手は止まることなく、シャッ、シャッ、と軽快な音を立てて鉛筆が紙の上を走る。

 

「へぇ……。上手いもんだね」

 

 スケッチブックに鉛筆で線を走らせているだけの絵。今のところ完成度は七割くらいか。

 けれど、その絵には観る者を惹きつけてやまない『なにか』がある。でなければ、こうも見とれるはずがない。

 今志乃が描いているのは、実は二枚目らしい。一枚目は描き終えてからすぐに破り捨てたという。

 ということは、もしかしなくても、

 

「……それも完成したら破って捨てるのかい?」

「ん? そのつもりだけど」

 

 その返答にはなんの未練も執着もない。彼女は本気でやる気だ。もったいない。

 

「だったらさ。それができたら、俺にくれないか?」

「へ?」

 

 よほど意外だったのか、初めて志乃が振り返った。

 

「これを?」

「ああ」

「……まぁ、別にいいけど……」

 

 どこか納得いかないみたいに元の姿勢に戻る。

 遠い被写体――海鳴を眺めるときは左目で、膝を台にしているスケッチブックに視線を戻すときには右目で見ている。

 

 ああ。

 声に出さず、内心だけで納得する。

 左右で視力が違うとは聞いていたけど、そういう意味か。てっきり逆――左目はほとんど見えないのかと思ってた。

 でも、今の様子からすると左目の方が視力がいいということか。

 だから、こんな鮮明な絵が描けるのか……

 紙に鉛筆を走らせるだけの、単調なはずの作業に見入る。それを志乃は気にする風もないのでしばらくその後ろ姿を見ていた。

 

 だけど、なにかが引っかかる。なにかを忘れているような……

 少し思案する。それから数秒。

 思い出した。

 ポン、と手を打つ。

 

「そういえば志乃には言ってなかったっけ」

「? なにを?」

「明日から、さざなみ寮で子供を預かるってね。他の皆に言った日だけいなかっただろ?」

 

 志乃の生活のサイクルは他の学生組の皆とは違う。一応、最低でも夕食の時間だけは顔を合わせるようにしてくれているが、その日にはいなかった。後で理由を聞いたら散策の途中でちょっと寄り道が過ぎたとか。

 それはともかくとして、それを聞いた志乃は、

 

「ふ〜〜ん、子供……ねぇ」

 

 その言葉になにを感じたのか、絵を描く手が止まっていた。

 

「あれ? でも部屋は満室じゃなかったっけ?」

「ああ、それは大丈夫。愛さんが相部屋にするってことで話はついてる」

「そう……」

 

 ……あれ? なんか雰囲気重くなってる?

 

「ひょっとして志乃は子供が嫌いなのかな?」

 

 この様子だとそういうことだろう。その問いに志乃は考えるように空を見上げてから、

 

「……嫌いじゃないよ。でも、昔のことを思い出すから、苦手かな」

「昔?」

「うん。昔……」

 

 そういう志乃の表情はとても沈んでいて、いったいなにがあったのかなんて気軽に聞けそうになかった。

 しばしの沈黙。その間に志乃は再び手を動かし始め、シャッ、シャッ、っと鉛筆の走る音がやけに大きく聞こえる。

 

「――さて、俺はそろそろ仕事に戻るよ。買い物も行ってこないといけないし」

「うん。差し入れありがと」

 

 そう言って微笑を返す声には、さっきの沈んだ様子はもう残っていない。

 大丈夫かな……

 気になってちらりと横目で見てみる。見えた表情はいつも通り。

 それを確認して、胸を撫で下ろしながら高台の出口へと向かった。

 

 

 

  1月21日 (土)  PM 7:35

 

「くぁ……」

 

 思いっきり口を開けて息を吸う。

 冷たい空気が喉を通り、肺を満たす。

 頭頂から始まり、全身を通って指先まで走る痺れが気持ちいい。

 

「……ふぅぅ」

 

 手すりに両手をついて、吸い込んでいた息を吐き出す。

 そのまま数秒の静止。

 それからガバッと、勢いよく顔を上げる。

 

 昼間の快晴がそのまま続いたように闇色の空に雲はない。

 とはいえ、星は少ないし、月も今夜は三日月。ちょっとばかり光源としては心許ないか。

 だが、それでも街の方は十分に明るい。さすが人間。夜を削ってまでこの世の全てを己が領域にするなど昔は考えられなかったことだ。

 くっと口元を嘲笑に歪め、横の手すりに立てかけていた袋から自分の身長を超える弓を取り出し、弦を張る。

 それからまずは一度構え、弦を弾き調子を測る。うん、今日もいい感じだ。

 

「さて……と」

 

 呟きとともに、左目を隠す眼帯を右目へとずらす。一呼吸の間を置いて、鷹のように鋭い左目が開かれる。

 

 

 この瞬間、海鳴市は志乃の狩り場と化した。

 この鷹の目と呪弓『万里』が揃って、射貫けぬものはこの世にない。

 

 

 矢を取り出すことなく弦に指を添え、眼下の街を睨むようにたった一人の男の姿を探す。

 けれど見つからない。さすがは(認めたくはないけど)最強の『呪い憑き』。戦闘はもちろん、隠業までこうもこなすか。

 まぁいい。こっちだってそう簡単に見つかるとは思っていない。

 それに待つのは苦手じゃない。長時間の集中の持続は狙撃の技能と一緒に鍛えている。

 今夜もまた、これまでと同じように自分の集中力しだいということだった。

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。

 時計を見ていないからはっきりとは言えないが、たぶん二十分くらいか。

 

 背後から一台分の車の音が、高台へと入ってくるのが聞こえた。

 そのまま車は駐車場の辺りで停まり、エンジンの音が止まる。

 ドアの開閉音。

 それから一人分の足音。その人物はしっかりと、こちらを意識して歩み寄ってくる。

 

 ……誰だろう?

 この街で車の運転をできる知り合いとなると数が限られてくる。でもわざわざここまで来るほどの関係ではないと思うけど……

 いや、知り合いでなくても興味は引いてしまうか。なんといっても、今は身の丈を越えるほどの長弓である呪弓『万里』を手にしているのだ。それだけでもう怪しんでくださいと言わんばかりの状態ではないだろうか。

 いや、違う。この気配は――

 振り返る。

 

「あ、やっぱり気づいてたか」

「リスティ……」

 

 自分と同じさざなみ寮に住む銀髪の女性――リスティがそこにいた。

 

「なんでここに?」

「耕介がさ、今夜もキミが出てったって言うからね。最近はちょっと物騒だし」

「ああ……そういうこと」

 

 それでちょっと様子を見に――いや、迎えに来たということか。

 でも、それについては実はあまり心配していない。今のところ被害者は全員女子高生ということだから犯人たちにとって自分は許容範囲外だろうし、もし目の前に現れたならしっかり半殺しにして追い払う。そのくらいの力量の差はあると自負している。

 

「うん、心配してくれてありがとう。でもいいよ。あたしは大丈夫だから」

 

 それだけ言って再び海鳴の街の方へと向き直る。

 すると背後――リスティのいた辺りの雰囲気が変わったのを背中で感じた。

 

「それと、いいかげんハッキリさせときたかったんだ」

 

 さっきまでの親しげな声とは違う、冷厳な響きを持って発された声に振り返る。前に後ろに何度も首を振っていいかげん疲れてきた。

 

「……なに?」

 

 ついつい不機嫌な声になってしまった。だがそれでも、リスティはこっちの目をしっかりと見据えて、

 

「キミは海鳴に来てから毎晩ここに来てるけど、いったいなにをしてるんだ?」

 

 直球の質問。

 

「それは……」

 

 ゆえに、どう答えるべきか迷う。

 神雷のことを話すだけで済むならいいが、たぶん目の前の女性はそんな半端では済まさないだろう。となれば絶対に『そこ』に辿り着く。

 それを説明するのは正直避けたい。

 理由はただ一つ、絶対に信じられないから。

 自分だってそのことを知ったときは信じようとはしなかった。

 

 信じたくなかった。

 

 受け入れていたわけではない。それでも理解はしていた。

 自分は普通の人間ではないと。

 それでも、そこからさらに、人間ですらない、最悪の魔性へと堕とされたなどと誰が受け入れられるものか。

 それは、そう気軽に話せることとは思えない。

 

「……そんなにボクは信用できないかな」

 

 そんなことを呟きながら、リスティは珍しいくらい真剣な目で見詰めてくる。

 違う。信用がどうとかではなく、それとは別次元の問題なだけだ。

 けれど、そういったあれこれをどう言えばいいのだろう。今まで聞かれても問題ない説明など、考えたこともなかったので迷う。

 とりあえず、考えをまとめようと一度視線をリスティから外して、

 

「あ……」

 

 遥か彼方に、その姿を見つけた。自分の左目だからこそ捉えられたその姿。

 那美ちゃんがいた。

 商店街から近くのバス停へと続く道を歩いている。

 そういえば今日と明日は大学の受験だって言ってたっけ……

 こんな時間までゆっくりしているとは、よほど明日の試験は自信があるのだろうか。それとも開き直っただけか? まぁ、今になっても慌てるようなら望みは薄いだろう。

 すでに賽は壷の中。あとは自分本来の力をどれだけ引き出せるか。要はどれだけリラックスできるか。それだけの話なのだから。

 

「なにか見えるのか?」

「うん。那美ちゃんがいる。あそこからならさざなみ寮に帰るまで、あと二十分くらいかな」

「は? どこ?」

 

 興味を引かれたのか、リスティが隣に並んで那美ちゃんの姿を探す。けど無理だろう。場所が高台なので遮蔽物はないが、普通の目で見るには距離があり過ぎる。

 

「商店街を出た辺り。『翠』って書いてある箱を持ってるから、翠屋に寄ってたのかな?」

「……本当に、見えてるのか?」

「まあね。あたしの左目は特別だから」

 

 信じられないと言いたそうな表情で見るリスティを苦笑で見返す。そういえばまだ左目のことは説明していなかったっけ……

 このくらいなら話してもいいかと思いながら、もう一度街の方を見下ろす。

 そうして、その目に映ったものに、眉を顰めた。

 

 目を切ったのはほんの数秒だった。だがその数秒の間に那美ちゃんは、なんとなく見覚えのある少年に話しかけられていた。

 その少年が、なぜか気になる。どこで見たんだったか。あれは確か――

 その答えに気づいた瞬間、肌が粟立つのを感じた。

 

「……志乃?」

 

 雰囲気の変化を感じ取ったのか、横からリスティが呼びかけてくる。

 だが、それに応える余裕はない。

 もう何百、何千と繰り返し体に染み付いた、呼吸と同じほどに自然な動作で、赤い矢――『猟犬の牙』を出し、『万里』につがえる。

 距離は……約三キロといったところか。となると、着弾までの誤差は約六秒。

 ……致命的だ。

 六秒もあれば、人一人攫うことも殺すことも難しくない。実際、前回は四秒程でことを済ませていた。

 

 舌打ちを一つ。

 足りない二秒分は、直感で補うしかないか。

 

 じっと目を凝らす。二人はなにかを話している。

 この距離だ。当然声は聞こえない。

 それに、そもそも読唇術で読んだ話している内容も、ただ道を尋ねているだけ。自分の危機感を裏付けてくれるものではない。

 

 けれど、長年で培った危機感がビリビリと騒ぐ。今すぐつがえた『猟犬の牙』を放てと叫んでいる。

 それに従って今にも離してしまいそうな指を必死に留めるのがとんでもない過負荷になって、精神が擦り切れそうだ。

 

 たぶん那美ちゃんは、気づきはしないだろうし、むしろ考えもしないだろう。

 今目の前にいる同い年くらいの少年が、最近巷を騒がしている連続リンチ殺人の犯人の一人だなどと。

 数日前、あの男たちが同じような手口――道を尋ねて足を止めた隙に女性を攫い、連れ去った先で殺すのを自分は見ていた。

 

 そう、見ていたのだ。見知らぬ女性が車に押し込まれ連れ去られる場面も、少し離れた人気のない場所で焼けた鉄の棒でいたぶられていた間も、最後に棒状のなにかを下腹部に突き立てられて死んだ瞬間も、その全てを。

 助けることも、できた。今やっているように弓を構え矢をつがえ、狙い射る。それだけで犯人たち四人に傷を負わせ、死ぬはずだった女性を助けることができた。

 

 なのに、見捨てた。

 自分には関係ない。

 数日前にそれを見たときも、そう思って見捨てたんだ。

 あたしは正義の味方じゃない。

 世界の全てなんて救えるとは思わないし、救おうとも思わない。ただ自分の手の届く範囲で手一杯なんだから。

 

 でも今、自分の危惧が現実になるとして、それを関係ないと見捨てることはできるか?

 

 自分に問う。

 

 否。

 

 答えは一瞬で出た。

 そうだ。迷うことはない。答えはもう、決まっている。

 

 世界を救うなんてありえない。

 名前も知らない誰かを助けようなんて思わない。

 それでも、自分の世界にいる誰かを見捨てることはしたくない。

 

 なんて自分勝手。なんて偽善。

 それでも、それが自分の答え。

 

 息を細く、長く吐き出す。

 集中が高まる。

 その視線の先で状況が動いた。

 那美ちゃんの背後から忍び寄るように、話しているのとは別の少年が近づく。

 

 それを見た瞬間、『猟犬の牙』は放たれた。

 

 

 

      *   *   *

 

「ふぅ……。もうこんなに暗い……」

 

 夜空を見上げ、マフラーの巻き具合を手で確認しながら呟く。

 海鳴大学のセンター試験の帰りに翠屋に寄ったのが夕方になる前だった。三時間ぐらいいた計算になるが、それで外の様子はまったく変わっていた。

 

「はぁ……」

 

 今日のことを思い出して沈む。

 

 今日の試験は散々だった。試験の内容より、緊張の方が、だけど。

 

 一時間目。国語。試験開始の前から緊張で頭の中が真っ白。落ち着こうと思って『落ち着け』と念じていたらいつの間にか答案用紙にまで『落ち着け』と何回も書いていた。それを消す途中、消しゴムで答案用紙を破きそうになった。

 

 二時間目。数学。シャーペンの芯がなくなったので足そうと思って予備を出したら、机の上にぶちまけた。ついでにいくらか机から落ちた。それらを回収するのに無駄に時間を使った。

 

 そんな調子でもなんとか回答はできたし、三時間目からはミスらしいミスはなく終わった。

 でも、まだ試験は明日もある。今日みたいなことを繰り返してたら、結果が非常に厳しいし、なにより自分の心臓がもたない。

 

 そんなわけで気分転換――というかリラックスのために帰りに翠屋に寄ってみた。ついでに明日の試験の理系の最終確認を忍さんに見てもらって準備は万端。

 あとは明日、今日と同じ轍を踏まないように落ち着いて挑むだけ。……それが自分にとって、一番難しいんだけど。

 まぁ、とりあえずそっちはもう考えないようにしよう。考えても緊張するだけだし。

 ふぅ、っともう一度息を吐く。

 

 それにしても、

 

「綺麗な人だったな〜……」

 

 今日久しぶりに翠屋に寄って初めて会った女性を思い出す。

 神無さん、というらしい。

 数日前から忍さんの家に居候しているとか。どんな関係でそうなったのかと訊いてみれば、お祖父さんが知り合いらしいとかで家に泊まってもらっているとか。そのお祖父さんは今別件で忙しいとかでまだ再会していないということだけど。

 

「でも――」

 

 なんだろう。なにか変な感じがした。

 たぶん他の皆は気づいていない――いや、分からないのだろう。直感、というより霊能力の方で感じた違和感だから。

 そしてそれを、最近どこかで感じている気がする。

 ……どこだったっけ?

 明日も試験なのに、こんなこと考えることもないだろうとは思う。けど、気になってしまったのだから仕方がない。

 とりあえず、最近会った人の顔を思い出して……

 ああ、そうだ。あれは――

 

「すいません、ちょっといいですか?」

「はい?」

 

 呼びかけられて振り返ると、そこに一人の男の子がいた。

 たぶん高校生くらい。ぱっと見のイメージはどこにでもいそうな男の子、としか言えない。

 それがなんの用だろう?

 

「ちょっと道訊きたいんすけど」

「あ、はい。どちらまでですか?」

「デパートALCOってとこ、知ってます?」

 

 知ってる。駅前にあるデパートだ。さざなみ寮生はあそこを結構利用する。

 

「あ、それだったらこの道をずっと向こうに行けば駅前に出ますから、そこまで行けばすぐ分かると思います」

 

 言いながら、今自分が歩いてきた道を指で示す。その方向から車が一台、ゆっくりと走ってきていた。

 男の子は一度その方向を振り向いてから向き直り、

 

「ありがとうございます。それじゃあ――」

 

 ドズッ!

 

「あぎッ!!」

 

 後ろからいきなり、なにかが刺さる音と叫び声が上がった。

 驚いて振り返ると、いつの間にそこにいたのか、すぐ背後、手の届くほどの近くに男の子がいた。

 その人が、こっちに出した片手を赤い矢で貫かれている。

 

「マコト!」

 

 さっきまで話していた男の子が叫ぶ。え? ひょっとして知り合い?

 立ち位置が挟まれる形になっているからか、無意識に二人の間から抜けるように後退さる。その背が塀に当たってそれ以上進めなくなる。

 どうしよう。怪我人を放っていくというのは倫理とか常識とか、神咲那美という人間の全てが非難する。

 けど、この二人のこっちを見る目の雰囲気が普通じゃない。最初に声を掛けてきたときの人の好さはすでに微塵も感じられない。すごく嫌な予感がする。

 どうするべきか迷っていると、さっきゆっくり近づいていた車が、目の前で止まった。

 

「ナオ! マコト!」
 

 中から二人と同じくらいの歳の男の子が名前を呼びながら出てくる。

 そして、それに触発されたように二人が動いた。

 鬼気迫る勢いで腕を掴もうと手を伸ばし――

 

 その手を、再び赤い矢が貫いた。

 

 

 

      *   *   *

 

 突然動いた志乃が射った矢は、放物線を描くことなく、直線を走って闇に消えていった。

 

「ちょっ……! キミ、いきなり――」

 

 なにをするのか。もしも今のが人に当たったらどうするつもりだ。

 だが、返ってきた答えはリスティの予想を遥かに飛び越えて、

 

「リスティ。すぐ那美ちゃんに連絡して。商店街に向かって走れって!」

 

 有無を言わせぬ剣幕で叫び、志乃自身は構えた弓に次なる矢をつがえる。

 ギリギリと弓の軋む音。

 普段は隠している左目は、まっすぐに迷いなくなにかを見詰めている。

 

 意味が分からない。

 というか、なんでここで那美?

 そんな疑問を口にするのも憚る。それほどに今の志乃の雰囲気は近寄りがたいものがある。

 

 ゴクリ、と唾を飲む。

 

 そのわずかな間にも、前の瞬間まであったはずの矢が消えている。

 それから腕を一振りする度に、どこから取り出しているのか赤い矢を手に持ち、弦を引き絞った直後にはもう手を離している。その動作は見事、と言う他なかった。一瞬たりとも手を止めることなく、多いときには三本同時に、矢をどこからか取り出して射続ける。

 

 それがどれだけ続いたか、やがて志乃は手を止めて舌打ちを一つした。

 いいかげん事情を説明して欲しいんだけど、その意味を込めた視線に気づく様子はない。

 そして今度はさっきまでの赤い矢ではなく、(これまたどこから取り出したのか)青みを帯びた白い矢を弓につがえる。

 

「リスティ、離れてて」

 

 静かに警告の言葉を口にする。

 その言葉を理解したというより、その静けさの奥にある志乃の剣幕に圧される感じで三歩退がった。

 

 それを確認したのか、志乃は手にした弓矢を引き絞り、それがスイッチのように弓につがえている矢がバチバチと青白い電光を発する。自分も電撃を使うのにこんなことを言うのはどうかと思うが、感電とか大丈夫か?

 

 だが、その心配はないらしい。

 志乃の左目はしっかりとなにかを見据え、さっきまでの連射からするとずいぶんじっくりと狙って(とはいえ普通の遠的に比べればぜんぜん早いのだが)、右手を離した。

 

 瞬間、電気を纏った矢が信じられない疾さで夜の闇へと撃ち出された。

 さっきまでの赤い矢と違い、今度は矢自体が光っているので軌跡が見て取れる。それは風も重力も関係ないようにまっすぐに飛び、何キロも先でポッと光った。

 

 ……弓矢って、こんな飛ばせるものだっけ?

 

 どこか現実離れした状況に思考が麻痺したのか、そんな見当違いの考えが浮かぶ。

 

「……当たり」

 

 その目の先になにが映っているかは分からないが、確信を持った声で志乃は呟いた。

 そのまま再び、さっきと同じ青白い矢をつがえ、さっきと同じように弦を引き絞り――

 

 結局、その矢を射ることはなかった。十秒くらいじっと構えたままで彼方を睨んでいたが、やがて矢を掴む右手を離すことなく弦をゆっくりと戻し、大きく息を吐いて――

 

 突然、糸が切れた人形のように、その場にぺたりと座り込んだ。

 

「あ゛〜〜、き゛ほ゛ち゛わ゛る゛〜〜〜〜……」

 

 地獄の底から響いてくるような、普段の志乃の声からは考えられないくらいに低い声で呟く。だらりと前に倒れそうな体を腕をつっかえ棒の代わりにして支えている感じ。大丈夫か、こいつ?

 なんだか心配になってきた。

 

「……さざなみ寮まで送ろうか?」

「あ゛〜〜、うん。ゴメン。お願い」

 

 絞り出すようにそう答えてゆっくりと立ち上がり、その後もふらふらと危なっかしい足取りで付いてくる。

 

「……大丈夫か?」

「どうだろ。お腹の子に根こそぎ力を持っていかれたから、眠い……」

 

 言われて見れば、確かにに目元が怪しい。

 っていうか、今……

 

「お腹の子って……キミ、妊娠してるのか?」

「え? ああ、そんなに気にしなくていいよ。もう、死んでるんだから」

「は?」

 

 今、なんて言った?

 次から次へと意味不明な言葉を並べられ、すでに脳の容量はパンク寸前だ。

 それが顔に出ていたのか、志乃は愉快そうに、それでいて自虐の笑みを浮かべて、

 

「これは呪いだよ。この子を生け贄にして作られた呪い。あたしはこれを、死ぬまで抱えて生きなきゃいけないんだよ」

 

 下腹部を押さえながら、見たこともないくらい翳の濃い顔で呟く。

 その気迫に気圧された。縫い付けられたように足が止まり、志乃が歩く姿を呆然と見詰める。

 気がつけば隣にまで来ていた志乃が足を止めて、

 

「行かないの?」

「え……ああ、ちょっと待って」

 

 気を取り直して急ぎ足で志乃を追い越し、車の鍵を開ける。そしてそのまま滑り込むように運転席に乗り込んだ。

 それから志乃が助手席に乗り込んだのを確認してエンジンをかける。弓は袋に入れて窓から飛び出す形で後ろに置いてある。近くまでだから気をつければいいか。

 そう思ってライトを点け、動き出そうというところで志乃が携帯を取り出し、どこかへとかけた。かなり長い待ち時間の後、

 

「あ、那美ちゃん? 今どこ? ……いや、もう遅いし、この後リスティか耕介くんにでも迎えに行ってもらったほうがいいと思ったんだけど……。…………あ、そう? 分かった、伝えとく」

 

 それだけ話して通話を切る。

 

「今の相手、那美?」

「そう」

「なんて言ってた? なんだか、ボクが迎えに行くみたいに言ってたけど」

「あ、それはいいって。今商店街にいて、知り合いの家の車で送ってもらうからって」

 

 商店街で車とくると、忍の家のだろうか。だったら信用できるからいいんだけど……

 

 むしろ今そうはいかないのは、隣にいるコイツ。

 あれだけ矢を射まくるし、それでなにをしていたのか説明もない。

 実はなにか犯罪をしてたんじゃないだろうな。

 その可能性を捨てきれないのが怖い。なにせ最近の海鳴は連続リンチ殺人事件が起きているし、コイツの思考はテレパシーでは読めない。

 

「そういえば、さっき那美がどうとか言ってたけど、どういうことだ? キミはいったい、なにをしていた?」

「……気になる?」

「まあね。ボクは一応警察の関係者だから、もし今キミがやってたのが犯罪ならこのまま警察に行ってもいいんだし」

 

 七割くらい冗談を込めて言ってみる。

 それに対して志乃は、

 

「あ〜〜……。そうだよね。そうだったんだよね……」本当に忘れていたらしく、さらに落ち込むようにシートに沈み込んで「ちょっと、殺人犯と話してたから相手をズドン、とね」

 

 は? なに、それ?

 

「どういうことだ?」

 

 自分の声がやけに急いた勢いになっているのが分かる。

 だって仕方がない。今海鳴で殺人犯なんて言うなら、連続リンチ殺人事件の犯人のことだろう。

 それを彼女は見たみたいに言うのだから。ようやく捜査の手掛かりが見つかったかと思えば、気も逸ろうというものだ。

 それに対して志乃は胡乱気に目だけを動かして、

 

「……説明はいいけど、明日のお昼でいいかな? あたしはもう、げん、かい……」

 

 そこまで言うと、スーッと静かな寝息を立てて動かなくなった。喋りながら眠れる奴なんて初めて見た。

 まぁいい。明日になれば説明すると言ってるんだ。とりあえず今日はさっさと連れて帰ってやろう。それでそれからパトロールを再開しよう。

 そんな感じでこの後の予定を組み立ててから、さざなみ寮へと車を走らせる。

 もう志乃への注意は必要ないと思い、運転に集中する。

 

 

 だから彼女が、「ゴメン」と小さな声で呟いた寝言に気づかなかった。





 はぁ〜〜……、やっと書けた……

「うん、そうだね。だいたい半月くらい?」

 そのくらいになるか。前話を書き上げた時点でまったく手を付けてなかったし、ついでに言うと構想は一割分もできてなかったし……。そう考えると早い方だと思うけど

「それで? ようやくあたしの出番かと思えばどういう内容?」

 え? いや、見ての通り。那美が攫われそうなところを間一髪で助けて、それをリスティに見られてあれこれ説明しなきゃいけなくなる、と。話の重要度は低く、次へのつなぎくらいにしか考えてなかったり……

「へぇ〜〜……」

 ……あの、ひょっとして、怒ってる?

「なんで? あたしは別に、十話近く放っとかれたこととか、ようやくの出番をつなぎ扱いされたこととか、やってることが思いっきりアブナイ人みたいだとか、他にも色々なことも、まったく、全然、これっぽっちも怒ってないよ?」

 ……こめかみに青筋浮かべて言う科白じゃないよね

「なにか言った?」

 いえ、なにも。じゃあちょっと早いけど、次回予告。次回は二話同時投稿の予定。高町家とさざなみ寮、二つの場所でほとんど同時に起きた事件が語られ、ここからようやく、バラバラだった物語が一つの流れへと合流していきます。





今回は那美が危ない所だったな。
美姫 「偶然にも志乃の日課のお陰で助かったわね」
うんうん。次回は志乃から何かしらの説明がされるみたいだが。
美姫 「これにより、何かが見えてくるのかしら」
それでは、次回で。
美姫 「待ってますね」



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