『トロヴァトーレ』




           第四幕  処刑


 戦いは終わった。結果は援軍を得ており数に勝る伯爵側の勝利であった。マンリーコ達は無謀な夜襲が失敗しそれにより敗北した。城は伯爵の占領するところとなりマンリーコは捕らえられた。だが一部の兵士とレオノーラは城を脱出し何処かへと落ち延びた。それを知った伯爵の怒りと落胆は目を覆わんばかりであった。
「すぐに探し出せ」
 彼は即座に指示を出した。だがレオノーラもその一部の兵士達も行方はようとして知れなかった。マンリーコはその間にアズチェーナと共にアリアフェリアの宮殿に護送されその牢獄に入れられた。そしてあとは処刑を待つばかりであった。宮殿の警護は伯爵が受け持つことになっていた。
 マンリーコとアズチェーナの処刑が迫っていたある夜のことである。宮殿の翼壁に幾つかの影が蠢いていた。皆暗いマントを頭から羽織っている。そしてマントについているフードで顔を隠していた。
「こちらです」
 その先頭を行く一人が隣にいる者に声をかけた。それは男の声であった。
「はい」
 それに応えるのは若い女の声であった。レオノーラの声であった。
「本当に宜しいのですね」
 その男ルイスはフードを外してレオノーラに問うた。
「覚悟はできています」
 レオノーラもフードを外した。そして意を決したような声でそれに応えた。
「だからこそここに来たのです」
「そうですか」
 ルイスはその顔を見て頷いた。見ればその気品のある整った顔がけついで強く固められていた。
「わかりました。それでは私達が出来るのはここまでです」
「はい」
 そして彼はすぐ上の塔を指差した。
「あの塔が見えますね」
「はい」
「あの塔は監獄になっております。そして我等が同志マンリーコもあの中にいます」
「塔の中に」
「そうです。そして処刑の日はもう間近となっております」
「間近に」
「ええ。おそらく明日にでも執行されるでしょう。そうなれば・・・・・・おわかりですね」
「はい」
 青い顔で頷いた。だがその表情は変わらなかった。気丈な顔であった。
「ですからここに来たのです」
「そうなのですか」
「ですから・・・・・・あとは私一人で」
「よいのですね、本当に」
「はい」
 レオノーラはコクリ、と頷いた。
「心配はいりませんから」
「わかりました」
「それでは」 
 ルイス達は彼女に挨拶をしてその場から姿を消した。そして後にはレオノーラだけとなった。ここで急に雨が降りだした。それが彼女の肩や髪をしとしとと濡らした。
「これからだわ」
 レオノーラは塔を見上げてそう呟いた。
「この雨が私を阻むものになろうとも私は行かなくてはならない」
 言葉に込められた決意は揺らいではいなかった。
「だから・・・・・・雨よ伝えて。私の想いを。塔の中、冷たい監獄の中にいるあの人に。お願いだから」
 雨にそう囁いた。
「悲しみの吐息を。囚われたあの人の心を慰めて。この私の想いをあの人のもとに届けて。愛の思い出と夢を」
 さらに言葉を続けた。
「けれど・・・・・・私のこの悩みは漏らしては駄目よ、決して。お願いだから」
 ここで宮殿の中から声が聴こえてきた。
「あれは」
 レオノーラはそれを聴き顔を上げた。マンリーコの声であった。
「あの人の声だわ」
「聖なる神よ、哀れなる魂を救い給え」
 高く気品があり、それでいて野性味のある声であった。
「既に帰らぬ旅に着こうとする魂に慈悲を与え給え」
 それはジプシーの歌であった。昔から彼等の間で歌われている死者を弔う歌であった。
「何と悲しい曲」
 レオノーラはそれを聞いて思わず呟いた。
「あの歌はまるでレクイエムの様。いえ、きっとそうに違いないわ」
 彼女にもそれはよくわかった。
「聴いていると身が凍りつきそう。まるで氷の様に凍てついた炎によって」
 彼女はマンリーコの曲を聴き震えていた。
「身体が震える。胸の鼓動が抑えられなくなってきたわ」
 恐怖のせいであろうか。それでも彼女は上を見上げた。そこにマンリーコがいる筈なのである。
「死は常に訪れるもの。だがそれを待ち望む者にとってその歩みは遅いもの」
 彼の歌は続いていた。
「我が愛しき人よ」
「私のこと!?」
 それを聞いて思わず呟いた。
「貴女に永遠の別れを告げよう。そしてまた何時の日か会おう」
「何と恐ろしい言葉」
 それを聞いてさらに凍りついた。
「死神がその漆黒の翼を広げ舞い降りてきたようだわ。いえ、もう既にこの宮殿に来ているのかも」
 彼女には夜の闇こそそれであるように見えていた。
「あの方の御命を奪う為に。今この宮殿に潜んでいるのかも」
「だが私は後悔なぞはしない」
 またマンリーコの歌声が聴こえてきた。
「貴女への愛を抱いて死ぬのだから。何故悔やむことがあろうか」
「またあの人の歌が」
「さらば、我が愛。我が愛しき人」
「忘れるなんて」
 レオノーラはそれを聴いて首を横に振った。
「そんなことを出来る筈が。それならいっそ私も」
「我が愛は不滅、貴女への愛も永遠だ」
「ええ、それならば」
 彼女はあらためて意を決した。
「勝ってみせる。死神にさえ」
 そして宮殿の中に入って行った。そして何処かへ向かった。

 宮殿の一室に彼はいた。燭台の火に照らされた部屋で数人の家臣達と話をしていた。
「聞いているな、明日のことは」
「はい」
 彼等はそれに応えた。
「息子は斧で首を刎ねる。そして母親は」
「火炙りですね」
「そうだ」
 部屋の中にいるのは伯爵であった。彼は蝋燭の火に照らされた暗い顔で家臣達にそう答えた。
「処刑は明日に執り行う。よいな」
「わかりました」
「本来は戦いの後に行なわれる筈だったが」
「はい」
「予定が変わってしまったな。だがどちらにしても同じことだ」
 戦いに勝利した後伯爵に皇太子から指示が下ったのだ。捕虜を連れすぐに宮殿に入れと。そこで不穏な空気があったからだ。捕虜はそこに潜む者達を釣る餌とする為であった。
「殿下のご指示だ。よいな」
「それはわかっております」
 家臣達はまた答えた。
「それでは早速明日に備えます」
「うむ」
 伯爵はそれを受けて頷いた。
「では宜しく頼むぞ」
「ハッ」
 こうして彼等は部屋を後にした。そして部屋には伯爵一人が残った。
「明日か。思えば長かったな」
 彼は言葉に感慨を込めていた。
「憎い男を始末するのにこれ程かかるとは思わなかったな」
 今まで心の中に抱いてきた憎悪を晴らす時が来るのを心待ちにしていた。
「だが愛は手に入らないのか。我が愛は」
 ここで彼はレオノーラのことを想った。
「カステルロールは手に入った。しかし私が欲しかったのはあの人の心だ」
 彼は俯いてそう呟いた。
「一体何処に行ったのか。そして我が愛は決して手に入らないものなのか。それが私の宿命であるのか」
 今己の運命を呪った。
「だとすれば残酷な運命だ。人は望んだものこそ得られないものなのか。それが人の世なのか。だとしたら神は何と残酷な方なのか」
「それは違いますわ」
 だがここで女の声がした。
「何っ!?」
 彼はそれを聞いて顔を上げた。
「その声は」
 そして顔を部屋の入口に向けた。するとそこにはレオノーラが立っていた。
「馬鹿な、これは幻だ」
 しかし伯爵は今目の前に映るものを信じようとしなかった。
「レオノーラがここにいる筈はない」
「いえ、こちらに」
 だがレオノーラはそれに答えた。
「私はここにおります」
「何故だ、何故こんなところに」
「ある方に案内して頂きまして」
「ある方」
「それはお話できませんが」
「そうか」
 大体察しはついたがそれは言うつもりはなかった。
「私がここに来たのには理由があります」
「あの男のことか」
「はい」
 彼女はその言葉に頷いた。
「伯爵にお願いがあってこちらに参りました」
「一体何だ」
 伯爵は立ち上がった。そして彼女に問うた。
「あの方をお救い下さい」
「馬鹿なことを」
 彼はその言葉に対し首を横に振った。
「その様なこと出来る筈もない」
「いえ、伯爵ならば出来る筈です」
「確かにな」
 伯爵はそれを認めた。
「私は殿下より捕虜の処遇を認められている。それは事実だ」
「なら」
「だからこそだ。私はあの男とその母親だけは許すことができないのだ」
 彼は憎悪を込めた言葉でそう言った。
「それは貴女もよくわかっていることだろう」
「はい」
 それに答えた。
「ならばこれ以上言うことはない。帰ってもらいたい」
「そういうわけにはいきません」
 しかし彼女は引かなかった。
「私にも意地があります」
「意地か」
 それを聞いた伯爵の顔が曇った。
「それは私にもある。わかっておられよう」
「はい」
「父の、そして私の恨み、晴らさなければならないのだ」
「私は神に誓いました」
「私もだ」
 伯爵はそれにも臆することなく答えた。
「復讐と憎悪の神にだ」
「それでもお願いがあります」
「私の神には慈悲の神はない」
「それでも」
「駄目だ」
 伯爵はまた首を横に振った。
「それ程にまであの男を救いたいというのか」
「はい」
 レオノーラは頷いた。
「何ということだ」
 伯爵はそれを聞いて怒りと憎しみで顔を歪ませた。
「それを私にわざわざ言いに来たのか」
「いえ、違います」
 だがレオノーラはそれを拒否した。
「では何だというのだ」
 伯爵は怒りで声を震わせていた。
「私のこの怒りが貴女にわかるか」
「はい」
 レオノーラは答えた。
「わかっているつもりです」
「では私の怒りもわかるだろう」
 伯爵は怒りを爆発させる寸前の状態でレオノーラに対して言った。
「あの男に幾千もの苦痛と数百の死を与えたい」
「それではまず私を」
「そんなことでは私の怒りの炎は収まらない」
 伯爵はそれに対してそう返した。
「そんなことをして何になるというのだ」
「では」 
 レオノーラは部屋を出ようとする伯爵を呼び止めた。
「私を」
「貴女の命なぞ欲しくはない」
「では私自身を」
「何っ!?」
 伯爵はそれを聞いて足を止めた。
「今何と」
「私が貴方の妻となります。っこれでよろしいでしょうか」
「今言ったこと、事実なのか」
「勿論です」
 彼女はそれに答えた。
「私も嘘なぞ言いません」
「まことか」
 だが伯爵は半信半疑であった。
「私は幻聴を聞いているのではないのか」
「ええ」
 レオノーラはそれに答えた。
「私は貴方のものになります。ですから」
 彼女は言葉を続けた。
「あの監獄を密かに開いて下さい。そうすればあの方が逃れられます」
「ううむ」
 だが伯爵はまだ考えていた。
「それでは誓いを見せてくれ」
 考えながらもレオノーラにそう言葉をかけた。
「はい」
 そしてレオノーラはそれに答えた。
「全てを神に誓いましょう」
「神にか」
 伯爵もレオノーラの信仰心の篤さは知っていた。その彼女が神に誓う、それだけで充分であった。
「わかった」
 彼は頷いた。
「では私もそれを信じよう」
「有り難うございます」
 レオノーラは頭を垂れた。それが為に伯爵は彼女の目に宿る強い決意の色を見逃してしまった。
「誰か」
 伯爵は人を呼んだ。すぐに兵士が一人やって来た。
「何でしょうか」
「実はな」
 そしてその兵士に何やら囁いた。
「よいな」
「わかりました」
 その兵士は頷いた。そして彼は部屋を後にした。
「これでよし」
 伯爵はそれを見送って頷いた。そしてレオノーラに顔を向けた。
「私は約束を守った」
「はい」
「今度は貴女が約束を守る番だ。それはわかっているな」
「勿論です」
 レオノーラはそれに答えた。
「貴女は私を手に入れることができます」
「そうだ」
 伯爵は頷いた。
「私は遂に貴女を妻とすることができるのだ」
「はい」
「そして私はあの人を助けることができる」
「これ以上はない取り引きだ」
「そうです。それでは」
「うむ。それでは私は塔へ向かおう」
「塔へ」
「そうだ。監獄のある塔へな」
 それが何を意味するのか彼女にはよくわかった。
「私は約束は絶対に破らない。それを今から証明しよう。それではな」
「はい」
 こうして伯爵は部屋を後にした。後にはレオノーラ一人だけが残った。
「確かに貴女は私を手に入れることができます」
 彼女は一人そう呟いた。
「しかし手に入れるのは」
 ここで右手に指した指輪を口に近付けた。
「骸となった私」
 そして指輪に口付けをした。そこから黒い毒が流れた。
「これで私は永遠にあの方のもの」
 笑みを浮かべてそう語った。
「私は清らかなままあの方をお救いすることが出来る。それだけで本望」
 青い顔をしていた。だがその表情は強いままであった。
 そして彼女も塔に向かった。顔こそ青かったがその足取りは強いものであった。

 暗鬱な洞窟である。その中に二人いた。一人は黒い服を着た騎士、そしてもう一人は粗末な服を着たジプシーの女で
あった。騎士は壁に背をもたれさせて足を伸ばして座っている。女は床の上に寝転がっていた。
「母さん」
 黒い服を着た騎士マンリーコがジプシーの女に声をかけた。
「眠らないのかい?」
「眠ろうと思っているんだけれどね」
 その女アズチェーナはゆっくりと身体を起こしてそう答えた。
「中々眠れないんだよ」
「そうなの」
 マンリーコはそれを聞いて頷いた。
「ここが冷えるからかい?」
「いや、違うよ」
「じゃあ何故だい」
「この監獄が嫌なのさ。早くここから出たいよ」
「ここから」
「ああ、そうさ。御前と一緒にね」
「有り難う」
 マンリーコはそれを言われて微笑んで答えた。
「その気持ちは嬉しいよ。けれどね」
「いや、奴等はあたしには何もできないさ。だから安心おし」
「どうしてだい?」
「さっき死神が舞い降りてきたんだよ、あたしの目の前に」
「死神が」
「そうさ。そしてあたしの額に死の刻印を打ったのさ。これでもうわかっただろう」
「・・・・・・ああ」
 マンリーコもジプシーの間で育てられてきた。それがどういうことかよくわかっていた。
「あいつ等は冷たい骸を眺めるだけさ、あたしのね」
「骸を」
「だからね、安心おし。御前は奴等があたしの骸に気をとられている間に逃げられるから」
「俺はそんなことはしないよ」
 だがマンリーコは母の言葉に首を横に振った。
「どうしてだい?」
「俺はもう最後まで母さんと一緒にいるよ」
 微笑んでそう答えた。
「あたしとかい」
「そうさ、決めたんだ」
 微笑みながらそう答えた。
「最後まで母さんと一緒だよ。それでいいだろ」
「御前はそれでいいのかい?」
「ああ。だからここにいるんだ」
 マンリーコにとってこの監獄を抜け出すのは簡単なことだった。だがあえてそれをしないのだ。
「火炙りになってもいいのかい?」
「覚悟のうえさ」
 マンリーコはそう答えた。
「母さんと一緒ならそれもいい」
「そうかい。火炙りでも」
 火炙りという言葉を口にしたアズチェーナの顔色が途端に変わった。
「火炙り」
「どうしたんだい!?」
「火が、火が」
 目の前に何かを見ているようであった。
「あの日が恐ろしいあの日が」
「母さん」
 マンリーコは母を宥めようとする。だがそれでも彼女は我を忘れてうわごとを繰り返す。
「恐ろしい、あの恐ろしい炎が」
「落ち着いて」
 しかし彼女は呟き続ける。
「炎が髪にまでつき全身を覆った。目が溶けそれでもあたしを見ているんだ。母さん、見ているよ」
 それが彼女の心の原風景であった。燃え盛る炎の中で苦しみながら死んでいく母。アズチェーナにとってそれは地獄の光景に他ならないのだ。
「何故だい、何故母さんが焼き殺されなきゃならないんだい。何でだよ」
「落ち着くんだ、母さん」
「マンリーコ」
 アズチェーナは怯える顔をマンリーコに向けた。
「仇を、仇をとっておくれよ、お願いだから」
「ああ」
 ここは彼女を宥めることに専念した。
「わかったから落ち着いて。そして今は寝たらいいよ」
「寝ていいのかい?」
「当たり前さ。俺がずっとここにいるから。いいね」
「ああ、わかったよ」
 アズチェーナは頷いた。そして床に寝転がった。
「どうも疲れているようだね。どうかしてるよ」
「仕方ないさ。こんなところにいたら」
「うん、そうだね。じゃあお休み」
「お休み、母さん」
 マンリーコはあえて優しい声をかけた。そして彼女を落ち着かせた。それで自分のマントを彼女にかけた。
「これなら温かいだろ」
「有り難うよ」
 アズチェーナの目に光るものが宿った。
「御前は優しい子だよ、本当に」
「母親を大事にしない息子なんていやしないよ」
 マンリーコはそれに対してそう答えた。
「だから、今はお休み」
「そうだね。そしてまた二人で暮らそうね」
「あの山へかい?」
「そうさ、あの山で」
 アズチェーナは半ば眠りながらマンリーコにそう答えた。
「そしてまた笛を聴かせておくれ。あたしはそれを聴きながら眠るから」
「ああ」
 マンリーコはそれに答えた。
「きっとね」
「お願いだよ」
 アズチェーナはまた言った。
「あたしはそれを聴きながら眠るから」
「うん、お休み母さん」
 こうしてアズチェーナは眠りに入った。そして後にはマンリーコだけが佇んでいた。そこに誰かが来た。
「処刑にはまだ早い筈だが」
「処刑ではありません」
 それに答えたのは女の声であった。
「マンリーコ様、貴方は救われるのです」
「その声は!」
 マンリーコはそれを聞きハッとした。
「レオノーラ、貴女なのか!?」
 マンリーコは立ち上がった。そして彼女を見た。
「はい、私です!」
 アズチェーナが暗闇の中から出て来た。監獄の窓から差し込める光が彼女の顔を照らし出していた。
「貴方の御命を救いに参りました」
「馬鹿な、貴女一人でか」
「はい」
 彼女はそれに答えた。
「早く、どうかお逃げになって下さい」
「いや」
 だがマンリーコはそれに渋った。
「気持ちは有り難いが」
「何故ですか!?」
「母さんがいる。置いてはいけない」
「それでしたら御母上と一緒に」
「だが母さんはもうすぐ」
 この世を去るのだ。それを思うと足が動かなかった。
「ですが今のままですと二度と」
「それはわかっているが」
 アズチェーナを見る。安らかに眠っている。そんな彼女を置いていくことなどできはしなかった。
「どうするべきか」
 ここでレオノーラを見た。
「ところで貴女はこれからどうするのだ?」
「私はここに残ります」
 彼女は青い顔でそう答えた。
「何故」
「理由は御聞きにならないで下さい。それよりも早く」
「いや、それならば尚更ここから出られない」
「何故ですか!?」
「貴女まで置いてどうして行けるのか」
「私のことはいいですから」
「駄目だ」
 マンリーコはそう答えて首を横に振った。
「そこまでして逃げて何になるというのだ。そんなことは私は望まない」
「しかし」
 レオノーラも必死であった。だがそれが裏目に出た。マンリーコはあることに気付いた。
「ところで一つ聞きたいことができた」
「何でしょうか」
 レオノーラは青い顔のままそれに応えた。
「私を逃がすということだが」
「はい」
「貴女はどうしてそのようなことができるのだ!?一体どうしてだ」
「それは」
 レオノーラは口ごもった。マンリーコはそれを見て一層不信感を募らせた。
「何故口ごもる。言えない事情でもあるのか!?」
「いえ」
 言える筈もなかった。こうしている間にも死神が彼女の命を蝕んでいるのだ。
「伯爵か」
 マンリーコも愚かではない。すぐに勘付いた。
「それは・・・・・・」
 レオノーラはそれを聞き顔をさらに青くさせた。
「あの男に心を売ったのか」
「いえ」
「正直に言え、本当のことを」
 マンリーコは詰め寄った。だがレオノーラは真実を語ることができなかった。
「違います」
「いや、違わない」
 マンリーコは彼女の言葉を否定した。
「この監獄の扉を開くことができるのは伯爵だけだ。ならば何があったのかは容易に察しがつく」
「うう・・・・・・」
「言うのだ、不実な女よ。私に誓った愛を売ったと」
「違います」
 青い顔でそう答えることしかできなかった。
「では証拠を見せよ。さもなければ私はここから一歩も動かぬ」
「そのようなことを仰らずに」
「駄目だ」
 しかしマンリーコの決意も固かった。
「裏切りの代償なぞいらぬ」
 彼にも誇りがある。そんなものを受け取るわけにはいかなかったのだ。
「違います」
 だがレオノーラはそれを否定した。
「決してそのようなことは」
「違うというか」
「はい」
 マンリーコのその問いにも毅然として答えた。
「私に戯れ言を言うような女だったとはな」
 しかしマンリーコはそれを信じようとはしなかった。
「所詮そのような女だったということか。私が愛した女は」
「違います」
 しかしレオノーラはその怒りの言葉も否定した。
「私を信じて下さい」
「何を信じるというのだ」
 マンリーコはまた言い返した。
「私を裏切った女の言葉を。愛を売った女を」
「私はそのようなことはしておりません」
「では何故私を逃がすことができるのだ」
「それは」
 やはり言うことはできなかった。
「言えないだろう」
 そしてそれこそがマンリーコの疑念の根拠であるのだ。わかってはいてもどうしても言うことができないのだ。
「不実な女よ」
 彼は吐き捨てるようにしてそう言った。
「お怒りをお鎮め下さい」
「どうしてできようか」
「そしてお逃げ下さい」
「出来ぬ」
「そこを何とか」
「くどい!」
 彼は怒りに燃えた目でレオノーラを見据えた。32
「恥知らずが。私を裏切ってなおその様なことを言うか」
「私は裏切ってなどいません」
「なら証拠を見せてみよ」
「証拠ですか」
「そうだ。見せられるのならな」
 彼女を睨みつけたまま言う。
「どうだ、出来るか」
「はい」
 レオノーラは観念したのかこくり、と頷いた。
「それは・・・・・・」
「それは」
 マンリーコは彼女の言葉を繰り返す。
「私の顔です」
「顔!?」
「はい。この顔を御覧下さい」
「むう」
 見れば青い。月の光に照らされているその顔は蝋の様に白かった。
「この顔がその証拠です」
「どういうことだ」
「おわかりになりませんか」
 彼女は悲しい顔になった。
「この死の淵を覗いた顔を」
「死を」
「はい」
 彼女は答えた。
「そうです。私は間も無く死にます」
「嘘を言え」
「いえ」
 だがその言葉に首を横に振った。
「これがその証拠です」
 そしてその場にゆっくりと崩れ落ちた。まるで糸が切れた人形のようであった。
「マンリーコ様」
「レオノーラ」
 マンリーコは彼女に駆け寄った。
「どういうことだ。死などと。まさかそれも」
「嘘だと思われますか?」
「いや」
 彼女の目を見る。嘘を言っている目ではなかった。
「嘘ではないな。それはわかった、安心してくれ」
「はい」
 それを聞いてようやく微笑んだ。
「一体どういうことなのだ。教えてくれ」
「私は貴方のお仲間に案内されてここまで来ました」
「そして」
「それから伯爵にお願いして牢獄を開けてもらったのです。あの人の妻になることを条件に」
「そうだったのか」
「そしてその時に密かに毒を飲みました。今それが全身に回ったのです」
「ではもう」
「はい」
 レオノーラは微かに頷いた。
「私の手を触れてみて下さい」
「ああ」
 マンリーコは彼女の手に触れた。言われるがまま。それは氷の様に冷たかった。
「これでもうおわかりでしょう。私は間も無く死にます」
「何を言う、死んではならん」
 マンリーコは彼女の身体を揺らしてそう声をかける。
「まだこれからだというのに」
「いえ」
 だがレオノーラはまた首を横に振った。
「貴方以外の方の妻となるのなら。そして貴方をお救いすることができるのなら」
 弱くなっていく声でそう語る。
「私は喜んで死にましょう」
「馬鹿な、私の為に」
「そう、貴方の為に」
 レオノーラは最後に微笑んだ。
「さようなら。ですから」
 もう言葉が消え入りそうになっていた。
「お逃げ下さい。お願いです」
 そう言うと遂に事切れてしまった。手がゆっくりと床に落ち目を閉じた。
「レオノーラ・・・・・・!」
 マンリーコは彼女の亡骸を抱いて慟哭した。もうそれは冷たくなっていた。
「私は愚かだった。貴女の様な天使を疑い侮辱するとは・・・・・・」
 そしてその場に泣き崩れた。だがそれはほんの少しの間だけであった。
「これは一体・・・・・・」
 そこに伯爵が入って来たのだ。
「何故彼女が死んでいるのだ」
「毒を飲んだ」
 マンリーコはレオノーラの亡骸を抱きながら言った。顔は彼女の死に顔を見たままである。
「私を救い自らの純潔を守る為にな」
「何ということだ」
 伯爵はそれを聞いて呆然とした。そしてそれと共に怒りがその全身を包んだ。
「それ程までにその男がいとおしかったというのか!私ではなく!」 
 そして人を呼んだ。
「誰かいるか!」
「ハッ」
 すぐに数人の兵士がやってきた。
「この女を葬れ。そして」
 マンリーコをキッと見据えた。その目には最早冷静さなぞ何処にもなかった。
「この男をすぐに処刑しろ!火炙りだ!」
「ハッ!」
 兵士達は敬礼してそれに応えた。マンリーコはレオノーラから引き離され引き立てられていく。レオノーラの亡骸も運び去られた。
「レオノーラ・・・・・・!」
「案ずることはない」
 伯爵はレオノーラに顔を向けるマンリーコに対して怒りの言葉をぶつけた。
「貴様もすぐに彼女の後を追うことになるのだからな」
 だがマンリーコはその話を聞いてはいなかった。最後にアズチェーナに顔を向けた。
「母さん」
 そして彼女に声をかけた。
「さようなら!これでお別れだよ!」
「連れて行け!」
 伯爵の無慈悲な声が響いた。そしてマンリーコは処刑台に連れて行かれた。伯爵は牢獄に残りアズチェーナを見下ろしていた。やがて彼女が目を覚ました。
「起きたか」
 伯爵は目覚めた彼女を見下ろして言った。
「マンリーコは、あたしの息子は何処だい?」
「知りたいか」
 彼は酷薄な声でそれに問うた。
「勿論だよ、一体何処にいるんだい」
「知りたいか」
 また問うた。
「いい加減にしておくれよ。知っているなら教えてくれよ」
「いいだろう」
 彼は笑いながら窓の方を指差した。
「あれを見るがいい」
 そこには火刑台があった。そこに今マンリーコがかけられていた。
「ああっ!」
 それを見てアズチェーナが叫んだ。
「よく見ろ、御前の息子の最後を」
 伯爵は彼女の驚き、絶望する姿を見て楽しんでいた。アズチェーナは確かに絶望していた。
「ああ、何てことだい!」
「今火が点けられるぞ」
 その言葉通り火が点けられた。そしてマンリーコは忽ち炎に包まれた。
「これで終わりだ。貴様の息子は今地獄に落ちた」
「確かにね」
 アズチェーナは地の底から響き渡る様な声でそれに応えた。
「マンリーコはこれで死んだよ」
「そうだ、御前の息子がな」
「そうだね」
 アズチェーナは無念そうに頷いた。だがそれで終わりではなかった。
「けれどね、それは違うよ」
「何!?」
 伯爵はその言葉に耳を止めた。
「それは一体どういうことだ?」
「あたしは昔赤子をさらったのは知っているね」
 彼女はゆっくりと顔を上げながら伯爵に対して言った。
「知らぬと思うか」
「そうだろうね。それはわかっているさ」
 彼女はゆっくりと言葉を続けた。まるで幽鬼の様な顔で。
「その時あたしが火の中に投げ込んだのはね」
「私の弟だったのだろう。今その仇をとった」
 火は燃え盛っていた。最早マンリーコの姿は何処にも見えない。
「違うさ」
「何が違うのだ」
 伯爵はまだ彼女が何を言おうとしているのかわからなかった。
「あたしが投げ込んだのはねえ」
「誰だというのだ?」
「あたしの実の子だったんだよ」
「馬鹿な」
 伯爵は最初その言葉を信じなかった。
「そんな筈があるものか」
「あるのさ、それがねえ。そして」
 まだ言う。
「マンリーコこそ・・・・・・」
 その目にマンリーコが映っていた。既に炎に焼かれその姿は見えなくなっていたがはっきりと映っていた。
「伯爵、あんたの実の弟だったんだよ!」
「何!」
「母さん!」
 アズチェーナは両手を大きく天に掲げて絶叫するようにして言う。
「仇はとったよ!今とったんだよ!」
 そう叫び終えるとその場に崩れ落ちた。既に事切れていた。
「何ということだ・・・・・・」
 伯爵はその亡骸をまず見た。
「生きているのは」
 マンリーコの炎を見る。そしてレオノーラの青い亡骸が脳裏に浮かんだ。
「私だけか。私だけが・・・・・・」
 絶望に苛まれながらも言葉を吐く。まるで血を吐くように。
「私だけが生きていられようか!」
 伯爵は叫んだ。その絶望の叫びが暗闇の中の宮殿に響き渡った。その瞬間マンリーコを包んでいた炎もかき消えた。そこには灰だけが残っていた。


トロヴァトーレ   完



                                 2005・2・20





何て結末!
美姫 「まさかの事実が!」
そうとは知らずに実の弟を火炙りにしてしまったとは…。
美姫 「誰も彼も悲しいわね」
うんうん。でも、面白いお話でした。
美姫 「ありがとうございます」
そして、お疲れ様です。
美姫 「それでは、また〜」
ではでは。



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